第八章【いた】


 蜜木は再び、洞窟を目指して歩き始めた。

 三百年以上生きた妖狐が、自分の一撃で事切れることがあるのだろうか。しかし自分は、たしかに夜風の心臓を切り裂いた。確認するように右手を見つめると、自分の手はひどく震えていた。再び夜風の前に立つと考えただけで、逃げ出したい気持ちになる。

 それでも夜風の生死は、絶対に確認すべき事項であった。

 河童たちがいっていたことが本当なら、夜風が死んだ後の槐山さいかちやまはもっとよくないことが起きる。それを最小限に抑える必要がある。

 蜜木はその使命感だけて、洞窟に向かっていた。


 そして洞窟の入り口に着く頃、とんでもない速さで何かが蜜木を追い抜かしていった。そしてそれは、近くの木に矢のように突き刺さった。

「な、なんだ?」

 あまりの速さで分からなかったが、木に突き刺さっていたのは筆鳥ふでどりであった。

「え! 大丈夫か」

 蜜木は慌てて、木に刺さった筆鳥を地面に下ろした。

 それから筆鳥は、何事もなかったかのように平然とした顔で口を開いた。

「妖将官訓練生、赤坂蜜木。こちらは銀将、瀬戸銀幽。槐山の件、承知した。一刻を争う事態と判断し、周辺の妖将官らに応援要請を済ませた」

 蜜木はその判断の早さに感服した。

「そして取り急ぎ、一等官の桂城かつらぎ朔馬さくまをそちらに向かわせた。彼が現場の指揮をとる。生きて、その場を持ちこたえよ」

 筆鳥の伝言は以上だった。

 おそらく銀将は、訓練生である自分が夜風をどうこうできると思っていないはずである。だからこそ一等官を、こちらに向かわせてくれたのだろう。

 十二歳の妖将官、桂城朔馬。

 朔馬と現場が一緒になったことはない。しかし「ひどく優秀だが感情がまったく読めない。薄気味悪い子どもだ」そんな風に上官の一人がいっていた。

 しかしどんな人物であれ、実力者として名高い彼が応援に来てくれるのは心強いことであった。


 蜜木は筆鳥を安全な場所に移動させた後で、このまま応援を待つべきか迷った。しかし夜風の生死だけは、やはり一刻も早く確認すべきだと思った。

 蜜木が洞窟に向かおうと足を踏み出した瞬間だった。

「いた」

 地を這うような、落ち着いた子ども声が、蜜木の鼓膜を揺らした。

 蜜木は反射的に、声がしたと思われる上空を見つめた。見上げた先には、空から下りてくるワイシャツと袴姿の子どもがあった。その服装でなければ、妖怪と見間違えたかも知れない。それほどまでに彼は、実に軽やかに上空から下りてきた。

 彼は蜜木の側に着地すると、冷静に蜜木を観察した。

 頭では彼が桂城朔馬なのだろうと理解している。しかし想像する以上にあどけなく、そして美しい子どもであった。

「こんにちは」

 一通り蜜木を観察し終えると、朔馬はこちらに向かっていった。

 その言葉を受けて、蜜木も「あ、こんにちは」と頭を下げた。

「朔馬。桂城朔馬です。応援要請を受けて、ここに来た。状況は?」

 朔馬は洞窟の方を見つめながら、簡潔にいった。

 蜜木も名乗った後で、朔馬に状況を報告した。


「わかった。夜風の生死と洞窟の様子は、こちらが確認する。あなたはもう、動かない方がいい。止血は、自分でできるか?」

 朔馬はそういって、蜜木の肩を指した。

 指された自分の肩は、ひどい出血だった。夜風の攻撃については、致命傷を避けたことに安堵していた。そしてこの瞬間まで、自分がどんな傷を負わされたのかは頭から抜け落ちていた。

「耳の負傷もひどいようだけど、聴力に異常はなさそうだ。とにかくあなたは応援が来るまでは、動かないで」

 朔馬とそんな会話をしているうちに、洞窟からひどく重苦しい何かが流れてくるのが感じられた。それは疑いようもなく、夜風が放っている毒気だった。

 朔馬はその毒気に怯むことなく、むしろその毒気を感じたがゆえに「いってくる」と颯爽と洞窟の中に入っていった。

 この毒気に当てられる妖怪がどれほどいるのか、蜜木には想像もできなかった。日も傾きかけている今、槐山は最悪な夜を迎えるかも知れない。

 自らの止血をする間、蜜木はひどく気分が悪くなった。人間は妖怪の毒気には鈍感であるが、長くそれを浴びたせいだろう。

 悪心と吐き気を誘うような毒気は、蜜木が止血を終える頃、次第に薄れていった。そしてほどなく、その毒気は洞窟から流れて来なくなった。おそらく朔馬が、夜風の亡骸になにか施したのだろう。もしくは毒気を抑える結界でも張ったのだろう。朔馬ほどの実力者となると、使える結界や術の数は蜜木には想像もできなかった。

