堺田明梨からの視点

私は私の弟が大嫌いだ、生理的に。

私を舐め回すかのようにべっとりと見つめる気持ちの悪い視線。あの視線を感じるだけで吐き気がした。

ほんの2年前まで普通の日々を過ごしていた分、そんなことを考えなくちゃいけなくなってしまった現状にうんざりしてしまう。こうして今、病室の前で待つことでさえ本当なら億劫だった。

程なくして病室から処置が終わった看護師がぞろぞろと出てきて最後に出てきた白衣の男に声をかけられる。

「堺田信太郎さんのご家族の方でしょうか」

私はいっそここで首を思い切り横に振ってしまえばあいつから逃げられるのではないかと考えた。しかし、私の横に座っていた一呼吸置いてお母さんが「そうです」と答えたことでその可能性は消えた。

「一旦、処置は終わりました。命に別状はありませんが刺し傷がある程度塞がって動けるようになるまで大体三ヶ月ほどかかると思います。今は麻酔と鎮静剤が効いているので眠っていますが数時間程したら痛みで起きてくると思いますのでその時はまた呼んでください」

冷静にそう言い残すと主治医は足早にその場を立ち去っていった。お母さんと私は互いに顔を見合わせると個室の扉に手をかける。

ベットには静かに目をつむりアイツが横たわっていた。こうしてみると何だか死体のように思えたが一定の間隔で腹部が動いているのに気付いてしまい、少し気が落ち込んだ。

しばらくの間、病室には呼吸音だけが響いたがお母さんが口を開いた。

「…あまりじっくり顔を見たことなかったけど結構顔立ち自体は悪くないと思うのよねぇ」

意外なことを口にするお母さんに私は拒否反応を覚えた

「ちょっと冗談でも止めてよね、こんなキモいヤツのどこが良いのかさっぱりなんだから」

「お母さんね、自分でも意外だったんだけどこの人が刺された時、やっと開放された、やっと消えたとかって思うのかと思ってたの。でも実際にはショックというか心配する感情が自然と湧いてきちゃったの…。なんだかんだ言って家族として見てたんじゃないかなって…」

「だから止めてってば!」

つい気が立ってしまい実の母親に向かってヒステリックになってしまう。

「いや、そういうつもりじゃなかったんだけど…ごめんね」

事をこれ以上荒らげたくない母がすぐに謝るも私の気は立ったままで落ち着く気がしなかった。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」

気を少しでも紛らわすため、トイレへ行こうと病室を出た。

トイレに入るやいなや化粧鏡に写る自分の姿が目に入った。

「こんな姿、征也君には見せられないな」

ついそんな独り言を呟いてしまうほど、自分の顔は怒気に満ちていた。これでは駄目だと深呼吸を数回して呼吸を整えて、いつも就業前にしている自然な笑顔を形作る体操をする。もちろんトイレに入ってきた何人かにはその様子を見られてしまったがそんな事を気にして中断する気にはなれなかった。

最後に深く息を吐いてトイレから出て再び部屋に向かって歩き出すとすぐなにかにぶつかってしまう。病院でそれが何を意味するのかを一瞬で悟り慌ててぶつかってしまった人に謝罪した。

「ごめんなさ……い?」

てっきり病人の方にぶつかってしまったのだと思い、慌てて視線を前に向けたがそこにはガタイの良い健康的な20代くらいの男が立っており思わず謝罪の語尾が疑問形に変わってしまう。

