どんぐりを集める女の子

sousou

第1話

 五郎爺さんの朝は早い。爺さんはまだ日も昇らない朝四時に目覚めると、パックから取り出した二つの卵を、水を満たした小鍋に投入して、それを火にかける。水が沸騰するのを待つ間に、冷蔵庫の中で固くなったバターを食卓に出して常温で溶かしつつ、りんごの皮を剥き、自家製パンを二枚スライスする。テレビをつけて、天気予報を眺めながら一息つく。そのうち、鍋の蓋がカタカタと揺れだす。爺さんは蓋を取ると、ぐつぐつ煮立つ水面を見ながら、火加減を調整する。そのまますぐに、常に九分で設定されている、キッチンタイマーのスタートボタンを押す。


「いまどき、鍋でゆで卵を作る人なんていませんよ」


 あるとき常連客の一人が、からかい混じりにそう言っていた。というのも、最近はなんでも電子レンジで調理できるそうだ。専用の容器を使えば、パスタまで茹でられるらしい。しかし爺さんは電子レンジを使ったことがないし、なにより長年慣れ親しんだ、朝のルーティーンを変えたくはなかった。電子レンジとは、食事の準備に時間をかけられない、若者たちのために開発された機械だ、と爺さんは思っていた。ありていに言えば爺さんは、電子レンジを信用していなかった。電子レンジで調理した料理など、まずいに決まっていた。


 キッチンタイマーの音が鳴りひびいた。爺さんは卵二つを、水を張ったボウルに入れて、丁寧に殻をむいた。いつ見ても美しい、生まれたばかりの楕円型の物体を、電灯に照らしながら眺めて、殻の破片がついていないか確認する。ここは朝食準備のなかでも、最重要なプロセスだった。仮に破片が残ったまま口に入れて、砂を噛んだような触感がしようものなら、朝の爽やかな気分が台無しになってしまう。


 りんごが二切れ、ゆで卵が二つ、パンが二切れ。それらが毎朝の爺さんの献立だった。爺さんはパン二切れを、昔ながらの二枚焼きの、ポップアップトースターにセットした。パンが焼けるまでに、りんごを平らげ、塩を振ったゆで卵を平らげた。まだ常温に戻りきっていないバターを、ナイフを使って半ば力づくで切り取ると、焼き上がったパンに塗りつけ、それらも平らげた。


 朝食にかける時間が三十分、身支度にかける時間が十分だ。髭を剃り、肌着の上に清潔なネルシャツを着た爺さんは、セーターを着ようかどうか思案した(電子レンジを信用しない爺さんでも、現代科学の叡智を結集した温かい肌着には世話になっていた)。天気予報では、今日は冷え込むと言っていた。それを思い出した爺さんは、赤いセーターを頭からかぶると、ジャケットをはおり、最後にニット帽をかぶった。爺さんの頭は今のところ毛髪に恵まれていたが、歳を取ったせいか近年、帽子なしでは耳が寒くて仕方なかった。


 爺さんは今日分の商売物資を、倉庫から移動販売車の厨房に、次々と運び込んだ。そうして身体を動かしていると、夜明け前の刺すような寒さがやわらぎ、暑くさえなってきた。最後に指さし確認で、必需品を全て乗せたことを確認すると、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。聞きなれたラジオ司会者による、挨拶の声が車内に響く。


 移動販売で五郎爺さんが扱っているのは、珈琲だった。自ら焙煎した、浅めでフルーティーな珈琲豆をその場で轢き、紙カップに入れて客に提供する。豆の風味を楽しむための珈琲だから、当然メニューはブラック珈琲のみだった。


 爺さんの稼ぎ時は、朝と昼だった。朝は会社員が通勤で使う道沿いの駐車場で販売し、昼は地元の神社の境内で販売する。昼は休憩中の会社員のほかに、小さい子供を連れた主婦や、散歩中の老夫婦など、さまざまな人が客として訪れた。爺さんはわりかし子供が好きだったため、珈琲を飲めない子供の裏メニューとして、ホットミルクも用意していた。ミルクは神社の境内に住みついているサバ猫、サバ美のためでもあった。爺さんはサバ美と懇意にしていたので、彼女がやってくると、皿にミルクを注いで、分けてやるのだった。


 その日は天気予報の通り、曇りがちで寒い日だった。昼時の客がまばらになりだすと、爺さんは自らのために珈琲を注ぎ、一服した。「最近はぐっと冷え込んだねえ」という声に顔をあげると、宮司(ぐうじ)がそばに来ていた。宮司は爺さんが小学校に通っていた頃の、同級生だった。彼も爺さんと同じく、現代科学の叡智を結集した温かい肌着を着用しているらしい。しかし外面的には神職特有の白衣スタイルを維持しなければならないため、見ているだけで寒そうだった。特に耳が寒そうである。


