《第一楽章》
《1-1》ボーイ・ミーツ・ディスティニー
「あんた、自分が何してるかわかってんの⁉ この犯罪者‼」
可愛らしく高い、女の子の声がぐさりと僕を貫いた。彼女の言葉に、僕はよたよたと後ずさり、どさりと座り込むしかできなかった。
この暗く狭い自室の真ん中に、真っ白な少女が存在していた。見た目の年齢は僕と同じくらいか、幾分か幼いように見える。柔らかく波打った純白の長髪は、カーテンを閉め切った部屋でも輝いている。脳天にあるぴょこんとした双葉のような癖毛もアクセントになっている。
キラキラした深いマリンブルーの瞳は大きく、チャーミングに吊り上がっていた。纏う洋服も髪と同じ白いワンピースで、フリルが多くあしらわれていて、若干ロリータのような系譜を感じるが、彼女の雰囲気に良く似合っている。
そのスカートから伸びる小さい脚は、もう、ものすごい美脚だ。僕が脚フェチだったら、舐めまわすように見ていただろう。そんな彼女の足元には、油性ペンで書いた魔法陣がある。覚えは、ありすぎた。
そして何より特徴的なのは、彼女の頭上にある物体だ。
猫耳。そう、猫の耳。何度でも言う。獣人を表す白い三角耳がピンッと立っていた。そして先程は無視したが、恐らく尾てい骨あたりから生えているのだろう長い尻尾も揺れている。否、ぺしんぺしんと大きく鞭打っている。
雪のように白い猫耳美少女が、僕を見下ろしていた。
「言っておくけどねえ、子供だからってリリーホワイト家は容赦しないわよ! わかったなら今すぐわたしを帰しなさいよ!」
また怒鳴られた。どうやら僕は彼女を怒らせているらしい。その証拠に、眉間にぎゅっとしわが寄っているし、頬が真っ赤だ。
ここはもう、土下座するしかない。陰キャ中学一年生男子の土下座なんて何の意味も無いかもしれないけど、この和の国に生まれたオノコということで少しくらい価値が上がっていてほしい。
まだ僕は、彼女を返すわけにはいかないんだ。
「待ってください! すぐに返す、返すから、ぼ、俺の頼みを聞いてくれませんか⁉」
姿勢を瞬時に正し、ガバッ‼ と地面に額を擦りつける。
「ハァ⁉」
めっちゃキレられた。咄嗟に手元に置いてあった財布を彼女の方向に捧げる。
「お金と命しか渡せませんが……なにとぞ……」
そうすると、彼女は少し狼狽えたような声を出した。
「ちょ、ちょっとあんたが待ちなさいよ。あんた、なにか勘違いしてない……? わたしは“契約鬼(けいやくき)”じゃないわ!」
「けいやくき……?」
僕は、恐る恐る顔を上げる。足元から見える彼女の表情は、酷く困惑していて、スカートの中にはスパッツがあり、パンツは見えなかった。
「俺は、悪魔召喚の儀式をした、筈なんですけど……」
それを聞くと、彼女は片手で頭を抱え、天井を見上げた。
「……ねえ、あんた、知らないの?」
「はい?」
「もう数百年も前に、その召喚魔法は違法になってるってこと」
真っ白だ。脳内が、彼女色のインクをぶちまけられたように。
「そもそも、『悪魔』って呼び方も差別用語よ。ダッサいわね。昔はそう呼ばれてたけど、今、他の人格者と契約して、契約した人の生命力と引き換えに望みを叶える生態の魔物は『契約鬼』って呼ばれてるのよ」
馬鹿なの? と罵る声は氷のように冷たい。
「じゃ、じゃあ……この魔法陣の効果って……」
震える声で訊ねる僕に、彼女はすたすたと、小学校から使っている学習机に向かう。その天板の上にあったのは、このマンションの一部屋として相応しくないような和綴じの魔導書だった。
白い手が躊躇いなくそれを広げ、ぱらぱらとめくる。青い瞳の視線が油性のインクで描かれた不格好な魔法陣と書物を行き来する。僕はそれを見詰める事しかできなかった。
「……これね」
数秒後、彼女が呟いた。と、同時に、目を丸くした。
「……ねえ、あんた。本当にこの魔法陣を使ったの?」
「え? えっと、恐らく……はい」
彼女の柔らかそうなピンクの唇がもぐもぐと動く。表情は険しく、頬は赤いままだった。
「……この魔法陣の効果は……わたし達が住む世界、『クラスィッシェ』から、『ノイエ』……きっと、あなた達が住む世界……今、あなたとわたしが居る世界に、強制的に、かつランダムで誰かを転移させるもの。対象を定めないから魔力もさして必要ないし、多少雑な魔法陣でも発動するから、例の大戦前は頻繁に使われていた……極めて恐ろしい、拉致魔法」
ひゅ、と僕の喉が鳴る。背筋に汗がつたっていく。その話は、授業で聞いたことがあった。確か、二十年以上の懲役がどうの、とか。なんとか。
「禁術指定、されてないわけないわよね」
僕は、些細な願いを叶えようとした結果、隣世界……『クラスィッシェ』から、獣人の女の子を拉致してきたらしかった。
*
「そ、粗茶ですが」
取り敢えず、家族がいないリビングに彼女を通し、ソファーに座ってもらう。家の中で一番良い湯飲みに一番良い緑茶を注いで持ってきてみた。
