第五章【異物】
◆
「無理をさせたと思う。しばらく眠っていろ」
蜜木は宵の言葉に甘えて、少し眠ることにした。
無理をしていたわけではないが布団に入ってしまうと、自分がひどく疲弊していることに気付かされる。
夕暮れ前の明るい部屋で夢と
宵のその表情は、実家に住んでいた頃の自分を彷彿とさせるものだった。
蜜木の実母は、蜜木がまだ赤ん坊の頃に病にかかり、数年の闘病の末に亡くなった。その数年後、父は後妻を迎えた。
そのため実家の弟妹は、全員が後妻の子である。つまりは腹違いの義弟妹である。継母は蜜木をかわいがってくれたし、義弟妹も蜜木に懐いてくれていた。実家について、なんの不満もなかった。
しかし蜜木はいつからか、自分はここにいない方がいいのだろうと思うようになっていた。
蜜木の実家は酒造を営んでいる。蜜木は酒を造る父も、そこで働く職人たちも好きだった。自分もいずれはそれに混じって酒を作って生きていくのだろうと思っていた。
しかし十歳になる頃、世の中というものがだんだん見えてくるようになった頃、この酒造は継母の長男が継いだ方が収まりがいいのだろうと思うようになっていた。
このまま実家に残れば、自然と自分が酒造を継ぐことになるだろう。しかし継母がそれを心から歓迎してくれるのかは、蜜木にはわからなかった。
そう考えた時、自分はこの家の異物なのだと気がついた。だからこそ蜜木は他者にそう認識される前に、自分の意思で家を出ようと思ったのだった。
家を出るには妖将官を目指すという理由が、一番体裁がよかった。だから蜜木は必死で勉強に励み、妖将官試験に合格したのだった。家族もそれを喜んでくれた。
自分の選択は正しかったと、そう思った。
宵の寂しそうな横顔を思い出すと、彼女も自分と同じく家族になんらかの感情を抱いているように思えた。
しかしそれは、誰にも口にしないのだろうとも思った。
◇
ふと目を覚ますと、宵が隣で寝息を立てていた。
昼寝のつもりであったが、すでに真夜中のようである。
蜜木が宵の髪に触れると、彼女はうっすらと目を開けた。
「起きたのか」
「うん。でもまた、すぐに眠ると思う」
「腹は減らないのか」
宵にどんな
「大丈夫だ。ありがとう」
蜜木は宵の白い頬に触れてみた。宵は嫌がる様子は見せずに、それを享受するように目を閉じた。
「私を脅して、自分の持ち物を奪おうとは考えないのか」
蜜木が自分の持ち物を取り戻そうと考えていることは、気付いていたらしい。
「持ち物は返して欲しいが、命の恩人を脅したくはない。それに宵は、どんな脅しにも屈しないような気がする」
蜜木の言葉に、宵はなにもいわなかった。二人の会話はそこで終わるはずだった。
しかし蜜木は目を閉じた後で、静かに口を開いた。
「今日はなんだか、幸せな夢を見ているみたいだった」
「夢? 痛み止めが効きすぎて、頭がぼんやりしていたか」
「いや、そういう意味ではなくて。薬草を摘むのが、楽しかった」
地に足のついた生活とでもいうのか、本日は久しぶりに人間らしい営みに触れたように思った。
妖将官になって以降、実家に帰ることはなんとなく避けていた。その理由をうまく説明できなかったが、今日を経てようやく理解できた。
自分はおそらく、妖将官には向いていない。
それを実感してしまうことが、怖かった。
「やはり、山を下りたくはないのか」
蜜木は自分の思考を振り切るように、宵に質問した。
宵はその問いには答えずに「明日も薬草摘みだ」と短くいった。
宵と、宵の生活を守るためにも、早く仲間に連絡を取りたい。
しかし先ほど宵にいったように、彼女を脅すこともできなければ、彼女が自分の脅しに屈することもないように思う。今の自分の体調では一人で山を下りることもままならないだろうし、そもそも足の裏の呪術がそれを許さないだろう。
しかしこんなどうしようもない状況下でも、仲間と連絡を取る方法が一つだけある。
