中編

 これからどうすればいいのだろう。

 髪はまだ金色だ。ドレスもアクセサリーも持っている。けれどアタシは、身につけているもの以外全ての財産を失ってしまった。


 ここは国外。馬車に押し込まれ、連れて来られた先は名前も知らない国境沿いの街で、そこからトボトボとずっと歩き続けている。

 空腹になったのでアクセサリーを売って金を作り、近くで売っていた適当なものを食べた。美しかったアタシのメッキが剥がれていくような気がして怖かった。


 ああ、どうしてこんなことに。

 アタシは努力した。努力しても幸せになれないのは、生まれが悪かったせいだろうか。


 ――あてもなく彷徨いながら思い出していたのは、生まれ育った家のこと。


 アタシを産んで三年もせずに浮気し、家を出た母親。酒を浴びるように飲むだけで働かない父親。

 その中でアタシはかろうじて生き延び、五歳になる頃には大人に混じって働かされるようになった。


 十歳の時に父親は死んだけれど関係ない。どれほど厳しい仕事でもできなければ明日食っていけないのでやるしかないのだ。

 そんな切羽詰まった日々を、聖女に選ばれるその日までずっと続けていた。


 幸せなんて見えなくて、毎日歯を食いしばって生きていたから、聖女になれると聞いた時は最高に嬉しくて。なのに今は、あの頃に逆戻り……勝手の知らない隣国に移されたから状況はもっと悪い。


 見知らぬ森の中に入る。


 いっそのこと背後から獣にガブリとやられて逝った方が楽なんじゃないか、なんて思った。

 この先生きていくとして何の希望がある? 富も名声も失い、金が尽きたあとは重労働するか体を売って娼婦になるかしかないようなアタシには、真っ暗闇しか見えないから。


「幸せに、なりたかったなぁ」


 せっかく聖女になったのに、何もできなかった。


 アタシはどうすれば良かったのだろう。

 わからない。わからなくて悔しくて、涙がこぼれそうになったその時――。


「――――それなら、私が救ってやろうぞ、女神の愛し子よ」


 低く、頭を震わせるような声が、響いた。


 それは確かに聞き間違いではなかった。

 伏せがちにしていた顔を上げれば、森の奥の方、遠くに白いナニカが見えた。もさもさの毛をして長い尻尾を揺らすナニカが。


 まさかあれが喋ったというのだろうか。

 化け物? それとも単に、疲れ切ったアタシの幻聴?

