第二十話 彼女は本物の悪女だった 〜sideジル〜
――ゴーン、ゴーン、ゴーン。
低く重々しい鐘の音がわたしの体を震わせる。
周囲を歩いていた人々は立ち止まり、ガヤガヤと何事か囁き合いながら音のした方を見ていた。
この国には有事になると、王城をはじめとし、国内各地にある騎士団の詰所などで鐘の音を鳴らして知らせるという風習があると聞いた。
今までの十七年の人生で聞いたことはなかったけれど……すぐにこれがそうなんだとわかった。ということは。
「いよいよやりやがったんだわ……あいつ!」
某公爵令嬢が隣国と密通していたことが明らかになったらしい。
その噂が流れてきたのはつい二、三日前だった。
公爵令嬢と聞いて、思いつく人物は一人しかいない。
シェナ・フロー公爵令嬢。エメリィの元婚約者と婚約していたあの意地悪な女。貴族令嬢の鑑とか社交界の華とか大した二つ名を持ちながら、わたしの態度が気に入らなかったのか何か文句ばかり言ってきたのを思い出す。
(フロー公爵の娘が隣国の皇子と密通? そんな馬鹿な。でもあり得るわ。あの侯爵令息と親しげな様子はなかったし、別に想い人がいるのだろうとは思っていたけど、まさか隣国の皇子だったとはね。けっ、あんな偉そうな態度して結局腹黒いんじゃないのさ)
もし噂が本当なら数年前からずっと手紙のやり取りでもしていたのだろう。
それがどうして今頃になって表沙汰になったのか? そんなのは決まっている。彼女だ。彼女が、やらかしたのだ。
「お義姉様……!」
わたしの宿敵、わたしを貶めたあの女。
奪ってやったものの中であの女が唯一執着を見せたのが婚約者の男だった。それでこの状況の説明はつく。
でもまさかここまでやるとは。
「信じられない。あの女、とち狂ってるわ……!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
牢獄からの逃亡劇の後、わたしは道ゆく先々で平民の男たちに貢がせながら旅をし、悪女エメリィを恨んでいるであろう貴族たちの家々を訪ねて助けを求めた。
しかし貴族籍を失ったわたしに味方してくれる人物はなかなかいない。かつて遊んだ男ですら、わたしを罪人だと罵り、汚い物であるかのように扱った。
わたしはまだ、こんなに美しいのに。
汚れてなんていない。わたしはまだ綺麗。綺麗なのに。
泣きそうになりながら、きっと誰か力を貸してくれるはずと信じて進み続けた。
そんな最中に聞こえてきたのがあの噂だ。そして戦争が始まった。
「……冗談じゃないわ」
馬鹿げている。男一人を手に入れるためにどれだけの罪なき人間の命を奪うつもりなのか。自分のその身で誘惑して、ベッドに誘い込めばいいだけの話ではないか。世界を巻き込んでしまおうだなんて正気の沙汰ではない。
きっと侯爵令息に婚約破棄させたかったのだろうが、やり方がいくらなんでも無謀過ぎる。
エメリィという人間は本物の悪女なのかも知れない――そう思わざるを得なかった。
それともエメリィはそれほどまでにわたしを否定し、勝ち誇りたいからここまでするのだろうか。
わけがわからない。気持ち悪い。吐き気がするほど気持ち悪かった。
このインフェ王国とジェネヤード帝国が戦えばどちらが優勢になるかと言えば、当然後者である。
エメリィへの復讐を誓ったわたしだったが、戦争に巻き込まれて無駄死になんてしたくない。今は戦禍を逃れ、とにかく他国に逃げないと……。
そこまで考えて、わたしはある可能性に思い至ってしまった。
(でもそれじゃああの女に痛い目を見させる機会がなくなるかも……)
わたしが他国に避難し、戦争が終わってから戻って来た時にはエメリィが死んでいた、なんてことになっていたとしたら?
もちろん、十年間いじめ抜いてやっても何も言わずに耐えていたあの女のことだからそう簡単に死ぬとは思えないが、戦争を生き抜けるかどうかはわからない。生き残ったとして、逃亡を選ぶ可能性だって充分にある。そうなったらわたしはエメリィを見つけ出すことができるのだろうか。
死ぬにせよ逃げられるにせよ、もしもわたし自ら手を下せなければきっと一生後悔する。でもいち平民のわたしが戦争を乗り越えられる? 絶対無理。ならどうすれば。
諦めるな。ここで諦めたら抜け出してきた意味がなくなる。
わたしは必死で頭を巡らせた。
たとえば、隣国の魔の手が及ぶ前にアロッタ公爵領に行って、戦争をおっ始めたのがあの悪女だと言いふらして領民たちにクーデターを起こさせるなんていうのはどうだろう。
だが問題はわたしはエメリィが黒幕であるという証拠を持っていないこと。確信はあるのに、事実だと言い張っても誰も信じてくれないに違いない。
それは貴族連中でも同じこと。どうせわたしの戯言だろうと一笑され、最悪牢に入れられる。
それならば裏社会の暴力団を雇って公爵邸を襲わせようか。……ダメだ、相手は二大公爵家の一つ。フロー公爵家が潰れた以上、この国では唯一にして最大の貴族家ということになる。そんなところを平民の荒くれ男数人の力で突破できるはずがない。かと言ってわたし単身で乗り込んで暗殺しようとしてもうまくいくとは思えなかった。
それとも隣国の戦力を借りてアロッタ公爵家を潰す? ……あまりにも無茶過ぎる。そもそも隣国に行ったところでツテを持たないわたしは何もできないだろう。
ダメだ。いくら考えても逃げる以外の選択肢が見えない。
頭を抱えて地面に蹲る。悔しくて腹立たしくて、天を仰いで恨み言でも叫んでやろうと思った時だった。
目の前を、豪華な馬車が一台通りかかったのは。
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