第七章【死に場所】
◆
ぽてぽてと小動物のようななにかが、枕元にやって来た。
真っ暗に塗りつぶされた闇に落ちた中で、それが感じられた。
そのため蜜木は、重いまぶたをどうにか開いた。
蜜木の枕元には、待ち焦がれていたはずの
その原因を思い出し、蜜木は布団から飛び起きた。
「宵!」
そう声を出せども、家の中に人がいる気配はなかった。
どれほど眠っていたかはわからない。しかしすでに日は傾きかけているように思われた。
すぐに洞窟に向かいたかったが、とにかく筆鳥の連絡を確認することにした。
「妖将官訓練生、赤坂蜜木。こちらは銀将、瀬戸銀幽。報告書には目を通した。体を癒やすことに専念せよ」
筆鳥は口頭でそう伝えた。
筆鳥に文書を預けた場合、筆鳥はそれらを宛人に渡してくれる。しかし短い伝言は、その言葉を直接宛人に伝えてくれる。
蜜木は
しかし土間に宵の姿はなく、狐面をした男が戸に寄り掛かるようにして座っていた。その男はどうにも、負傷しているようだった。
「大丈夫か」
蜜木は思わず声をかけた。
「み、みつき」
狐面の男と目が合うと、彼は蜜木の名を呼んだ。
この男は、自分の名を知っている。そう理解した瞬間、自分もこの男を知っていると思った。
「セツ? セツだな」
狐面の男は、うなずいた。
「大丈夫か。何があった?」
「宵を、たすけて、くれ」
「宵に、なにがあったんだ。まずは、傷の手当てをしよう」
「おれは、だいじょうぶだ。お父様が、ついに正気を失った」
それからセツは、父である夜風に近づいた宵と、ほかの弟妹たちも攻撃されたことを教えてくれた。
「宵は足をケガして、洞窟から動けない。宵を、たすけてくれ」
蜜木は深くうなずいた。
セツは「たのむ」といって、キツネの姿に戻った。
「セツ! 大丈夫か、セツ」
セツはうなずくように、ゆっくり両目を閉じた。
蜜木はセツにできる限り、傷の手当てをした。そうする間に、蜜木は筆鳥に槐山の現状を簡潔に伝えた。
「以上、訓練生。赤坂蜜木より」
筆鳥は蜜木の伝言にうなずいた後で、蜜木の手をぺろりと舐めた。筆鳥は自分の任務を果たす際に、発信者の体の一部を所望する。発信者を偽れないようにするためと、単純に筆鳥の栄養になるためである。筆鳥は蜜木の手をひと舐めしたことで、汗や薄い皮膚組織を取り込んだわけである。
「できれば至急で、お願いしたい。必ず、銀将に伝えてほしい」
筆鳥はうなずいた後で、もう一度蜜木の手を舐めた。
「お願いします」
蜜木がいうと、筆鳥はものすごい速さで空を飛んでいった。
それから蜜木はセツに見送られて、宵の家を後にした。
そして夜風がいる洞窟へと向かった。
洞窟に近づくにつれて、以前よりも妙な空気が流れているように感じられた。夜風がいるはずの洞窟に近づけば近づくほどに、ここから逃げろと蜜木の本能が警鐘を鳴らす。しかし蜜木は冷や汗をかきながらも、洞窟へと進んだ。
夜風の放つ毒気が強すぎるせいか、蜜木に襲いかかってくる害妖は少なかった。しかし夜風と対面する前に、これ以上の体力の消耗は避けたかった。
そのため蜜木は、宵に分けてもらったタバコに火をつけた。吸っている間は、生き物が寄ってこないというあのタバコである。何度かむせたが、肺に煙が入ってくる感覚にはすぐに慣れた。
タバコを吸っている間、蜜木の心は恐ろしいほど凪いでいた。
洞窟の中に足を踏み入れてもなお、緊張や畏れといった感情は湧いてこなかった。
ただ、自分の死に場所はここなのだと、そう思うだけだった。
タバコを吸い終えても、周囲に妖怪の気配は感じられなかった。おそらく洞窟の中には長い間、夜風の放つ毒気が充満しており、それが夜風一族以外の侵入を許さなかったのだろう。
妖怪の気配はない。しかし遠くに災厄のような何かがある。おそらくその正体が夜風なのだろう。
洞窟の中はしばらく狭い一本道であったが、はるか前方にぼんやりと光りが見えた。進んでいくと、洞窟の道らしきものは消えて拓けた場所になっていった。
さらに奥に進むと、まばらに陽光が漏れている場所があった。ぼんやりと見えていた光は、ここの光だったらしい。漏れている光の側には、地下水に満たされた場所があり、それは美しい湖のようだった。
三百年生きた妖狐の死に場所にふさわしい、静かで美しい場所に思えた。
蜜木は誘われるように、光の射す方へ足を進めた。
そうするうちに、大きな妖狐が物陰で丸くなっているのを発見した。その妖狐は想像よりも大きく、蜜木は思わず息を飲んだ。