 止血を終えた蜜木は、のそりと立ち上がった。

 朔馬には動かない方がいいといわれたが、宵のことが心配だった。蜜木は宵を寝かせた場所へと向かった。

 しかしそこには、宵の姿も、宵の兄姉の姿もなかった。

 蜜木は不安に駆られて、周辺をクマのようにうろうろと歩き回った。


「座っていて下さい」

 その声に振り向くと、そこには朔馬がいた。

「あなたも、夜風の毒気に当てられている」

 朔馬はそういって、蜜木の肩に手を掛けた。そして蜜木はあっさりと、その場に座らされた。

「妙なところに誘い込まれたな」

 朔馬は周囲を見渡して、独り言のようにいった。

 それほど遠くまで来たつもりはなかったが、どれほど歩き回っていたのか、まるで記憶がなかった。

冷静に当たりを見渡すと、山の奥地に来てしまったようだった。

「それより、妖狐は? 夜風は、どうなっていたんだ」

 蜜木の声は自然と大きくなっていた。

「妖狐は、すでに死んでいた。心臓に受けた傷が致命傷だったと思う。その傷は、あなたが負わせたものですね」

 大きな声を出した蜜木とは対照的に、朔馬は冷静なままであった。

「そうだ。でもあまりにあっさりと攻撃が通ったんで、幻術にかかっているような気分だった」

 朔馬は蜜木の回答に、浅くうなずいただけであった。

 朔馬があまりに冷静だったので、蜜木は冷静さを取り戻しつつあった。そして上官である朔馬に敬語を省略したことを謝罪した。

「気にしてない。それより、妖狐が死んだことで槐山の状況は更新された。洞窟付近にいた筆鳥は、現状報告と増員要請に使わせてもらった。今は一時的に毒気を抑えているが、もっと正式な手順が必要だと思う。それに夜風の毒気に当てられた妖怪たちも多いはずだ」

 朔馬の判断には、まるで迷いがなかった。

「でも、あなたは一刻も早く山を下りた方がいい。応援も到着しているみたいだ。おそらく銀将の第一報で要請された者たちだな」

 朔馬はそういって、視線を遠くへ向けた。

 それから朔馬は、なにかに気付いたように遠方に手を振った。朔馬の視線の先には、溜家の姿があった。

「え、溜家さん」

「ここからそう遠くない場所で、邪神が暴れていたと聞いた。それが一段落したから、対応に当たっていた者たちが駆けつけてくれたんだろ」

 一等官ともなると、一つの現場だけでなく複数の現場の状況も把握しているらしい。

 溜家は朔馬が手を振っていることに気がつくと、すぐにこちらに駆けつけてくれた。

「蜜木! よかった、無事だったんだな」

 溜家は心配でたまらないという感じでいった。

 蜜木と溜家が互いに再会を喜び合っていると、朔馬は静かに抜刀した。

 その所作があまりにも美しく、蜜木たちは一瞬息を飲んだ。

「溜家さんは赤坂さんを担いで、すぐに山を下りてください」

 朔馬はこちらを見ずにいった。

「これほどの妖怪たちを、一人で相手にできるのか。わかっていると思うが毒気に当てられた妖怪たちは、通常より獰猛だぞ」

 溜家はいった。

 それらの会話の意味を、蜜木は理解できなかった。妖怪の気配がまるで感じられなかったからである。これが毒気に当てられているということなのだろうか。

「大丈夫です。とにかく一刻も早く、彼を山から連れ出して下さい。妖怪はともかく、妖狐たちの狙いは確実に彼だと思うので」

 妖狐たち。

 どこに妖狐たちがいるのだろう。そしてその妖狐たちとは、宵の兄姉たちではないだろうか。そんな嫌な予感が、蜜木の胸に広がった。

 溜家は朔馬の言葉を受けて「わかった」と、蜜木を抱えた。

「え、あの。妖狐たちっていうのは?」

「毒気を浴びすぎたか? その辺に、妖狐たちがいる。おそらく夜風一族だ」

 溜家は蜜木を抱えたまま、ゆっくりと走り始めた。

 狙っている獲物が動いたことを感じたのか、どこぞに隠れていた妖怪たちが姿を現してこちらに向かってきた。

 朔馬はそれらを無駄のない動作で、斬っていった。妖怪たちが斬られた後で、見覚えのある妖狐たちが朔馬に襲いかかっていった。それは毒気に当てられたと思われる宵の兄姉たちだった。

「や、やめてくれ!」

 蜜木は朔馬の背に叫んだ。

「一時的に、正気を失っているだけだ!」

 蜜木の声は朔馬に届いているはずである。

しかし朔馬は襲ってくる妖狐たちを、一切の躊躇ちゅうちょなく斬っていった。斬られた妖狐たちは力なく朔馬の足元へと倒れていった。元々こうなる運命であったかのように、妖狐たちはパタパタと朔馬の足元に落ちていった。

「やめてくれ!」

 蜜木は再び叫んだ。

「ここは彼に任せよう。これ以上興奮するのは、お前にとってよくない。深く、深く呼吸をするんだ」

 溜家は蜜木をなだめるようにいった。

 しかし朔馬に斬られていく妖狐たちを見て、落ち着いてはいられなかった。目を離すことができなかった。朔馬に襲いかかる妖狐の中に、足を負傷した白い妖狐がいた。

 宵だ。蜜木はすぐに直感した。

 父に攻撃され、目の前で父を殺され、そして毒気に当てられた。宵もまた、正気を失っていても不思議ではなかった。

「やめろぉおお!」

 蜜木は力の限り叫んだが、朔馬に襲いかかった宵はあっさりと斬り捨てられた。

 そして地面に倒れた宵は、キツネの姿から人間の姿へと戻っていった。


 宵の姿を見て、蜜木は喉が潰れるほどに泣き叫んだ。








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