何もかも手につかない夜に

起こった出来事についてつい悪い方向に考えを巡らせてしまい床についても中々寝付けずにいた。ふと時計を見ると長針が2を刺している。明日も仕事なので余計な事は考えずに不貞寝してしまった方が良いのだがそういう訳にはいかず今度は些細な音や体の微小な違和感が気にかかってしまい余計不安感に拍車がかかってしまう。

一向に眠れる気配がせず次第に喉の乾きが気になってきたので一度起きて台所まで水を飲みにいくことにした。

蛇口から水を出してコップに溜めた水を飲み干したがあまり喉の乾きは癒やすことが出来ない。

「呑んじゃうかぁ」

そう呟きながら流しの下に買い置きしていた缶ビールを見つけ封を開ける。生ぬるく爽快感もない液体を喉に流し込んでいると視界の端に人影が見えた。

「お母さんも起きてたの」

よく見ると明梨が立っていた。

「もしかして起こしちゃった?」

明梨は首を横に振る。

「ううん、全然眠れなくってさ」

「まあそうなっちゃうよねー。お母さんも同じ」

明梨から返答はなく自然といつもの食事のように食卓に向かい合う形で座り込む。一

「ねえ、お母さん、あの椎名って人が言ってたお父さんのことって何?」

一呼吸置いたところで明梨が恐る恐る話題を切り出した。

私はそんな様子が何だか微笑ましく思えてきてつい笑ってしまう。

「お父さんのことなんだからそんな深刻に聞かなくたっていいじゃない…フフ」

「ちょっと笑い事じゃないんだよ。私からしてみたら変な奴から絡まれてその上、その相手がお父さんの知り合いを名乗ってきて…もう何が何だかわかんない」

「笑い事じゃないのは分かってるんだけど、つい可笑しく思えちゃって茶化してる訳じゃないのよ」

変なツボに入ってしまった私を見ていた明梨はまともな会話が出来ないと思ったのか大きなため息をつく。

「もういいや、疲れたし戻る」

明梨はそう言うとリビングから出て階段を登っていきリビングには私一人が残された。

そんな寂しいリビングを見た瞬間、今までの笑いようが嘘だったかのように笑顔は消え、反対にため息が出た。

娘に余計な不安を覚えさせることになってしまった自分が情けない。

「ねえ…早く帰ってきてよ」

そんな事を言ってみても返答があるはずなく只々、静寂が続く。


-----


ジリリリ…

豪快な目覚ましの音が家に鳴り響く。

いつの間にか朝になっていたことに気付きくたびれた体を起こす。目覚ましの音に反応して飼い猫のミャーコがどこからともなくやってくるのだがその気配はやはりなかった。

「やっぱ帰ってきてないよね…」

数日前から愛猫のミャーコが行方不明だ。

私の家では母親が猫アレルギーのため猫を飼うことが出来なかった。しかし私は、猫が小さい頃から好きでいつか自分で育てようと決めていた。

そんな気持ちを持ち続けたまま年月が経ち、半年程やっと貯金が貯まったのでペット可のマンションに引っ越した。

引っ越したその日には父親から一人暮らしの餞別ということで憧れだったアメリカンショートヘアを飼い与えてもらった。ミャーコと名付けたその猫は本当に愛くるしく会社やプライベートで嫌なことがあったとしても帰ってミャーコを見ると全てがどうでもよくなった。それほど溺愛しており私の心の支えでもあった。

そのミャーコが数日前に突然姿を消した。

近所はもちろん何かの気まぐれで行っているかもしれないと考え隣駅の範囲まで捜索範囲を広げて探してみたが見つけることが出来なかった。

「別に良いんじゃない?また新しい猫にしたらさ」

一応、母に電話で相談してみたが癇に障る答えが返ってきて衝動的に電話を切ってしまった。もちろん警察に行って相談するのが賢明なのだと分かってはいたが巡回中の警官が偶然会いでもしない限り真剣に探されることはないと考えていた。


その日も一日中、上の空でミャーコのことを考えながら仕事を終えた。

余計な仕事を増やされないうちに定時でさっさと上がるとその足でいよいよ最寄りの警察署へと向かう。

最寄りに着くと最速で警察署に行くまでのルートを脳内でシミュレーションした。半年も住んでいると別に詳しくなろうとしなくても勝手にその街の様子が大体わかってくるものだ。そんな私が最速と導き出したのは商店街を途中で抜け路地裏を進むルートである。夕食の準備のため多くの人で賑やかな商店街を行くが、中華料理屋とジーンズショップの間にある狭い曲がり角から路地裏へと入っていく。一応、人一人くらいは通れるであろう道ではあったがゴミが散乱しておりヒールで来たことを後悔した。何とか汚い道を進んでいくと警察署が見えてきた。もう一歩踏み出せば警察署だ、というところで視界の隅に猫という文字が見えた。ミャーコが消えて以来、猫という文字に過敏に反応するようになっていた私はすかさず文字のあった方向に向き直す。視界を右往左往させると電柱の少し下の方に猫という文字を見つけた。

