第九章【幸せ】
◆
妖狐として生まれ落ちて、何度も冬を越して、何度も春を迎えた。
永く生きるうちに、いつの間にか尻尾が三つになっていた。
尻尾が二つだった頃から、人間に化けるのが特技の一つになっていた。
人間に化けて、それと関わっていくうちに、妖狐は人間が好きになっていった。
だから人間に化けて人里に下りては、積極的にそれと関わるようになった。そうしていくうちに、人語も得意になっていった。
夜風。
そう名付けてくれたのは、人間の飲み仲間だった。
「お前が現れる時、いつも微かに風が吹く。少しだけヒヤリとするから、すぐにお前だとわかるんだ」
妖狐はその日から、夜風と名乗るようになった。
その飲み仲間はおそらく、こちらの正体が妖狐であることに気付いていたのだろう。しかしその者とはそれからもずっと、飲み仲間であった。その者が老いて、病に臥せるまで、飲み仲間だった。
仲のいい人間が老いて死んでいく。
どれほどの友人を見送ったのか、もうわからない。
そうして時を過ごすうちに夜風も老いていき、性格もずいぶん穏やかになっていった。
自分もそろそろ寿命を迎える。
おそらく五年以内には、この命も尽きるだろう。夜風がそう感じ始めていた矢先のことだった。
夜風は人間に恋をした。
人間に化けて出会った娘であったが、夜風が妖狐と知っても関係は変わらなかった。
それから二人は夫婦になった。
ほどなく二人の間に、娘が生まれた。
娘には、
夜風は、同族や妖怪の類の間に多くの子を授かっていた。しかし人間との間に子どもを得るのは始めてだった。
「かわいいな。この子が、私の最後の子だ」
夜風は持てる愛情のすべてを向けて、赤ん坊を見つめた。
「最期まで、一緒にいてやれないのが残念だ」
「時間は問題ではありません。かけがえのない瞬間を重ねていくだけで、人は強く生きていけますから」
妻は微笑んだ。
強い女だった。
自分は妻に看取られて最期を迎えるのだと、夜風は信じて疑わなかった。
そしてそれは、とても幸福なことだと思っていた。
しかしそうはならなかった。
宵が生まれた三年後、妻が流行病にかかった。治療法のない病であった。
それでも夜風は献身的に妻の看病をした。持てる知識のすべてをかけて、妻の病を治そうと試みた。そのせいで、いつのまにか家の周りは薬草だらけになった。
しかしなにをしても、妻は日を追うごとに弱っていくばかりだった。
「あなた、お願いがあります」
「なんだ、なんでもいってみろ」
久しぶりに妻が口を開いたので、夜風はうれしかった。
「あなたは今も、私のことを大切に思ってくれていますか?」
「もちろんだ。なによりも大切な、私の妻だ」
妻は安堵したように微笑んだ。
「私の心臓を食べて下さいな」
妻は弱々しくも、はっきりといった。
「あなたの一族は、近しい者の心臓を食べると寿命が延びるんでしょう?」
いつかそんな話をしたことはあった。しかしそんな方法で寿命をのばした場合、ひどい最期を迎えることになるとも伝え聞いていた。
「私の心臓を食べたなら、あなたなら十年かそこらは生きられるでしょう? どうか宵を、人としても、妖怪としても、立派に生きていけるように、育ててやってくださいな」
妻はそういって夜風へと手を伸ばした。夜風は白く薄いその手を握った。
「そんなことはできない」
「ひどい最期になるとのことですが、その際は私がきっと迎えにいきますから」
「そんなことをいっているんじゃない。生きているお前を諦めることなんてできない!」
「どうか。どうか、お願いします。宵を育てるのは、父親である、あなたにしかできないことですから」
妻はいった。
もう目は見えていないようであった。
「私の心臓をあなたに食べてもらえるなら、死ぬことはちっとも怖くないんです。私は、ずっとあなたの側にいられます」
妻はそういうと、夜風から手を離して懐刀で自分の腹部を刺した。
「私の、心臓が、動いているうちに……どうか」
耐え難い痛みの中にいるはずの妻は、笑顔でいった。
夜風は泣きながら、妻の心臓を口にした。
◇
それから十年の時が経ち、宵は立派に育った。
そして自分の寿命も、いよいよ尽きる気配があった。
だから夜風は宵と暮らした家を出て、洞窟をねぐらとした。
しかし簡単には死ねなかった。
それは妻を食って、自分の寿命を延ばした報いだった。
自分の食った命が、身体の中で燃えている。それが毒となって、自分の命を燃やしている。それは想像を絶する苦しみであった。
しかし妻の心臓をもらった十数年は、何事にも代えがたいものだった。
壮絶な最期を迎えるにしても、夜風に後悔はなかった。
――お前を、一人にはしない
自我を失って久しいように思ったが、その声ははっきりと夜風の耳に届いた。
一人にしない。
誰かが宵に、そういった。
夜風は、自分の役目が終わったことを理解した。
――きっと迎えにいきますから
瞬間、妻に抱きしめられているような感覚があった。
夜風は最後の力で、どうにか自分を制御した。
直後、鈍い痛みが心臓を貫いた。
そして夜風が待ち望んだ瞬間が、ようやく訪れた。
永く生きた。
幸せだった。
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