第56話 宝石のように
自身の容姿がよくも悪くも人目を惹くことに気づいたのは、
個性の一つだろうと気に留めず過ごしていたが、中学二年のときに、生き方の転換を迫られる出来事が起きた。
クラスメイトの女子に、「あたしの彼氏に色目を使うな」と難癖をつけられたのがきっかけだった。クラスの中心にいる女子だった。
名前を聞けば確かに同じクラスの男子だが、色目を使った覚えなどなかった。ただ、普通に話をしていただけだ。他の男子と同じように。
「ごめん、そんなつもりはなかったの」と謝っていれば、丸く収まっていた可能性はある。しかし、自分に非がないことで謝る気は毛頭なかった。
――付き合っていられない。
瑞枝は、相手にせず背中を向けて立ち去った。
すると、次の日から執拗な嫌がらせが始まった。
靴を隠される、教科書を破かれる、トイレに入ると上から冷たい水が降ってくる――。
いずれもありふれた手口ではあるが、それゆえにひどく堪えた。
一人だけジャージに着替えて受ける授業では、どうしようもないいたたまれなさを感じた。これがいじめだとは思いたくなかった。
ある日、教室の真ん中でクラスメイトの女子たちがこれみよがしに話しているのを聞いた。
「いい気味だよね、平瀬は。罰が当たったんだよ。ちょっと顔がいいからって男子にちやほやされてさ。八方美人で誰にでも愛想振りまいて」
そう言ったのは、一番仲がいいと思っていた友人だった。
八方美人のつもりなどない。ただ、女の子はいつもにこやかでいろと母に言われたことを実践していただけだ。
後日、別なクラスメイトから、瑞枝の友人が、とある男子生徒に告白して振られたことを聞かされた。
男子生徒は、「好きな子がいるから」と断ったらしい。その好きな子とは、瑞枝だった。
ふと、いやな考えが浮かぶ。
友人が、あの絡んできた女子生徒を誘導したのだろうか。クラスの中心である女子がにらみをきかせれば、瑞枝を孤立させることはたやすい。
そこまで考えて、どうでもよくなった。どうせ憶測に過ぎない。
悪意のある薄ら笑いを浮かべるクラスメイトに、瑞枝は冷笑で返した。
「だから何? くだらない」
憶測が当たっていても、外れていても、それが瑞枝の偽らざる気持ちだった。
「な……人の気持ちがくだらないってことはないでしょ!」
「私が言った『くだらない』の対象は、自尊心を満たすために誰かを貶めようとするあなたたちのことだよ。もっと他のことに時間を使った方が、遙かに有意義」
「は……?」
怒りのせいか、クラスメイトの女子の顔が青くなる。
「これ以上はお互い時間の無駄だと思うけど」
「………そうね」
クラスメイトは憎々しげに瑞枝をにらみつけ、踵を返した。
以来、女子はこぞって瑞枝を無視するようになった。男子もまた女子の目を恐れて瑞枝から距離を置いた。
嫌がらせは続いたが、何をされても騒ぎ立てず、巨木のように動じない。それが瑞枝にできる戦い方だった。
教師は見て見ぬ振りをし、常に忙しそうな両親や兄に相談はできなかった。だから瑞枝はすべてを自分で抱え込んだ。
そんな中、救いは本だった。昔から好きだったが、この時期は狂ったように読んでいた。
ミステリもよく読んだが、特に好んだのはファンタジーだ。
指環を巡る壮大な冒険譚、自分の影との戦い、初心者パーティが立ち向かう困難なクエスト――。
幻想世界に浸っていれば、現実世界のいやなことを束の間でも忘れることができた。
瑞枝は特に魔法使いが好きだった。
動物と話したり、空を飛んだりといった、現実ではあり得ない不可思議な力。もしも自分が魔法を使えたらという空想は楽しかった。
本がなかったら、自分はきっと潰れていたと思う。
瑞枝の反応がないのがつまらないのか、嫌がらせは徐々に収まっていき、三年生への進級を機に完全に止んだ。難癖をつけてきた女子グループと別のクラスになったのも大きかった。