『あなたの飼い猫探しから旦那の浮気調査まで何でも請け負います』

正体は胡散臭い謳い文句を説く探偵事務所の広告であった。

目の前の警察署と探偵事務所の広告を見比べて自分の中で天秤にかける。確かに警察署に連絡したら案外しっかりと見つけてくれるかもしれないし、それが正規の手段である。しかし同時に迷子として放置され続けるのではないかという考えがよぎってしまう。かといって探偵事務所に頼ったとしても見つかることはなくただお金をむしり取られる羽目になるかもしれない。

選択を迫られた私の脳内天秤が結局警察に傾きつつあったが、広告の下の方に小さく書かれた文字を見つける。

『只今なら初回依頼半額で請け負います!』

私の秤が一気に探偵事務所へと傾いた。


事務所へ電話を掛けてみると若い男性が電話に出た。しかも電話応対に慣れているのかあっという間に今週末に事務所へいくことになった。

当日、事務所だと知らされた場所に行くと既に寂れて『入居者募集中』と大々的に張り紙のされた3階建てのビルがあり、件の事務所はその2階に入っているようだった。私の中の疑念がより深まったがここまで来たからには意を決して事務所に入ることにしてみる。

中に入ると意外にも物が整理されており年季こそ入っているが高価だと分かる来客用のソファがこれまた高価そうな机を境に対になって並んでおりきっと客間なんだろうと予想できた。そこから視線を奥にやると事務机と椅子が一組あるだけで後は過去の案件であろう書類がいくつかのラックごとにまとめられている。軽く見た限りで分かるように個人で営んでいる探偵事務所のようだ。

「あ、今行きます!」

どこからともなく快活な男性の声が聞こえてきて、並んだラックの一つの裏からぬるっと背が高く細身の男が出てきた。きっとこの男が探偵なのだろう。

「本日はご足労いただきありがとうございます」

探偵はそう言うと自然な笑顔で名刺を差し出した。え、あ、はいと適当な返事をして名刺を受け取って一緒のタイミングでソファに腰を掛ける。

若干の不安を覚えたが本題の猫探しの話は電話の時のようにするすると進み、料金の話題へと話が移った。探偵事務所の相場は事前に調べた限りでは個人の場合、5から10万円程らしい。ともあれ広告には初回依頼半額と書いてあったのでそこからさらに半分くらいだと踏んでいた。

「料金ってどうなってきますか?」

「あーそうですね、まず見つかるまでの日数に応じてご請求料金が変わってきます」

「そうなんですか」

「結構この業界では一般的です。あと…」

「あと?」

「それと無事、猫を見つけることが出来た場合には別途成功報酬を請求して…」「はい?」

そんな話は初耳でつい話を遮ってしまう。私の疑念はより深まった。

「あの初めて聞いたんですけど…」

「結構あるんです、どこも事前に説明せずに解決後に請求したりします。そこで私からちょっとご相談があるんですが…」「あ、急用を思い出しました!」

どんどん話がきな臭くなってきたので話を再び遮っておもむろに椅子から立ち上がった。このまま急用に向かうフリをして急いでここから出ていこうと考え、挨拶もそこそこに足早に事務所をあとにする。

危うく法外な値段をふっかけられるところだったのを回避できた。そんな気持ちで階段を降りていると後ろから慌てた様子の探偵が降りてきて声を掛けられる。

「あの!まだ料金のご説明が終わっていなかったんですけど…」

「すいません!ちょっと急いでるので」

「でもこのままだと多分、そう言ったきり二度と事務所には来ないですよね」

相手は探偵を名乗るだけあってこちらの思惑は見透かされていた。

「だったらぶっちゃけるんですけど、どこまでの金額を私にふっかけようとしてるんですか?確かに世間知らずそうな女が一人で来たからお金をとれるだけとってやろうって気持ちも分かるんですけど」

「あーそう思われちゃいましたか、あちゃー」

そう言って探偵はボサボサの頭を掻く。

「俺もまだまだですね、折角初めてのお客さんなのに俺が下手な説明をしてしまった…。すいません」

「反省なら事務所でしてください、それじゃ──」「2万円でいかがですか」

探偵から思わぬ金額が提示され再び歩き始めようとした足が止まる。

「でもそこから成功報酬も乗っかってくるんでしょ?」

「その話なんですけど、まだ途中でした。その成功報酬なんですけどお客さんのその時の俺への評価次第で支払うかどうか決めてもらって大丈夫です。払うとしてもそれも自由で財布に持て余してる1円玉でも全然構わないです」

私が思っていたのと違う話が展開されたので思わずその場に立ち尽くしてしまう。しばらく考えてから私は答えを出した。

「そういう事なら分かりました。でも成功報酬は期待しないで」

「もしかして俺を頼ってもらえます?」

「だからそうだ言ってるじゃん」

探偵が嬉しそうな顔を見せたのが私にも伝わってきて思わず口調が崩れてしまう。

「それでは全力で取り掛からせていただきます!」

期待に満ちた表情を見せた探偵を見て私の心がわずかにときめきを覚えた。


2日後、猫が見つかったと探偵から連絡が入った。その瞬間、1週間以上会えていなかったミャーコの姿が思い浮かび、居てもたってもいられなくなった私は会社を早退して探偵の元へと急いだ。

