第54話 まるで奈落に落ちていくような

 私は深呼吸する。

 意識しすぎるな。

 なるたけ焦点をぼかすようにしながら、胸元のブローチに手を触れて起動する。そうして、メニューを操作してメモ帳を開いた。

 

 ――本日はご来場いただき、ありがとうございます。

 

 顔を上げて、最初の一言を言おうとした。

 視界の中に、大勢のプレイヤーたちがいた。

 無数の視線を感じて、私は息を呑んだ。

 こんな大舞台は、アンファイの全国大会決勝以来だった。

 アンファイでは、あるいはこれ以上の観客が私の試合を見ていたのかもしれない。けど、こちらがそれを意識することはなかった。

 不意に、心臓の辺りがぎりっと痛んだ気がした。このゲームの中で痛くなるはずないのに。

 頭の中をぶんぶんと、蜂が飛び回っているような錯覚に陥る。

 汗が、脇の下を流れていった気がした。

 客席からの視線が痛いほどに突き刺さる。こちらではあるはずのない吐き気を感じる。

 だめだ。早く原稿を読まなくちゃ。

 私はメモ帳に視線を向ける。

「……え?」

 目に飛び込んできたのは、アルバートさんと一緒に練り上げた文章ではなかった。代わりに書かれていたのは、かつてネットで見た、私に対する誹謗中傷だった。


 調子に乗ってる。まぐれで勝ったのに。

 生意気。

 何様のつもりだよ。

 失望した。

 どうせ引きこもりのブスなんだろ。

 地味でせこい戦い方をして、恥ずかしくないのか。

 子どものくせに――女のくせに。


「……あ、ああ……」

 背筋が泡立つ。足下が揺らぐ。悪意のこもった言葉たちが、私を責め立てる。

 おまえだ。おまえが悪いと。

 まるで奈落に落ちていくような――。

「……ーデ、エーデさん。大丈夫ですか?」

 耳元で、そんな声がした。

「…………?」

 イシダさんとアルバートさん、そして、トーラスさんがこちらを心配そうな顔で見ている。

 アルバートさんが「ブローチを貸してくれるか」と言ったので、私は反射的に外したブローチを渡した。

 アルバートさんはそのままブローチを手にして、客席に向かって言う。

「みんな、すまない。エーデは回線の調子が悪いみたいだ。少しの間、時間を置いてもいいだろうか」

 私はそこで我に返った。

 ――え、あれ? 私、一体何を。

「ユーリさん、ひとまずこっちへ」

「……う、うん」

 トーラスさんに手を引かれ、私は舞台を後にした。


「飲める?」

 楽屋で椅子に座った私に、トーラスさんはジュースの入ったコップを差し出した。売店で売っている果実ジュースだった。わざわざ買ってきてくれたらしい。

 私は礼を言ってコップを受け取り、一気に半分ほど煽った。甘くて、気持ちがちょっと落ち着いた。

「一体、どうしたの?」

「……メモ帳に、書いた覚えのない言葉が」

 私の声は、みっともないくらい震えていた。

「メモ? 僕も見ていい?」

「……うん」

 私はメモ帳を開く。そこに書かれていたのは、元の通りの原稿だった。

 呆然とする。

「そんな……」

 すると、さきほど見たものは、ありもしない幻覚だったのだろうか。

 私はうつむく。

 愚問だった。わかってるくせに。あれは、私の心が見せたものだ。

「今日のところは、やめておきますか?」

 それまで黙って部屋の隅に立っていたイシダさんの言葉に、私はびくりと肩をふるわせた。

「いやだ。やめたくない。来てくれた人たちに申し訳ないよ」

 私は顔を上げる。もう、逃げるのはまっぴらだった。

「ですが、尋常ではない様子ですよ」

「もう、だいじょうぶ」

「そうは見えませんが。やはり、大勢の前に立って、緊張したのですか?」

「……ぅ」

 緊張というのは無論ある。大勢というのも無関係ではない。

「なにか、僕たちで力になれることはある?」

 やさしい声で、トーラスさんは言った。

「一人で抱え込まないで。ユーリさんが強いのは知っているけど、無敵ってわけじゃないよね」

「私も、協力させてください」

 それまでずっと張り詰めていたものが、ふつりと切れた気がした。

「――話を、聞いてくれる? あまり愉快なものじゃないけど」

「もちろん」

「聞かせてください」

 トーラスさんとイシダさんは揃ってうなずいた。

 私は息を吸う。


「――去年、アンファイの大会があったの。全国大会で、最大規模の」

 

 ずっと我慢してきたものを吐き出すように、私は言った。

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