 しばらく白いそれを見つめていると、向こうからのっしのっしと歩いてきた。その歩き姿を見て気づく。


「猫、ですか……?」


「聖女の知る生物ではそれが一番近いであろうが、猫ではない。私は神獣、マイロという者だ」


 神獣。それはおとぎ話の中の存在だ。

 女神様が作り出し、地上へと送り出したそれは、人知れず人間たちを監視している。だから悪事は働いてはならないと、子供への教訓に使われているのだと聞いたことがある。

 アタシはおとぎ話なんて両親から聞かせてもらった経験は一度もないが。


「嘘でしょ、本当にいるの、神獣って」


 驚きのあまり素の口調になる。


 至近距離で見れば見るほど、ずんぐりむっくりな猫にしか思えない。

 すぐ目の前までやって来たので、アタシは試しにもさもさの毛に触れてみた。そして、ふぁっと目を見開く。


「何これ、柔らかい!」


「そうであろう、そうであろう」


 その感触はあまりに気持ち良過ぎた。

 ふわふわで、もふもふ。突然現れた温もりに全身の力が蕩け、アタシはそのマイロとかいう神獣の毛並みに顔を埋めてしまう。


「全部どうでも良くなるくらいに気持ちいい……」


「私は女神様のお力をわけていただいている。故に私の毛には聖なる力が宿っているのだ」


 先ほどまであれほど思い詰めていたのに、わけもわからない神獣に触れただけで悩みが薄らいでいる。

 説明がつかない、あまりにも異常な事態。それなのにアタシは顔を上げられず、両手を毛並みに突っ込んでもふもふもふもふと撫でくりまわすことをやめられなかった。


「好きなだけそうしているが良い」


 猫のような真っ青な瞳がアタシを見つめ、小さな牙を見せながら微笑んだ。




 マイロは女神様に遣わされた神獣のうちの一匹。

 普段は決して人の前に姿を現さず、森の奥でひっそりと生息しているのだが、女神様から直々に頼まれ、女神の愛し子――つまりアタシを救う役目を与えられたのだという。


「そんな話、にわかには信じられない……」


「そもそも聖女が存在する時点で女神様の存在は確固たるものだと理解しているであろう? 女神の愛し子よ、それならばなぜ神獣の存在を疑うのだ?」


「それはまあ、確かに」


 喋りながらもずっともふもふさせてもらっている。

 グリフィンス王国に建てていた豪邸にもたまに猫がやって来ることがあったが、それとは比べ物にならない心地良さだ。きっとマイロが神獣だからなのだろう。


 手だけでは我慢できなくなり、普通の猫の三十倍もある大きな背中に乗っかり、ドレスに毛がつくのも構わずに全身で毛並みを味わうことにした。


「神獣の仕組みも、あんたがどうしてアタシの目の前に出て来たのかもわかった。じゃああんたは、アタシを助けてくれるわけ? 確かにこのもふもふは気持ちいいけど、神獣って言ってもずんぐりむっくりな大型猫なんだからお金を吐き出してくれるんじゃないでしょ?」


「金は出せぬ。しかし私には愛し子の身も心も救うことは可能だ。望むなら、幸福へと導くこともな」


 出会ったばかりの相手に言われてもどうにも信用できない。

 金無くしてどうやって生きるというのだ。待っているのは過酷な労働、泥水を啜る日々に決まっている。


「怪訝な顔をしているな。仕方あるまい、実績で示すとするか。

 女神の愛し子よ。五日間私の元で過ごせ。その間私が汝の心を満たすことができなければ、この森を出て行くが良い。しかし汝を私が幸せにすることができたなら――」


 尻尾でアタシの金の神を撫でながら、神獣マイロは耳心地の良い低い声でとんでもないことを言った。


「私の花嫁と、なってほしい」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 蕩ける。蕩ける。体がふにゃふにゃになって、力が入らないくらい。


「ふわふわ……。このまま一生こうしていたい……」


 朝はマイロに抱かれて目を覚まし、昼はその背中に乗って森を駆け回り木の実を集め、共に食事をとりながらゆっくりとした時間を過ごした後はまたマイロの腹の毛の上で眠りにつく。


 あの出会いから四日目。アタシはもふもふでふわふわな日々を過ごしていた。

 マイロは宣言通りにアタシを全力で幸せにして満足させようとしているのだ。「神獣の花嫁なんて冗談じゃない!」と言ったのは初日だけで、すぐにその魔性の毛並みに我慢できなくなり、あとはひたすら甘やかされる一方だった。


 これが愛というものなのかも知れない。

 両親に面倒を見てもらえた覚えのないアタシは、愛というものを知らなかった。金が全てだと、幸せになるためにはそれしかないのだと思っていた。


 婚約者だった顔だけ王太子のレイダールも、アタシに愛を注いでくれることはなかったし。


 花嫁になるだなんて言うけれど、神獣のマイロと子作りなんてできるのだろうか。

 そんな風に思ったりはしたが、いつしかこのあたたかな愛を心から求めるようになっていた。もっと触れ合っていた。もっと言葉を交わしたい。温もりを感じたい。


「汝は可愛らしいな、女神の愛し子よ」


 身も心も癒され、ふにゃりとした笑顔を浮かべるアタシに寄り添い、目を細めるマイロ。

 その低い声が全身に染み渡って気持ちいい。お返しとばかりにアタシが彼の首元をくすぐると、ゴロゴロと雷のような音を鳴らしていた。


「女神の愛し子だから、アタシとこんな風に接してくれるの?」


 気になって尋ねてみる。

 するとマイロはゆるゆると首を振った。


「傷ついてなお、その魂が濁っていない。それを見たから私は、汝を花嫁にしたいと願ったのだ。……いわゆる一目惚れであろうな」


「ああ、そう」


 平和だ。この森での暮らしは、どこまでも平和。

 美しく着飾る必要もない。幸せな気分になれるものを探して豪遊しなくてもいい。


 黄金にギラギラ輝く幸せはもういらない。白くふわふわした甘やかな日々に満たされている自分がいた。

 ……聖女の務めを果たせないことは、少々気がかりではあったけれど。


 アタシが今まで癒してきた人々は、アタシの癒しを待っていたはずの人々は、どうなっただろう。

 聖女を続けていたのは稼ぎのためが第一ではあるが、一応は聖女らしく苦しむ人が減ることを望んでもいたのだ。


「でももう聖女に戻れることなんてないんだし、気にしても仕方ないか」


 そう呟いた、その翌日。

 まさかあの顔だけ王太子がアタシを連れ戻しに来るなんて思わなかった。

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