第九章【幸せ】


 妖狐として生まれ落ちて、何度も冬を越して、何度も春を迎えた。

 永く生きるうちに、いつの間にか尻尾が三つになっていた。

 尻尾が二つだった頃から、人間に化けるのが特技の一つになっていた。

 人間に化けて、それと関わっていくうちに、妖狐は人間が好きになっていった。

 だから人間に化けて人里に下りては、積極的にそれと関わるようになった。そうしていくうちに、人語も得意になっていった。

 夜風。

 そう名付けてくれたのは、人間の飲み仲間だった。

「お前が現れる時、いつも微かに風が吹く。少しだけヒヤリとするから、すぐにお前だとわかるんだ」

 妖狐はその日から、夜風と名乗るようになった。

 その飲み仲間はおそらく、こちらの正体が妖狐であることに気付いていたのだろう。しかしその者とはそれからもずっと、飲み仲間であった。その者が老いて、病に臥せるまで、飲み仲間だった。


 仲のいい人間が老いて死んでいく。

 どれほどの友人を見送ったのか、もうわからない。

 そうして時を過ごすうちに夜風も老いていき、性格もずいぶん穏やかになっていった。

 自分もそろそろ寿命を迎える。

おそらく五年以内には、この命も尽きるだろう。夜風がそう感じ始めていた矢先のことだった。

 夜風は人間に恋をした。

 人間に化けて出会った娘であったが、夜風が妖狐と知っても関係は変わらなかった。

 それから二人は夫婦になった。

 ほどなく二人の間に、娘が生まれた。

 娘には、よいと名付けた。

 夜風は、同族や妖怪の類の間に多くの子を授かっていた。しかし人間との間に子どもを得るのは始めてだった。

「かわいいな。この子が、私の最後の子だ」

 夜風は持てる愛情のすべてを向けて、赤ん坊を見つめた。

「最期まで、一緒にいてやれないのが残念だ」

「時間は問題ではありません。かけがえのない瞬間を重ねていくだけで、人は強く生きていけますから」

 妻は微笑んだ。

 強い女だった。

 自分は妻に看取られて最期を迎えるのだと、夜風は信じて疑わなかった。

 そしてそれは、とても幸福なことだと思っていた。

 しかしそうはならなかった。


 宵が生まれた三年後、妻が流行病にかかった。治療法のない病であった。

 それでも夜風は献身的に妻の看病をした。持てる知識のすべてをかけて、妻の病を治そうと試みた。そのせいで、いつのまにか家の周りは薬草だらけになった。

 しかしなにをしても、妻は日を追うごとに弱っていくばかりだった。

「あなた、お願いがあります」

「なんだ、なんでもいってみろ」

 久しぶりに妻が口を開いたので、夜風はうれしかった。

「あなたは今も、私のことを大切に思ってくれていますか?」

「もちろんだ。なによりも大切な、私の妻だ」

 妻は安堵したように微笑んだ。


「私の心臓を食べて下さいな」

 妻は弱々しくも、はっきりといった。

「あなたの一族は、近しい者の心臓を食べると寿命が延びるんでしょう?」

 いつかそんな話をしたことはあった。しかしそんな方法で寿命をのばした場合、ひどい最期を迎えることになるとも伝え聞いていた。

「私の心臓を食べたなら、あなたなら十年かそこらは生きられるでしょう? どうか宵を、人としても、妖怪としても、立派に生きていけるように、育ててやってくださいな」

 妻はそういって夜風へと手を伸ばした。夜風は白く薄いその手を握った。

「そんなことはできない」

「ひどい最期になるとのことですが、その際は私がきっと迎えにいきますから」

「そんなことをいっているんじゃない。生きているお前を諦めることなんてできない!」

「どうか。どうか、お願いします。宵を育てるのは、父親である、あなたにしかできないことですから」

 妻はいった。

 もう目は見えていないようであった。


「私の心臓をあなたに食べてもらえるなら、死ぬことはちっとも怖くないんです。私は、ずっとあなたの側にいられます」

 妻はそういうと、夜風から手を離して懐刀で自分の腹部を刺した。

「私の、心臓が、動いているうちに……どうか」

 耐え難い痛みの中にいるはずの妻は、笑顔でいった。

 夜風は泣きながら、妻の心臓を口にした。



 それから十年の時が経ち、宵は立派に育った。

 そして自分の寿命も、いよいよ尽きる気配があった。

 だから夜風は宵と暮らした家を出て、洞窟をねぐらとした。

 しかし簡単には死ねなかった。

 それは妻を食って、自分の寿命を延ばした報いだった。


 自分の食った命が、身体の中で燃えている。それが毒となって、自分の命を燃やしている。それは想像を絶する苦しみであった。

 しかし妻の心臓をもらった十数年は、何事にも代えがたいものだった。

 壮絶な最期を迎えるにしても、夜風に後悔はなかった。


――お前を、一人にはしない


 自我を失って久しいように思ったが、その声ははっきりと夜風の耳に届いた。

 一人にしない。

 誰かが宵に、そういった。

 夜風は、自分の役目が終わったことを理解した。

――きっと迎えにいきますから

 瞬間、妻に抱きしめられているような感覚があった。

 夜風は最後の力で、どうにか自分を制御した。

 直後、鈍い痛みが心臓を貫いた。


 

 そして夜風が待ち望んだ瞬間が、ようやく訪れた。

 永く生きた。

 幸せだった。







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