第六章【いくな】


 遠くない場所で、話し声がする。

 複数の声がする。

 一度そう意識してしまうと、耳は無意識にその声を捕らえようとする。

 その声の中に聞き覚えのある声はない。

宵らしき声は混じっていない。だからこそ、余計にその話し声が気になった。

 こんな場所で、誰が?

 そう思ったところで、蜜木は完全に目が覚めた。

 布団の中に宵はいなかったが、足の裏の痛みはない。それほど離れた場所には、いっていないのだろう。

 蜜木は布団から抜け出すと、声のする方へと向かった。

 世界はまだ闇の中で、真夜中といっていい時刻のようだった。山の夜は、いくつもの黒が散りばめられたような闇がどこまでも広がっているようだった。


「お父様は、もうダメだ」

「放つ毒気も、いよいよひどい」

「俺たちではもう、近づくことも難しい」

「明日か明後日には、正気を失って暴れ出すだろう」

「そして力尽きたら、ようやく死を迎えるのか」

 声の正体は、複数の妖狐たちだった。

 人の姿にはなっていないようであるが、人語で会話をしている。その中には、宵も、セツらしき姿もあった。おそらくここにいる妖狐らは、宵の兄姉たちなのだろう。

 その場に宵の姿はあれど、兄姉たちの話を悲しげに聞くばかりで、口を開く様子はなかった。

「お父様が暴れ出す前に、俺たちでとどめを刺してやるべきだ」

「妖狐である俺たちには、そんなことはできないという結論になっただろ」

「でも人間の血を引く宵なら、お父様の影響が一番出ない。宵ならできるはずだ」

「そうだとしても、宵にそんな役目を背負わせるわけにはいかない」

 会話を聞く限りでは洞窟にいる妖狐、夜風は宵の父であるらしい。

 つまり宵をここまで育て上げたのは、夜風ということになる。

夜風はおそらく人間の姿で、宵を育てたのだろう。三百年生きたとされる大妖怪は、蜜木が想像する以上に大きな器を持つ妖狐なのだろう。

「しかしお父様が正気を失えば、俺たちも影響を受ける可能性は高い」

「私たちは一時的に、山を離れるべきかも知れない」

「しかし正気を失ったお父様を放って置くことも到底できない。お父様自身であっても、最期に夜風の名を汚すことをしてほしくない」

「それは、そうだが。私たちではどうしようもできない」

「やはり宵に、お父様にとどめを刺してもらう他ないだろう」

「宵自身はお父様に人間を食わせて、寿命をのばしてやりたいのだろ。その意志は、変わっていないのか?」

 妖狐らの視線が一斉に、宵に集まった。

 宵は叱られた子どものように、押し黙っていた。

 父に人間を食わせたいというのは、おそらく自分がここに匿われている理由なのだろう。宵が自分をどうしたいのかをようやく理解できたことで、蜜木は安堵した気持ちにさえなった。

「人間を食わせて延命しても、お父様はきっと喜ばない」

「お父様が死ぬのは寿命だ。人間を食わせて延命しても、また数年ののちに同じことになるだけだ」

「宵はお父様と過ごした期間が、私たちよりずっと短い。気持ちはわかる」

「俺たちも、お父様には死んでほしくはない。でも仕方のないことなんだ」

 妖狐たちは宵に対して、幼子をなだめるような声でいった。

「しかし宵はもう、人間をさらって来てしまったのだろ」

「そうだとしても、人間を食わせてはダメだ。お父様の死は避けられない。どうか、聞き分けてくれ」

 宵は浅くうなずいたように見えた。

「わかった。人間を食わせることはしない」

 宵は消え入るような声でいった。

 妖狐たちは宵が聞き分けてくれたことに、安堵した様子であった。宵にとって彼らは、聡明で頼りになる兄姉たちであることは疑う余地はなかった。

「誰よりもお父様に死んでほしくないと思っている宵に、お父様を殺してもらうことなど、やはり到底できない。人間に、妖将官たちに頼ってみるのはどうだ。人間なら、お父様の毒気の影響を受けることもないだろう」