新しいクラスメイトたちは、普通に接してくれた。しかし瑞枝は、卒業まで誰にも心を開かなかった。
高校はできるだけ遠いところを選んで受験した。
そして、
なんて
透けてしまいそうなほど肌が白く、幻想的で、まるでおとぎ話に出てくる妖精の王女みたいだ。存在感はあっても現実感がない。
高校一年の新しいクラスで初めて岩波鳴砂という少女を見たとき、平瀬瑞枝はそう思った。
現実感がない故に現世を生きる生命力が乏しそうな鳴砂は、しかし強い意志を感じさせる目をしていた。
気だるそうではあるけれど、生きることに真摯に向き合っている。そんな印象を抱いた。
自分とは全然違う。
――どんな子なのかな。
興味が湧いた。けれども、こちらから積極的に話しかけようとはしなかった。
女子との付き合いは面倒くさく、かといって男子ばかりと話していると女子の目が煩わしい。
だから、人付き合いはできるだけ避ける。中学時代の教訓を活かした、それが瑞枝の選択だった。
自分らしさを追求したわけではない。ただ楽な道を歩きたかっただけだ。
鳴砂に興味こそあったが、自身のスタイルを崩そうとまでは思わず、瑞枝はひっそりと高校生活を送っていた。
鳴砂は時折学校を休み、体育はほぼ見学だった。病弱なのは明らかだったが、彼女はそれを苦にしていないように見えた。
そんな鳴砂が見るからに憔悴していた時期があった。
あのときは理由がわからなかったが、いまならわかる。アンファイでの炎上事件だ。
おとなしそうな鳴砂が格ゲーを好んで遊んでいたというのは意外だが、彼女が内に秘めている熱を思えば、順当な選択なのかもしれない。
炎上のせいで己が好きなものから離れざるを得なかった鳴砂の心情を思うと、胸が痛む。
当時、何度か「大丈夫?」と話しかけそうになったが、結局会話は交わさなかった。自分が出る幕ではないと考えたからだ。
少しして、鳴砂は元の(といっても気だるそうなのに変わりはないが)鳴砂に戻った。やはり彼女は強い人だと思った。
けど、瑞枝は少し思い違いをしていた。
鳴砂は、完全に立ち直ったわけではなかったのだ。
鳴砂との関係に変化が起きたのは、文化祭の準備がきっかけだった。
瑞枝は、お化け屋敷の飾り物類の製作担当になった。自分から積極的に申し出たわけではなく、余った役割が自然と回ってきただけだ。
制作担当には他に数人の女子生徒がいたが、彼女たちは瑞枝以上に積極性がなく、放課後になるといつもさっさと帰ってしまった。
「平瀬さん、あとよろしく」
「平瀬さんだったら、声をかければ男子が手伝ってくれるでしょ」
「顔がいいって、得だよね」
そんな言葉を残して。
瑞枝は言い返さなかった。失望もしなかった。こんなものだと思っただけだ。
これまでに、彼女たちと違う関係性を築けた可能性はもちろんあったはずだ。だが、自分が潰してきた。
無関心という壁を作って、人間関係を構築するのを放棄した。
その結果がこれだ。
いっそ自分も投げ出したかったが、がんばっているクラスメイトたちに迷惑はかけられない。
瑞枝は一人で飾り物を作り始めた。
だが、元来手先が器用な方ではない。家に持ち帰って作業もしていたが、間に合うかどうかは微妙なところだった。誰かに相談しようなどとは思いもしなかった。自分一人でやればいい。
自分の教室だと人目があるので、放課後は空き教室でひたすら作業を進めた。
文化祭が迫ったある日の放課後、いつものように空き教室で作業をしていると、不意にドアが開いた。
鳴砂だった。
「平瀬さん、ここで作業してたんだ」
鳴砂は、そう言って瑞枝の前の席に腰かけた。
「あ……え? 岩波、さん。どうして?」
「演技指導が終わって、教室に戻るところだったの。そしたら、平瀬さんの姿が見えたから」
鳴砂はお化け屋敷のお化け担当だ。古いホラー映画に登場する何とか婦人の亡霊役で、演劇部の厳しい指導が入っていると聞いていた。
「練習、大変なんでしょ」
