第三十七話 悪女、攫われる
(二人きりでこうして過ごせるなんて……一体いつぶりのことでしょう。まるで夢みたいです)
食卓をアルトと一緒に囲みながら、私は感慨に浸っていた。
腕によりをかけた贅沢な料理たちはすでに半分ほど平らげられており、それなりに満足してもらえたことが伺える。実はアルトと再会してからというもの、公爵家当主代理の仕事の傍らで暇さえあれば料理の練習をしていたのである。その甲斐があったというものだ。
などと考えていると、それまで静かにスープを啜っていたアルトがふと顔を上げ、口を開いた。
「……あのさ、エメリィ」
「なんですか?」
「僕のせいで、ごめん」
急に謝られたので、私は首を傾げる。
別に何もされていない。それどころか私はこんなにも楽しんでいるのに。
「あら、どうして謝るんです。私は今あなたが手料理を食べてくれている、それだけで嬉しいんですよ」
「……本当は僕は、エメリィに謝らなきゃいけない。だって、今まで君に辛い思いをさせたのは僕だ。僕さえなんとかしていれば、君がそんなに手をボロボロにしてまで料理する必要なんてなかったはずなんだ。使用人に囲まれて、何の不自由もなく過ごせていたはずなんだよ。
それに僕は君に与えられてばかりだ。君は悪女だ。とんでもない悪女だよ。でも、君は体を張ってまで僕たちを、いや僕を守ってくれたんだろう」
「厳密には違いますが確かにそうですね。
私は、アルトのためなら命だって惜しくないと、そう思っていますよ」
「情けないよ、僕は。こんなにも情けない人間なのに、君の心を縛りつけてしまっていることが悔しい。僕さえいなければ君は、もっと相応しい人と……」
「ふふふっ」
私は笑った。
しんみりと、重たくなった空気を破るように。
だって祝すべき今日という日に暗い顔なんてしていたくないから。
「アルト、そんな泣きそうな顔しないでください。あなたは優し過ぎる。もちろんそんなところが大好きですけれど、優しさのせいでそんなに思い詰めるあなたを見ているのは嫌なんです。
アルトが私を縛りつけられているんじゃありません。逆ですよ? 私があなたを放さないんです。乙女の恋心、舐めないでください」
そう言いながら私は、アルトをまっすぐ見つめる。
これが私の意志なのだと、今一度はっきり伝えるために。
「相応しいとか相応しくないとか、そんなのはどうでもいいことなんです。だって私はあなたのことが大好きなんですから。
さあ、冷めないうちに料理、食べてしまってください」
ゆっくりでもいい。
彼が罪悪感なく私を見てくれるようになるよう、私は頑張ろう。
それが彼と結ばれるために必要なことならば、どんな努力だって惜しんだりはしない。
「……ありがとう。料理、美味しいよ」
ぎこちなくはあるが、少し元気を取り戻したのかうっすらと笑みを見せるアルト。
その表情が見られただけで、私にとってはとても幸せなことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……じゃあそろそろ帰るよ。長居しても悪いし」
食事を終え、それからしばらくまったりした後、帰って行こうとしたアルト。
しかし私は彼を帰らせるわけもなく、強引に引き留めた。
彼と二人きりの時間を少しでも長く過ごしていたい。だから、
「今晩はここへ泊まって行ってくださいませ。せっかくのお祝いなんですもの、夜は長いですし、一緒に勝利の美酒を呑み明かしましょう? それにお夕食の分ももう用意してあるんです」
「えっ」
「ふふ、あなたに拒否権はありませんよ? ちなみに事前に侯爵様にも許可は取っておりますので」
昼食ももちろん心を込めて作ったが、夕食はもっと華やかなものにする予定である。
ついでに翌朝の分も作るつもりだ。彼の胃袋を掴むには、これくらいやらなくては。
意気込む私だが、対してアルトは予想通り納得のいかない様子で首を振った。
「夕食はともかく、泊めてもらうのはさすがに……」
「大丈夫です、別邸の部屋のほとんどが空いているので部屋に困ることはありませんから」
もちろん彼が問題にしているのはそんなことではないのはわかっている。
現在、使用人も護衛も皆無のこの屋敷には私とアルトの二人しかいない。そんな状態で異性を泊めるなど非常識極まりないことだ。だが、うっかり間違いが起こったとしても私的には何の問題もないので構わないと思っていた。むしろ間違いが起こってほしいくらいなのだから。
無論、残念ながらアルトがそんな人柄ではないことはわかっているけれど。
渋々ながらも残ってくれるアルトは、やはり優しい。
恋心が昂り過ぎておかしくなりそうだ。私はなんとかにやけ顔にならないよう苦心しつつ、豪勢な夕食を作るために急いで厨房へ向かった。
……そこで待っていた脅威に気づきもせずに。
厨房の真ん中、粉々になって散乱する窓ガラスを踏んで立つ人影。
一人ではない。複数いる。アルト以外誰かを招いた覚えはない。間違いなく侵入者だ。
それはわかったが、それ以外は何もわからない。
(屋敷の警備は厳重だったはず。なのにどうして……)
使用人や護衛抜きに過ごしていただけあって、普通の屋敷では施さないほどの装置……端的に言ってしまえば罠をたくさん仕掛けてある。
常人では到底屋敷に近づくことすらできないというのに。
あまりに急なこと過ぎてわけがわからない。
どうして侵入されたのか、どこの誰なのか、何が目的でやって来たのか、そしてなぜよりによって今なのか――。
しかしそれを彼らに問いかけることはできなかった。
ガン。
突然鳩尾あたりにやって来た衝撃。
それが侵入者の一人、名も知らぬ男に殴られたのだと気づいたのは数秒経ってからのことだった。
その時にはすでに私の体は横倒しになっていて、大きく視界が傾いでいた。あっと声を上げる暇もない。
意識が途切れる寸前、頭を過ったの考えは(このままでは夕食が作れなくなるかも)という、この状況に相応しくないことだった――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
うっすらと瞼を開けると、そこに広がっていたのは一面の闇だった。
どうやら目隠しをされているらしいと気づいたのはしばらく経ってからのこと。でもこうしてこんな状況に陥っているのかがさっぱりわからなかった。
背後から殴られたような衝撃を受け、倒れたのは覚えている。しかしそれ以降の記憶がない。
ここはどこだろう。手足が紐で縛られているのか、全く動けなかった。
(アルト! いませんか、アルト!)
そう叫ぼうとし、しかし口からはモゴモゴという声しか出ない。口に布をかまされていたのだ。
現状から考えられる可能性は一つ。誘拐。それしかなかった。
(でもどうして誘拐など……)
戦争中ならまだしも、戦争は終わったはずだ。
それとも浮かれた気分に乗じた盗賊が私を襲った?
目的は何にせよ、今の私にはそれを知る術がないようだった。どうにかして拘束を解かなければ。でもどうやって?
そんな時間がどれほど続いただろう。
長くも感じられたし、非常に短くも思えた。胸の中に恐怖が湧き上がって来て、震えそうになりながら必死で自分に言い聞かせていた。
(大丈夫。私は悪女。何事にも動じない、悪女。だから大丈夫……)
解放は突然だった。何者かの足音がして、目隠しと猿ぐつわが一気に剥ぎ取られたのである。
そして私は、すぐ目の前に立っていたその人物の姿を見た。
こちらを見下ろし、ニヤニヤと笑う栗毛に菫色の瞳の少女には見覚えがあった。あり過ぎた。
(まさか)
それは、死刑になったはずの義妹――ジルであった。
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