 爺さんは宮司のために一杯、ホットミルクを淹れてあげた。昔は彼も珈琲を飲めたのだが、最近は歳のせいで、午後にカフェインを摂取すると、夜に眠れなくなってしまうらしい。自分もそうなったらいよいよ商売終いかな、と爺さんはぼんやり考える。宮司は紙コップを冷えた両手で包み、ミルクを一口飲むと、なあ五郎、と言った。


「いんすたぐらむって知っているか」


「もちろんさ。アカウントも持っているぞ」


 それを聞いた宮司が、もともと大きな目をさらに大きくした。爺さんは、学友の目玉が顔から零れ落ちるかと思った。


「だっておまえ、電子レンジすら持ってないんだろう?」


「それとこれとは話が別さ。電子レンジは商売に必要ないが、インスタグラムは商売に必要だからな」


「じゃあ、いんすたぐらむで集客ができるって話は本当なんだな」


 意味ありげな宮司の様子を見て、爺さんには話の成り行きが分かってきた。


「インスタで流行っている神社でもあるのか」


「うん。東北の神社なんだが、紅葉が絶景なことでバ……バズ?」


「バズった?」


「そう、バズった神社があってねえ。全国各地から参拝者が増えているという話なんだ」


「それでおまえも、集客のためにインスタを始めようかと?」


「そうなんだよ。うちもそこそこ紅葉はきれいなんだけど、何から始めればいいか分からなくてね」


 爺さんは眉根を寄せて、考え込んだ。


「慎重に考えたほうがいいぞ。最近の若者は何でも節約したがるから、観光地へ行っても写真だけ撮って、金を落とさないという話だ。インスタで集客する前に、金を落とさせる仕組みをつくらないと」


「そ、そうか」


「まずはその『東北の神社』がどうやって集客し、金を巻き上げているのかを調べてみよう。そこから学べることは多いはずだ」


 たじろぐ宮司をよそに、爺さんは件の神社のアカウントを調べ上げ、私用アカウントからフォローしておいた。あとは暇を見つけて少しずつ、東北の神社の戦略を学んでいこうではないか。宮司が薄くなりだした頭をかいて、言った。


「あまりお金に執着したくはないんだけどねえ」


「そんな悠長なことを言っている場合か」


 近年、神社の廃業問題は深刻である。同級生のよしみで、爺さんの移動販売車は、破格の価格でこの神社に停めさせてもらっていた。だから、爺さんもできる限りのことを、宮司のためにしてあげたかった。


 十四時を過ぎ、そろそろ店じまいにしようか、と爺さんが考えていると、フーッと威嚇する猫の声が、どこからか聞こえてきた。厨房から降り、車の裏手に回ると、毛を逆立てたサバ猫と、六、七歳くらいに見える女の子が対峙していた。女の子は木の根元で尻餅をつき、怯えた様子で猫を見返していた。


「こら、サバ美!」


 爺さんはサバ美に駆け寄り、強制的に猫を抱き上げた。サバ美は抗議しながらひとしきり暴れたが、女の子と引き離すと、地面に着地し逃げていった。


 爺さんはほっと一息つくと、女の子の元へ戻った。


「大丈夫か、お嬢ちゃん」


 女の子はいまだ震えていたが、小さな声で、ありがとう、と言った。爺さんは女の子に手を貸し、立たせてあげた。土まみれなことに気づいた女の子が、ジャンパースカートの裾をはたく。爺さんは女の子のそばに、子供サイズの背負い籠が置いてあることに気づいた。ずいぶんと時代錯誤な道具である。籠のなかには、どんぐりがいっぱいに入っていた。


「どんぐりを集めているの?」


「うん。いえにもってかえるの」


 爺さんは子供の頃を思い出して、微笑んだ。子供の頃は、河原に落ちている、形のいい石が宝物に見えて、よくポケットに入れて持ち帰ったものだった。


「お嬢ちゃん、怖かっただろう。ホットミルクでも飲むか?」


 女の子はきょとんとすると、黒い瞳でまじまじと爺さんを見返した。


「ほっとみるくって、なに?」


「温かい牛乳だよ。牛乳は飲んだことあるかい?」


「よくわからない。おかあさんが、しらないものはたべちゃだめだって」


 爺さんは感心した。最近はアレルギー持ちの子も多いから、そういう教育をしている母親が多いのだろう。


「じゃあ、おうちに帰ったら、お母さんに訊いてみるんだな。お母さんがいいって言ったら、今度、飲ませてやるよ」


 女の子は頷き、どんぐりが入った籠を背負った。


「あのねこさん、ここにすんでいるの?」


「飼われているわけじゃないけど、いつもここにいるよ」


「わたし、なかよくなりたかったんだけど……」


 またくるね、と言い終えると、女の子は小走りして去っていった。ふと爺さんが地面に視線を落とすと、昨日までたくさん転がっていたどんぐりは、目に見えて減っていた。女の子がほとんど回収したようだ。