それは、宿屋で飛ばした報告書の返信である。
蜜木は銀将を含む上官らに、
筆鳥は宛先に飛んでいくわけではなく、宛人の元へいく。つまり蜜木の報告書に誰かが返信をした場合、筆鳥はこの場所に飛んでくるのだった。その筆鳥を利用すれば、仲間らに連絡をすることは可能である。
しかし報告書に返信が来ることは、ほとんどない。それでも今回については例外である。現在銀将の役職に就いている
しかし役職者は常に多忙である。そのため報告書に目を通すのに、数日かかることもめずらしくない。だからこそ蜜木は、銀将の返信をただ待つしかなかった。
◆
翌日、二人は再び薬草を摘みにいった。
宵は昨日と同じように、蜜木の左腕に三角巾をつけようとした。しかし蜜木は「逃げないから、それはやめて欲しい」と抵抗した。宵は不服そうにしながらも「足の裏の呪術は今も有効だ」と、三角巾をつけるのを諦めてくれた。
「これは似ているが、違う種類だな」
摘んだ薬草を渡すと、宵はいった。
宵に指定された薬草を摘んでいたつもりであったが、似て非なるものだったらしい。それから宵は、ひょいひょいと蜜木が摘んだ薬草を選別した。
「そうか。理由もなく摘んじまったな」
蜜木はなんだか申し訳ない気持ちで、宵が選別する薬草を見つめた。
宵は、そうしている蜜木をじっと見つめた。
「なんというか。そんな性格で、
どうしてか蜜木はその言葉に違和感を覚えた。しかしそれが、どうしてなのかはわからなかった。
「妖将官は、妖怪を殺すだろ」
宵は遠慮がちにいった。蜜木に失礼であると、そう思ってくれたのかも知れない。
「そうだな。増えすぎたり、人を襲う妖怪は、害妖として手にかける」
害獣や害鳥もそうだろ。
そう続けようとしたが、言い訳のように思えたので口には出さなかった。
民衆のため、と害妖を斬っているが、結局は人間都合の殺生でしかない。その事実が、心を
自分が間接的に人を守っているとしても、その実感が得られたことはほとんどないのが現状であった。
「理解はできるが、家族がみな妖怪だから、どうにもな」
苦手意識がある。受け入れがたい。
そんな言葉が続きそうだったが、宵はそれ以上いわなかった。
「宵は今が本来の姿なんだろ。人間にしか見えないが、妖怪との方が馬が合うのか」
踏み込みすぎた質問かとも思った。しかし先ほどの質問を受けて、これくらいは許されるだろうと思った。
「どうだろうな。私は妖怪も、人間も好きだ。でも家族以上に、人間が好きだとはいえないだろうな。家族と他者は、同列には語れないだろ」
「その通りだな」
蜜木が納得すると、宵は「そうだろ」と満足したようにいった。
「宵はセツと同じで、妖狐の血筋だよな。なにかに化けることもできるのか?」
「自分より小さい人間に化けたり、キツネの姿になることはできる」
「へぇ。大したものだな」
蜜木が感心すると、宵は照れたように微笑んだ。
何を褒められて喜ぶのかは千差万別であるが、宵は妖狐の血を誇りに思っているのだろう。そう感じられるような笑顔だった。
その後で、蜜木の中に一つの予感が点灯した。
蜜木は何度も山から逃げろといったが、宵はその理由を聞いてこない。
もしかしたら宵はその理由を知っているのではないか。その場合、なぜ山から逃げようとしないのか。もしかしたら宵は死に際にいる妖狐、夜風と血縁関係にあるのではないか。
そんな予感が、蜜木の胸を支配した。
◇
家に帰ると、宵は左腕の包帯を交換してくれた。
宵が自分になにをしようとしているのか、なにを考えているのかはわからない。しかし治療をしてくれる宵の手はいつも優しい。それだけは疑いようのない事実だった。
宵は昨日と同じく「眠っていろ」と蜜木にいった。しかし昨日よりもだいぶ回復していたので、蜜木はそれを断り夕餉の準備を手伝うことにした。