尻尾も三つあるので、この妖狐が夜風であることは疑いようがなかった。
夜風は正気を保つためなのか、それともどこか痛むのか、目を閉じて丸くなったまま、苦しそうに大きく呼吸をするばかりであった。
蜜木は夜風を刺激しないように警戒しながら、近くにいるはずの宵を探した。
夜風の周囲を注意深く観察すると、宵の姿はすぐに見つかった。宵は夜風から十メートルほど離れた場所で、足から血を流して倒れていた。
蜜木は足早に宵に駆け寄った。
「宵、大丈夫か」
蜜木は宵を腕に抱えていった。
宵は薄く目を開けると「みつ、き」と苦しそうな声でいった。
足だけでなく、他にも負傷した箇所があるらしい。それでも命に別状はないようなので、蜜木はとりあえず胸を撫で下ろした。
しかしほっとしたのも束の間で、常に鼓膜を揺らしていた夜風の苦しそうな呼吸が、威嚇するような声に変わっていることに気がついた。
反射的に妖狐の方に視線を向けると、その大きな爪がすぐ目の前に迫っていた。
蜜木は宵を抱きかかえたまま、その攻撃を避けるべく身をひねった。
ガリッ……
意識が飛びそうな痛みが全身を駆け抜けた。致命傷はどうにか避けたが、肩から背中にかけて、ざっくりと爪で切りつけられた。
蜜木は宵を地面に寝かせると、抜刀して妖狐を見据えた。
夜風はすでに正気を失った目で、こちらを睨みつけていた。すでに死というものが、彼を侵食しているようである。そしてその目に映っているはずの自分のすぐ側にも、死の気配が漂っているように感じられた。
夜風は、蜜木を見据えて
「みつき、ダメだ。に、にげろ」
耳をつんざくような咆哮の中で、宵はいった。
「逃げない」
蜜木はいった。
「お前を、一人にはしない」
宵を置いて逃げるよりも、この場で死ぬ方が悔いはない。
蜜木は心からそう思っていた。
「宵、目を閉じていてくれ」
蜜木はできるだけ落ち着いた声でいった。
大きな妖怪と対峙したことは何度かある。その際の心得を、蜜木は心の中で反芻した。
「むり、だ。やめろ」
宵がそう言い終える前に、夜風は再びこちらに襲いかかってきた。
蜜木がその攻撃を寸前で避けた瞬間、妙な感覚に包まれた。
自分は、夜風に勝てる。
なぜかそう確信した。
蜜木は攻撃を避けた後、その動きを止めることなく夜風の心臓に狙いを定めて肢刀を振った。
夜風はそれを避けることもできたはずである。しかし蜜木の肢刀は、あっさりと夜風の心臓を切り裂いた。
それはあまりにも、あっけないものだった。だからこそ、幻術を見せられているのではないかとさえ疑った。
しかし蜜木の手には、夜風の心臓を斬った感触がしっかりと残っていた。
心臓を裂かれた夜風はすぐに事切れることなく、その場でもがき苦しんでいた。
宵の方に目をやると、宵は気を失っているようだった。精神的な自己防衛で気を失ったのか、目の前で父親の心臓を切り裂かれたショックで気を失ったのかはわからない。
宵にどんな顔を向ければいいのかわからなかったので、蜜木には少しだけ安堵する気持ちもあった。
こうするしかなかったとはいえ、宵の目の前で父親を殺した。それは自分が一生をかけて背負う
蜜木は気を失った宵を抱えて、必死に洞窟を走った。
背後からは、夜風の断末魔が響いてきた。
夜風が追いかけて来ることはないだろう。しかしその声が宵の耳に届かぬように、宵になんらかの影響が出ないように、蜜木は肺が破れんばかりに走り続けた。
洞窟を抜けても、夜風の断末魔は蜜木の耳から離れなかった。
それは実際に聞こえているのか、蜜木の耳に残り続けているのか、それさえも蜜木には判断できなかった。
蜜木は洞窟から充分に離れた場所までいくと、宵を大きな木の根本へ寝かせた。そしてできる限りで、宵の手当てをした。
そうしていると、宵の兄姉と思われる妖狐が数匹ほどこちらへとやって来た。
「ヨイ」
「ヨイ、ダイジョウブか」
まだ日があるせいか、妖狐たちは人間の姿にはならずにキツネの姿のままで宵に話しかけた。
「宵を頼む。俺は、君たちの、父親の様子を、見てくる」
蜜木はそういって、ふらりと立ち上がった。
妖狐たちは「わかった」と、それぞれ力強くうなずいてくれた。
そして再び洞窟に向かおうとする蜜木の背に「ありがとう」と発した。
その言葉があまりにも切実で、蜜木は思わず振り返った。
宵を囲む妖狐たちは、まっすぐな視線を蜜木に向けていた。
蜜木は妖狐たちに、小さく頭を下げた。
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