 それから一週間ほどが経った。いつもの朝食を済ませ、駐車場での販売を終えた爺さんは、神社の境内に車を停めた。宮司が本殿のそばで落ち葉を掃いていたので、片手を挙げて挨拶をする。普段なら、昼時になるまでは、滅多に客は現れない。しかしその日は、厨房のカウンター窓を開けると、ジャンパースカートを着た女の子が待ち構えていた。女の子は、爺さんを見るなり、顔を輝かせた。


「わたし、ぎゅうにゅう、のめるって!」


「おう、それはよかったなあ。すぐ作ってやるから、そこのベンチに座って待っていな」


 女の子は背負っていた籠を地面に置くと、行儀よくベンチに座った。籠は今のところ、空っぽだった。爺さんがコンロに火をつけ、牛乳を温めていると、ゆっくりとした足取りで、サバ美がやってきた。女の子が息をひそめ、緊張した面持ちでサバ美を見返した。サバ美も女の子を気にしていたが、以前のように威嚇することはなかった。カウンターの下までやってくると、「ニャー」と鳴いた。


「はいはい、サバ美の分も作ってやるからな」


 爺さんは鍋に追加で牛乳を注ぎ、湯気がやや立ち昇る程度に温めた。それを紙コップと猫皿に二等分した。厨房から降り、コップを女の子に渡そうとすると、女の子が手で制した。


「おかあさんからおそわったの。こういうときは、おかねをはらんだって」


 爺さんはびっくりして、「いらないよ」と言った。しかし女の子は聞く耳を持たず、ポシェットに手を入れてごそごそすると、何かを取り出した。それは色づいたイチョウの葉が二枚と、イロハモミジの葉が三枚だった。立ち上がった女の子が、カウンターの前まで行くと、言った。


「おだいは、ここにおいておきます」


 背伸びをして、なんとかカウンターに葉っぱをのせた。爺さんは、そこに居合わせた宮司と顔を見合わせた。一息置いたあとに、ふたりは腹をかかえて笑いだした。首をかしげる女の子に、爺さんはホットミルクを渡した。「ありがとうね、お嬢ちゃん」


 猫皿を地面に置くと、サバ美はすぐにミルクを舐めはじめた。女の子はコップを持ちながらじりじりとサバ美に近づくと、「わたしとねこさん、おなじものをのんでいる。だからなかま」と小声で話しかけていた。サバ美はそれを理解したのか分からないが、その日、爺さんが仕事を終えるころには、すっかり女の子と打ち解けていた。


「あの女の子、どこの子だか知っているかい?」


 厨房の扉を閉め、運転席に乗り込もうとしたとき、爺さんは宮司に話しかけられた。


「知らないけど」


 どうして、という問いを込めて見返すと、宮司が声をひそめた。


「この前、大通りであの子が銀杏を拾い集めているのを見たんだよ。もしかして、ものすごく生活に困っているのかも、と思って」


 爺さんは首をかしげた。


「単に、木の実を集めるのが楽しいんじゃないかな。この前はここで、どんぐりを集めていたぞ」


「でも銀杏は臭いだろう。集めて楽しいかな?」


 ふたりがなんとなく視線をやると、重そうな籠を背負った女の子が、立ち上がったところだった。今日もまた、どんぐりを集めたのかもしれない。そのとき、爺さんは自分の目を疑った。女の子のジャンパースカートの下から、尻尾のようなものが飛び出ていたからだ。ついに目がおかしくなったのかと思って、目をこすると、宮司も同じことをしていた。爺さんと宮司は顔を見合わせた。


 ふたりは女の子の後をそっと追ってみた。このまま町中に出たら、女児ストーキング罪で捕まるかもしれない、と思ったが、その心配は無用だった。なぜなら、女の子は神社の裏手に広がる、山のなかに入っていったからだ。遊歩道も何もない、薄暗く、草木が密集した山のなかだ。爺さんと宮司は、口をぽかんと開けたまま、しばらくその場に突っ立っていた。宮司がやっと、声を出した。


「や、山に入っていったけど。警察に連絡したほうがいい?」


「馬鹿いえ。もうろくしたじじいの戯言と思われるのがオチだ」


「……尻尾、でていたよね?」


 爺さんは応えなかった。


 数日後、爺さんが珈琲豆を焙煎していると、スマホの通知音がなった。見ると、宮司からの「たぬきだった!」というメッセージと、一枚の写真だった。写真には、サバ美と小さなたぬきが、本殿から伸びる外廊で、並んで日向ぼっこをしている様子がおさめられていた。爺さんは、朝のラジオで、今年のどんぐりは不作である、と放送されていたことを思い出した。だから、たぬきが化けて、人里にどんぐりを拾いに来たのだろう。


「たぬきが来る神社か……」


 五郎爺さんは相変わらず、SNSマーケティングのことを考えていた。良いアイディアが浮かぶまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。

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