「まあね。でも、自分以外の誰かを演じるのは楽しいよ。衣装も気合いが入っててさ。――私、こんなんだし、仮装なしでもお化けをやれそうだと思うんだけど」
鳴砂は両手をだらんと垂らしてみせる。
冗談にしても笑っていいのかわからず、「そんなことないよ」と瑞枝は真顔で首を横に振った。
「そっか。――実は、お化けは苦手なんだよね」鳴砂は苦笑を浮かべる。
「苦手なのに、引き受けたの?」
鳴砂を推薦したのは、瑞枝に作業を押しつけた女子の中の一人だった。
もしかしたら、と思う。
鳴砂の容姿に対する嫉妬と、若干の悪意があったのかもしれない。
「期待にはできるだけ応えたいから。私がクラスに貢献できる機会って、あんまりないし」
鳴砂は机の向きを変え、瑞枝の机とくっつけた。
真正面から鳴砂の顔と向き合い、瑞枝は思わず見とれた。
やはり、現実離れした雰囲気だ。昔から憧れていた幻想世界の住人が目の前にいる気がした。
「手伝うよ。どうすればいい?」
鳴砂は机の上の厚紙を手に取った。ぼうっとしていた瑞枝は我に返る。
「え……?」
「気になってたんだよね。他の飾り物担当の人たち、いつもすぐ帰ってたから。平瀬さんがずっと一人で作ってたんでしょ」
「……!」
胸が詰まった。人と関わろうとしなかった自分だ。誰も自分のことなど気にしてないだろうと思っていたのに。
「とりあえず、鶴でも折ろうか。どっちかっていうと、私は千羽鶴を折られる側だけど」
おどけた調子で言う鳴砂がおかしくて、瑞枝はつい笑ってしまった。そんな瑞枝を見て、鳴砂も笑う。
「これ、見本だよね。こんな感じで作ればいい?」
鳴砂は、机の端に置かれていたイラストに目を向けた。
「……じゃあ、壁に貼る人魂をお願い。青い紙を使ってくれる?」
いいのかなと思いつつも、ついついお願いしてしまう。
「任せて。にしても、なんで人魂って青白いんだろうね」
手際よく厚紙にはさみを入れながら、鳴砂は言った。そんなの、気にしたこともなかった。瑞枝は首をかしげる。
「さあ……。青い炎って、赤い炎より熱いって聞くけど」
「なら、魂は熱いってことかな」
仮に温度があるとしたら、自分の魂はきっと冷めていると思う。でも――。
「岩波さんのは、火傷しそうなほど熱いかもね」
「なんで?」
「いつも、完全燃焼しようとしているように見えるから」
「そう? 私、やる気がなさそうに見えてるかなって自分では思ってるんだけど」
鳴砂は確かに大体気だるそうではあるが、芯は違う。だが、瑞枝はあえて口にしなかった。
口にせずとも彼女のよさを、自分は知っているのだから。
「どう、これ?」
鳴砂が切り終えた厚紙をひらひらと振る。イラスト通りの人魂だった。
「岩波さん、器用だね」
「弟にせがまれて工作してたから、慣れてるの。子ども向け雑誌の付録とか」
「ああ、紙のロボットとか、基地とかあるね。輪ゴム鉄砲がついてたり」
兄が作っているのを見たことがある。瑞枝と違って、兄は何でも器用にこなせた。
「そうそう。ああいうの、意外と難しいんだよね。平瀬さんは、きょうだいいるの?」
「うん、兄がいるよ」
小さい頃は、よく兄がゲームを遊んでいるのを横で見ていた。――いつからだろう。兄妹で遊んだりすることがなくなったのは。
「へえ、かっこいい?」
「どうだろ。風呂上がりにパンツ一丁でうろついてたりするし」
「あはは、うちの弟もおんなじ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
二人は笑い合う。
ふと、瑞枝は胸が軽くなっていることに気づいた。ほのかに、温かくなっていることにも。
放課後の空き教室、同級生との他愛のない会話、人から見たら取るに足りないありふれた日常の一場面かもしれないけど、瑞枝にとっては宝石のようにきらめく思い出だ。
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