「これまたごめんなさいね。って…もしかして堺田明梨ちゃんかな?」

「あ、はいそうですが、あのー、えっとーあのどういうご用件でしょうか」

出会い頭にぶつかった男から急に自分の名前が出てきたことで軽く混乱しどもってしまう。

「まあそうなるわな。まず俺、椎名って言うんだけど重則さんからなんか聞いたことある?」

重則という名前が出てきたことに驚く。

「っお父さん!お父さんの知り合いなんですか!」

「その反応を見るに重則さんから特に聞いてることはなさそうだね」

「お父さん!お父さんは今どこにいるんですか!」

久しぶりに聞いた父親の名前に高揚してしまい、つい声が大きくなってしまう。

「まあまあ、落ち着いて。他の人にも注目されちゃってるし一旦病室に行こか、そこの部屋だったよね」

そう言うと椎名は病室に向けて歩き出したので後ろに着くような形で私は病室に踵を返した。

「何?大きい声聞こえてきたんだけど…」

病室に入るとお母さんが開口一番そんな事を口にするが横に立っている椎名さんを見て言葉が止まる。

「あ、初めまして。信太郎君のお見舞いに来ました」

「あーそうでしたか。どうも、あの…どういった方でしょ」

母が怪訝な様子で椎名さんの事を聞こうとしているので思わず口を挟む。

「椎名さんって言って、お父さんの知り合いなんだって!」

その言葉を聞くとお母さんは目を見開いた

「そうなんですか、主人は…主人は今も元気なんですか!」

「あー…いや重則さんとは俺自身も最近会ってないので今どうとかは分からないです。」

その言葉に先程までの期待が打ち砕かれたような気がして気落ちしてしまう。お母さんの方を見ると同じような事を考えているようだった。

「それはそれとして今日来たのは別件なんです」

「何でしょうか…?」

「そこで横になっている信太郎って名前だっけ?こいつを刺した小阪くんっているでしょう。あの子の被害届を取り下げて何もなかったことにして欲しいんです」

椎名の言葉に私もお母さんも思わず、は?と一言だけ発して言葉を失ってしまう。

「まあ、そんな反応になるっていうのは予想がついてました。今さっき出会ったばかりの父親の知り合いを名乗る怪しい男に急に加害者の被害届を取り下げろなんて言われたら俺だってそんな感じになります。あ、ちなんでおくと俺は小坂くんの知り合いでも何でもない赤の他人ですよ。ただこれ以上、事が大きくなるのは避けたいってだけです」

「でも、それって私たち被害者は泣き寝入りしろって…ことですか」

「うーん?お母さん、それを言いますかね。なんだか腑に落ちないっていうかあんましこういう事言いたくないんですけど…

椎名がこちらを切り捨てるような鋭い一言を言い放ちその場の空気がさらにひりつく。

「誰だってそりゃ思いますよ、たかだか2年前にポッと出で現れた冴えないおっさんを急に弟だーなんて紹介されたって受け入れられるもんじゃないですよ。しかも態度も金を持ってる訳でもなく献身的なわけでもなくぶっちゃけ小坂くんが刺してなくてもいずれ誰かにぶっ殺されるのが自明の理でしたわ」

椎名は釈然とした態度で言い切った。

「……なんであなたがその事を知っているの…?」

お母さんは我が家の現実を突き詰められてショックを受けるのかと思っていたが逆に目の前にいる男が何人も知り得ない情報を知っているのか、そちらのほうが疑問に思えてしまい素直に湧いた思いをぶつけた。しかし、椎名はそんな言葉聞こえなかったのかはたまた聞こえてあえて無視をしたのか話を続けた。

「当たってるでしょ?だからこいつの事を無理に気にかけることなんてないんですよ」

「でも…」

「あ、治療費とか金銭面での心配でしたか?それならこちらで負担しますよ。なので安心して警察署に行って下さい。あーそれとお父さんのことって明梨ちゃんには言ってないんですか?」

お父さんのこととは何なのだろうか?その意味をお母さんに問いかけようとしたが下の方を向いてため息をついた様子を見るに今聞いてもあまり良い返事が返ってくることはなさそうだった。

「そんな所で、今日のところはお暇します。取り下げの方よろしくお願いしますね」

椎名は先程までとは打って変わって快活なトーンでそんな言葉を残すと颯爽と病室を出ていった。

呆然としたまま立ち尽くす私とお母さんだったが今は二人の間に何か隔たりのようなものを感じてしまった。なんだかこのままではこの見えない壁が分厚くなっていくような感覚がして寂しくなってしまい、つい自然とお母さん…と声が出てしまう。

「ごめんね、今日は疲れちゃったし私達も帰りましょうか。でもちょっと警察署に寄ってからね」

お母さんの言葉から感情の抑揚は消え、説明でもするような単調なトーンになっていた。

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