小児科医
会計を終えて、病院を出る。壁に沿って建物の裏手に回り、小さな花壇の並ぶ場所に出た。花壇の前にある薄汚れたベンチに腰掛ける。風が吹いて、伸びた前髪をさらっていった。冬の訪れを感じさせる冷たい風は、建物の陰に位置する場所なこともあって、より冷たく感じた。段々とここで過ごすのは辛くなってきたが、入院患者の散歩の定番である表の庭園より、雰囲気が好ましい。
ベンチに背を預け、へその少し上に触れる。経過良好ということは、臓器はうまく適合したということだろうか。
「まあ、美晴姉ちゃんだからなぁ……」
俺と合わないわけがない、などと、自惚れたことを考えてみる。
未だに美晴姉ちゃんの一部がこの体にあるなど、信じられなかった。可愛くて、優しい彼女が、小さく、小さくなって、今、俺の中にいる。
目を細め、綺麗に笑う美晴姉ちゃんのおかげで、俺の体は今、人生最大に元気なのだ。だからこそ、直接礼を言えないことに違和感しかなかった。
「美晴姉ちゃん……」
本当にこれでよかった?
問いかけは、誰にも届かない。届けようとも思わない。
「モテないぞー、お前。独り言で女の名前は」
ベンチから背を離し、声の主に目を向ける。
「なに、またサボり?」
「こういうのはサボりって言わないの。休憩、休憩」
白衣を着たまま、その男は俺の隣にどっかり座る。そしてポケットから出したココアシガレットを食べ始めた。
この病院の小児科医である田村亮介だ。寝癖そのままの黒髪に、脚を大きく開いてベンチに座り、ココアシガレットをばりぼり食べる姿は、とても子供に相対すべきとは思えない。小さい頃からこの病院に通っているので、もう見慣れてしまったが。
「今日も検診?」
「うん」
「どうよ、調子は。ばっちりだろ?」
俺の方をきちんと見て話す田村と、敢えて目を合わさない。しおれかけたパンジーが、弱い風に揺れているのが見えた。
「そう思ってるなら聞くなよ」
「患者の口から聞くのが大事なのー」
「俺はお前の患者ではない」
「つれないなぁ、千春くん」
見なくても瞳を潤ませて、かわい子ぶっているのがわかる。こういうノリはせいぜい高校生までじゃないのだろうか。
「大の大人が恥ずかしい」
心の声を代弁するかのように、田村が言った。俺は小さく舌打ちをして、ため息を吐く。それから田村の方に視線だけ向けた。
「そんな達観したようなふりしてもつまらんぞ。まだまだ若いのじゃから」
そう言いながら、ココアシガレットを差し出してくる。
「キャラぶれぶれなのどうにかなんない?」
一本抜き取って、咥えてみる。触れた部分から舌に甘い味わいが広がる。
「はっはっは、ばれたか」
「ばれるとかの問題じゃなくない」
歯に力を加え、シガレットを折る。口に入った方を、音を立ててかみ砕いた。横からも同じ音が聞こえる。
放課後に、日陰のベンチで、男二人並んでココアシガレットを食べる。何の罰ゲームだろうか。そう思って、口元が少し緩む。
「あ、そうだ、千春。今週の日曜暇?」
「別に予定はないけど」
笑顔を引っ込め、返事をする。
「じゃあ、開けとけ。付き合ってもらう」
「なに?」
眉を顰め、訝しげな視線を田村に向ける。しかし田村は無視し、一気に残りのココアシガレットを口に入れた。盛大な音を立てながら咀嚼し、手を振り、裏庭から去っていってしまう。
「なんなんだ……」
呆れた声を、きっと田村は捉えていただろう。
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