「人間に、お父様を八つ裂きしてくれと頼むのか?」

「そうはいっていない」

「同じことだ。大勢の人間でなければ、お父様の息の根を止めることはできない」

「そんなむごい最期になるのか」

 妖狐たちは閉口した。

 その沈黙を破ったのは、宵だった。

「私が明日、お父様にとどめを刺す」

 宵の声は震えていた。

 妖狐たちはそれぞれに意見を述べたが、結局は宵にそれを委ねることで意見がまとまったようだった。

 そして妖狐たちは、宵を包み込むように体を寄せた。

「私たちも、できる限り宵の側にいる」

「頼りにならぬ兄たちですまない」

「辛い役目だ。でも、ありがとう」

 妖狐たちは宵を慰める言葉や、お礼をいった。

 そして彼らは宵に見送られて、山の中へと去っていった。


 宵はしばらくその場で静止していた。

 それから肩が震えたかと思うと、嗚咽が漏れ聞こえ始めた。

「うぅ……うわぁぁああああ」

 蜜木は思わず宵に駆け寄り、その冷えた体を抱きしめた。

「いやだぁああ、お父様ぁぁあああ。いや、いやだぁぁぁあああ」

 宵は悲痛な声で泣いた。

 蜜木は宵をあやすように「そうだな。辛いな」と背中を撫でた。そして「大丈夫、もう大丈夫だ」と、くり返した。



「お父様は人間の心臓を食べて、その寿命を延ばしたことがあると聞いたことがあった。だから私は、妖怪の毒が抜けたら、お前をお父様に食べてもらおうと考えていた」

 宵は蜜木の胸の中で、懺悔するようにいった。

「俺が宵の婿になることには、なにか意味があったのか」

「近しい者の心臓を食べるほどに、寿命が伸びるとされている」

 犠牲の代償が大きいほどに、得るものが大きいのは世の摂理である。蜜木はその理由に深く納得した。

「しかし兄姉たちに、それはならぬといわれていた。これ以上、お父様に呪いを宿してはならぬと」

 宵の兄姉はどれほど生きているのかわからない。しかし理性的で、立派な妖狐たちである。

「お父様自身も、兄姉たちも、寿命が尽きることを受け入れている。お父様は三百年も生きた妖狐だ。充分に生きたと、そういっている。でも私は、まだお父様に生きていて欲しい」

 宵はそういって、また涙を流した。大切に思う父親が助かるなら、有象無象の人間の一人を差し出したくなる気持ちもわかるように思った。

「その気持ちは、わかるような気がする」

「お前はこんな扱いを受けても、怒らないのだな」

「俺は結果として、宵に命を助けられただけだ。それに、ひどい扱いをされたわけでもない。状況がわかった今、助けになりたい。父親にとどめを刺す役目なら、俺が引き受ける」

「私でなければ警戒される。それに、その体では無理だ。簡単に返り討ちにあってしまう」

「それなら、妖将官の仲間を呼ぶ。宵が手を汚すことはない」

 宵は首を振った。

「私も、兄姉たちと同じだ。大勢にお父様をいじめられたくない。お父様が、かわいそうだ」

 宵はそういって、蜜木にきつく抱きついた。

「でも父親を殺すなんて役目を、宵が引き受ける必要もない。なにか方法を考えよう」

 宵は再び首を振った。



「いいんだ。もう決めたことだ。それにもう、時間がない。お父様は早ければ明日にも、正気を失ってしまう」

 宵は会話を終わらせるようにいった。

 異物である自分が我慢をすれば、収まりがいい。それが一番いい。蜜木はそう思って家を出た。

 そして目の前にいる宵も、自分が我慢をすればすべてが収まると思っている。すでに自分の運命を享受してしまっている。

その事実が無責任にも、ひどく悲しかった。



「蜜木、起きろ」

 宵は泣き腫らした目で、こちらを見つめていた。

 宵の憂いを想像すると、蜜木はやはりたまらない気持ちになった。宵の目元を撫でると、宵は蜜木に唇を押し当ててきた。宵の舌が口内に入ってきたかと思うと、蜜木はそのまま何かを飲まされた。

 それは解毒剤とも、痛み止めとも違った舌触りであった。


「なんだ。なにを飲ませた?」

「逃げろといってくれたこと、うれしかった。逃げろといってくれたのは、お前だけだった。もしかしたら私はずっと、逃げ出したかったのかも知れない」

 宵は蜜木の問いには答えなかった。

「今からでも、遅くない。一緒に山を下りよう」

 宵はやはり首を振るだけだった。

 ほどなく蜜木の視界は、不自然にぼやけていった。

「睡眠薬、か」

 目覚めたばかりであるが、蜜木は抗えない眠気に襲われていた。飲み込んだのは、もしかしたら麻酔薬の類かも知れなかった。

「心配するな。毒ではない」

「おれ、は、宵の心配を、したい、だけだ」

 宵は「足の呪術は解いておいた」と、短く蜜木に告げた。

「いくな」

 宵の手をつかんでも、その手は優しく振り払われた。

 そして蜜木の視界を閉ざすように、宵の手は蜜木の目元に当てられた。

 宵は「ありがとう」といった気がしたが、それは幻聴かもしれなかった。

 途切れた意識の中でも、蜜木は宵のことだけを想っていた。







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