三十代で死にたい

 バスを乗り継ぎ、目的のバス停で降りる。そこから十分ほど歩いて、やっと目的地にたどり着いた。

 霊園だ。田村に連れて行かれたのではなく、美晴姉ちゃんがいる霊園。

 花も掃除用具もないまま、墓に向かう。辺りはまだ明るいが、ひと気はない。明るいと言っても冬だ。すぐに暗くなる。だから他の人は早めに来て、早めに帰ったのだろう。

 空を見上げると、さすがにまだ星は見えなかった。日本酒一升瓶座は影も形もない。

 でもきっと、どの星をつなげても、日本酒一升瓶座はできる。それだけのことだったのだと思う。

 美晴姉ちゃんの家の墓にたどり着いた。敷地の中間くらいの位置だった。墓石は綺麗で、少ししおれた花も供えられていた。墓石の前にしゃがむ。墓には『美晴』の文字は一つもない。

 美晴姉ちゃんのいない墓を俺はじっと見つめた。灰色の石が、俺の顔を薄く映す。墓石越しに俺は俺と見つめ合う。

 そうしてどれほど時間が経ったのだろうか。辺りは暗くなっていて、見上げると、日本酒一升瓶座があった。

 それを見て、思わず笑ってしまう。

「ねえ、俺もさ、三十代で死んでもいいかな」

 夜空に向かって、聞いていた。

 美晴姉ちゃんからの返事はない。

「なんか、少しだけ……美晴姉ちゃんの気持ち、わかる気がするんだ、最近」

 俺の言葉は美晴姉ちゃんには陳腐に聞こえるだろうか。陳腐なことしか言えないから、美晴姉ちゃんの思い出せない表情が、ずっと頭に浮かぶのだろうか。田村の墓参りに付き合った日から、いや、きっとこの臓器を受け入れた日から、ずっと、離れない。白く塗りつぶされたかのように美晴姉ちゃんの最期の表情は見えないのに、顔以外の部分は、つぶさに思い描ける。

 そっと体に触れる。美晴姉ちゃんがいる場所に触れる。

『千春、私が眠ったら、こっそり出て行くんだよ』

 あの日、美晴姉ちゃんはそう言った。

 ラムネだという白い粒を口に入れ、ウイスキーを飲み、俺に言った。薄暗い部屋の中、カーテンの隙間からか細い光が漏れていた。

 美晴姉ちゃんの家の壁にかかったカレンダーを見て、もうすぐ誕生日なんだな、と思った。美晴姉ちゃんはそろそろ三十四歳になる。静かに酒を飲む美晴姉ちゃんを見て、誕生日プレゼントは何にしようかと、意味のないことで悩んだのだ。

「別に、最期まで告白できなかったのとか、悔やんでないけど、でも、ま、会いたいっていうか」

 灰色の墓石は月明りに照らされ、淡く光っている。その上に、美晴姉ちゃんの姿が重なる。

 なぜ、美晴姉ちゃんが最期に俺を呼んだのかはわからない。いつもの遊びの誘いだと思って出かけた先で、待ち受けていたものはあまりにも残酷だった。結局最期まで俺は何も言えず、ただ美晴姉ちゃんの話を聞いていた。その事実だけが、目の前に転がっている。

 言葉を紡ぐ前から諦める情けない俺に、美晴姉ちゃんは一方的に喋っていた。

『別に、理由なんかないんだよね。生きていればさ、楽しいことだってある。辛いこともある。当たり前。そんな当たり前の中に、偶然、死にたいがあっただけ。たぶんね。だからさ、昔から、三十代で死にたいって思ってた』

「うん。優しい人も周りにはいっぱいいる。くだらないことで笑い合っているだけで心底楽しい。でも、全部遠くにあるっていうかさ……」

 記憶の中の美晴姉ちゃんに、今更返事をしてみる。

 美晴姉ちゃんは色々話していた。そうやって誰にも言えなかったことを、誰でもいい俺に話していた。そうしていつしか眠りについて、俺は麻痺したような体を動かして、家に帰った。

 次の日、美晴姉ちゃんが死んだという連絡がきた。

 そのあと、俺は美晴姉ちゃんの臓器を貰った。

「美晴姉ちゃんがいないと、俺……」

 必死で言葉を重ねる。ぐっと目頭が熱くなって、目が潤む。唇を噛みしめ、目を閉じる。

「……っ」

 同時に、美晴姉ちゃんの顔が浮かんだ。思い出せなかった顔だ。

 死の直前、眠りにつく直前、美晴姉ちゃんは笑った。目を細めて、いつもと変わらない笑顔を、浮かべていた。かつて『三十代で死にたい』と言ったときと、変わらずに。

 墓石に手を伸ばす。冷たい。

「わっかんないや」

 思い出せなかった表情を思い出せても、美晴姉ちゃんが何を考えていたのか、一つもわからなかった。思い出せさえすれば、何か変わるような気がしていたが、そんなことはなかった。

 俺が今、三十代で死にたいと思っているのだって、美晴姉ちゃんの後を追いたいからで、美晴姉ちゃんの死にたいとはきっと違う。

「美晴姉ちゃんと一緒になったって、わからないもんは、わからないんだね」

 ワイシャツの上から、皮膚を掴む。ここに入っているのは、美晴姉ちゃんではなく、臓器だ。

 受け入れたら、少しはその考えがわかるんじゃないかと、幻想を抱いていた。

 もしかしたら俺のために死んでくれたのかもしれない、なんていう馬鹿げた妄想とか、俺のために死ぬなんて勘弁だという哀しみとか。

 そんな気持ちに対する答えも、与えてくれるかもしれないと。

 涙が次から次へとあふれて、地面に跡を残す。垂れそうな鼻水を思い切り吸うと、大きな音が霊園に響き渡った。

「俺の気持ち、勝手に解釈する母さんも。経過観察で言いよどむ先生も。俺のために墓参りする田村も。俺も、みーんなばかだ。美晴姉ちゃん」

 俺が幸せにするでも、死んでほしくないでも、少しは気持ちを吐いていれば、誰でもいい相手から、俺になれたのかもしれない。未来は少し、変わっていたかもしれない。

 人の気持ちなんて、聞かなければわかるわけがない。聞かずに知った気持ちなど、ただの妄想か願望だ。

「おバカちゃんって、やつだ」

 目を擦る。

 俺の口に、仄かに笑みが浮かんだ。














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