「なんだか、とんでもなく美味い味噌汁だな」
蜜木はそういって、口にした味噌汁を見つめた。
「味のついたものを、久しぶりに口にしたせいだろう。粥ばかり食べていたわけだしな」
宵は涼しげな顔でいった。
たしかにここ数日は水と粥しか口にしていなかった。それを差し引いてもうまい味噌汁だったので、蜜木はひどく満たされた気持ちになった。
「なんだか、とんでもなく美味い米だな」
今度は宵がそういって、茶碗に盛られたご飯を見つめた。
米を研ぎ、そして米を炊いたのは蜜木である。
「米びつに入っていた米を使わなかったのか?」
「いや、米びつの米だよ。米の磨き方は小さい頃から父親に教わっていたんで、少し自信がある」
蜜木は得意げにいった。
「父親は料理人か、なにかなのか?」
「いや、うちは酒造なんだ。だから酒の作り方は、一通り父親に教わってた。その過程で、米の磨き方も教わったんだ」
そういった後で「まあ、全部無駄になったがな」と蜜木は小さくいった。
「宵は、炊事は誰に教わったんだ?」
蜜木は話題を変えるように宵に問うた。
「私ができることは、ほとんどすべてお父様に教わった」
男親が娘に家事を教えるのは、よほど根気のいる作業のように思える。宵の父は、偉大な人だったのだろう。
そう考えると必然的に、母親が妖狐の血筋にあるのだろうか。そしてそれは、夜風の血筋なのだろうか。
◇
その夜も、蜜木と宵は同じ布団で眠りについた。
これ以上回復したら、何をするかわからないぞ。そんなことをいってやりたい気もしたが、やめておいた。警戒されないのも悲しいものがあるが、必要以上に警戒させるのも不本意であった。おそらく妖狐にとっては、身を寄せ合って眠るのは自然な行為なのだろう。
蜜木が宵を抱き寄せてみても、宵はそれを自然に受け入れた。
「お前はさっき、教わったことは全部無駄になったといったな。それはお前が、妖将官になったから、という意味なのか」
宵の質問に他意はなく、純粋な疑問として蜜木に向けられている。そう感じられたからこそ、蜜木は正直にその理由を話す気になった。
自分だけが先妻の子であること。継母も、義弟妹も、好きだったこと。実家で働く
蜜木はそれらすべてを、宵に話した。
「俺は実家が好きで、そこを居心地の悪い場所にしたくなかったんだと思う。俺が妖将官になれば、すべてが丸く収まるように思ったんだ」
「お前は、それでよかったのか」
「そうだな。今のところ、後悔はしてない。向いていないとも、思うけど」
蜜木は素直にいった。
「そういう理由で妖将官になる者もいるんだな」
「案外多いような気もするな。子どもは選べる職業は多くはないし、無意識に親の望む道を選んでしまうものだと思う」
そういった後で、蜜木は息を吐いた。
「今思うと父親は、後妻の子を跡継ぎにしたいと思っていて、俺もそれを感じとっていたのかも知れない」
宵は静かに、蜜木の体に細い腕を回した。
「今日の米は、今まで食べた中で一番美味かった。それは、父親に教わったといったな」
「そうだな。父親に教わった」
「全部が無駄になったわけではなかったな。私は今日のことを、米を食べる度に思い出すと思う。それくらいには美味かった」
酒造で育ったことを、こんな風に肯定される日が来るとは思ってもみなかった。そのせいか蜜木の心臓はぐぅと鳴りそうなほどに苦しくなった。なんだかどうしようもなくなって、蜜木は宵に頬を寄せた。
「救われた命だ、なんでもしてやりたいと思ってる。だから一度、山を下りよう。安全な場所に、逃げて欲しいんだ」
宵は沈黙した後で「それはできない」といった。
それは洞窟にいる妖狐と、関係があるのか?
そう聞けないのは、すでに蜜木の中に確信めいた予感があったからだろう。
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