事務所につくとそこにはあちこちに怪我をした探偵が意気消沈とした表情を見せてソファに座っていた。ふと机の方を見る。

一瞬、衝撃のあまり時が止まった。

静かなミャーコが横たわっていたのだ。覚悟はしていたがやはり衝撃は大きく、いつの間にか涙と嗚咽が止まらなくなり膝から崩れ落ちていた。

「このような結果になってしまってすいません…」

探偵がくぐもった声で言う。


私はしばらくの間、ミャーコと過ごした時間を思い出しながら泣きじゃくっていた。探偵は一歩も動かずに俯いたままそばに立ち尽くしている。

やっと一段落ついたころには随分時間が経ったのが窓越しに分かった。

「これ依頼料です、ありがとうございました。」

茶封筒に包まれた依頼料を静かに机に置くと、俯いたままの探偵が口を開いた。

「俺もどう慰めていいか分からないんですけど、どうか気を落とさないで下さい。この猫、毛並みも揃えられて綺麗ですごく愛されていたのが伝わってきます。だからこそ今回のような残念な形になったんだと思います。…やっぱいい感じの言葉が出てこないです」

「大丈夫、ちゃんと折り合いは付けられると思うんで」

私はそう言うと机のミャーコを抱えあげて事務所を後にした。探偵は無言で悔しそうな表情を浮かべたままだった。


猫の亡骸を持っている状態なので電車に乗るわけにもいかずタクシーを拾って帰ることにした。そのため道路を眺めていると、段々冷静さを取り戻していき発見の経緯やらもろもろ全て聞き忘れていた事に気付く。

その瞬間、自らの携帯電話に着信がかかってくる。画面を見ると見たことのない番号からだった。不審に思いながらも電話に出る。

「もしもしー、こちら那谷香子さんのお電話でしょうか?」

野太い男の声が電話越しに聞こえてくる。

「はい、そうです。えーっと、どちら様でしょうか」

「これは失礼しました、久世田南署の陣場と申します。管轄内で連続ペット殺傷事件の犯人捕まりまして聴取をしていたところ香子さんの飼われていた猫も被害にあっていると報告があったので、事実確認のお電話を差し上げたところでした。この直前にご実家にお電話しましたところ多分、お母様…だと思うんですけど、女性の方が対応されましてその方に直接そっちにかけてくれってことで香子さんの携帯電話を教えてもらって、只今ご連絡を差し上げたところです」

いきなりとんでもない事を言われ思わず混乱してしまう。

「お電話口ではなんです、腰を据えてじっくりお話聞きたいので後日、久世田南署に来ていただけますでしょうか」

「…分かりました」

了承の返事をしたところで傷だらけの探偵の姿がフラッシュバックする。一縷の可能性に掛けここで警察に思い切って質問してみることにした。

「あ、そういえば一つ確認しておきたいことがあるんです。もしかしてその犯人って背の高い男の人に連れられて来ました?」

「あーそうですね、背の高い男の人で確か堺田と名乗っていたみたいです」

その回答に合点がいった。日時調整の電話はまた後日すると伝えて電話を切ると急いで雑居ビルに戻る。

ビルの2階を確認すると堺田探偵事務所の電気はまだ点いていた。

階段を上がり再び事務所の扉を開けると堺田重則が事務椅子に座って包帯を巻き直そうとしているところだった。

「聞きました。ミャーコを殺した犯人捕まえて下さったみたいで…本当にありがとうございます」

私は探偵に向かって頭を下げる。探偵はその言葉に相反するように首を横に振った。

「いえ成り行きでそうなっただけですから」

傷だらけになった身体を見るにその言葉の裏には様々な出来事があった事が予想できた。私が立ち尽くしていると探偵から言葉を掛ける。

「あの…非常に申し上げにくいんですが…包帯巻くの苦戦してて…」

その言葉を言い切る前に私は彼のそばまで駆け寄っていた。

愛猫の死を前に言えることではないが私はまた少しときめきを感じてしまっている。


-----


…あ…さ…

お…かあ…ん

「お母さん」

明梨の声が聞こえハッとして目を覚ます。どうやらあのままリビングの机に突っ伏したまま夢を見てしまっていたようだ。

「結局、朝まで眠れずに起きててさ、降りてきたら今度はお母さんが机に突っ伏してたから…」

良くない想像を巡らせてしまったのか明梨の声が徐々に涙ぐんでいく。

「ごめん、ごめん。お母さんは大丈夫だから。安心して」

そう言って明梨をゆっくりと抱きしめる。

…早く帰ってきてよ、探偵さん…

自身の寂しさを紛らわせるように私は明梨を抱きしめる力を一層強めるのだった。

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