「ありがとう」
彼女の細い指が湯飲みを取る。ふんふん、と遠慮なくお茶に鼻を近付けて、匂いを嗅ぐ様子は、やはり獣人らしかった。
「……嗅いだことない匂いね。なあにこれ」
「ノイエ産の緑茶です……」
ぐい、と彼女が僕に湯飲みを押し付け返した。
「お、お気に召しませんでしたか⁉」
「飲んで」
飲んで? 思わず首を傾げる。
「あんた、一口飲みなさい。毒見よ」
警戒心が高い女の子だ。というか、思春期的にはこんなに可愛い女の子に出す予定のものに口をつけるのは、些か間接がキッスなのだがそれは。
「へえ? 飲めないっていうの? じゃあ飲まないわ」
「いただきます、いただきますったら」
ツン、とそっぽを向いた彼女に焦って、僕は口に熱湯をいっぱい含んでしまった。勿論噎せた。
「ごほ、ごほっ……」
「ほら御覧なさい、やっぱり毒が入ってたのね」
「ちが……あつくて」
「……ハァ」
彼女は呆れたようにため息を吐くと、電源が付いていないテレビや電気ケトルに目を向けた。僕は今後の人生であるかどうかわからない、美少女との間接キスの機会と、彼女からの信頼を同時に失ったようだった。
「……ぼ、俺、今川 継護(いまがわ けいご)。今年、十四歳の、人間です。君は……?」
一先ず名乗って、相手の反応を待つ。まるで小さなお姫様のような彼女は、ため息を重ねながら僕を見た。
「ミーシャ」
「ミーシャ?」
「気安くファーストネームで呼ばないで。ミーシャ・リリーホワイト。今年六歳の、猫の獣人よ」
六歳、と驚きかけるが、猫の獣人は人間の1.5倍の速さで成長することを知っていた。それにしたって人間年齢だと九歳か。思ったよりも年下だった。サバを読んでるとしか思えないしっかり具合だ。
僕よりも断然ちゃんとしてそうだし、所作一つとっても『いいとこ』の子であろうことは明白だった。それはさておき、“ミーシャ・リリーホワイト”という名前は、白猫の彼女に誂えたようにぴったりだ。覚えやすくて、とても可愛らしい。
「リリーホワイト、ちゃん?」
「“さん”よ。犯罪者」
言葉と共に胸に罪が突き刺さる。とんでもないことをしでかしてしまった事を改めてかみしめた。
「……ご、ごめんね……こんなつもりじゃなくて……。えっと、自力で向こうの世界に……クラスィッシェに帰ることはできない、よね。ごめんね……」
彼女は大きく頷き、諦めたような口調でこう言った。
「そうね、わたしがどちらの世界も行き来できる“オクターブ”体質だったら、話が早かったのにね」
僕は少し項垂れる。少なくとも彼女は、隣世界と自分が産まれた世界を自由に移動できる『オクターブ』ではないようだ。僕も自分の世界から動けない体質、『トーン』だから、彼女の今の状況には同情せざるを得ない。
「ちなみに、俺はトーンなんだけど、君の音界適正は……?」
「トーンよ。あんたと同じ」
口の中が苦い。どうやってこの子を元の世界、クラスィッシェに帰してあげようか、頭の中がぐるぐるして気分が悪くなりそうだ。両親にバレたらどう言い訳しよう。姉にバレたら死だし、兄にバレたら。
「ケイゴ」
「ひゃいっ⁉」
突然美少女から自分の名前が飛び出してきて、僕の心臓まで飛んでいきそうになる。
「……あの板は、なに?」
「え……?」
ミーシャが指差したのは、さっきまで彼女が見ていた、何の変哲もない液晶テレビだった。黒い画面には白い美少女と、居心地悪そうに立っている僕が反射で映っていた。
「て、テレビだよ。普通の、テレビジョン」
テーブルに投げ出してあったリモコンを取って、電源を押すと、パッと画面が土曜昼下がりの詰まらないバラエティ番組になる。
「にゃ!」
ミーシャは小さく悲鳴を上げ、それと同時に彼女の尻尾がぴんと上がった。
「ほ、ほんとうに、うつるのね……」
そわそわと芸人たちのトークに集中する様子は、僕に毒見をさせようとした警戒心を感じさせない。歳相応の反応だった。
「……あぁ、そうか。クラスィッシェって、こっちで言う中世くらいの技術しかないんだっけ」
僕の言葉に、ミーシャは不本意そうにべしんと尻尾をソファに叩きつける。
「フン、ノイエだって、こっちの中学生レベルの魔法技術しかないくせに」
そう言われてしまえば何も返せない。第一、ノイエの大多数の国では最悪魔力が無くても生活できるような基盤が整っていて、自分の魔法をしっかり使ったり、魔法陣などに魔力を注ぎ込んだりする機会があまりないことが問題だった。授業によると、近年それでこの国は『魔法発展教育』に力を入れているのだが……。
――い、いや、俺はお前の魔法、好きだぜ。冬場とかあったかいし、あ! そうだ登山家とかなれよ! 雪の地域に行けばいいじゃねえか! 魔力が尽きない限り暖かいカイロ、最高だろ‼
「はぁ」
西部地方のコメディアンが男性アイドルをどつきまわっているしょうもない画面を、まるでサーカスでも見るかのように注視している少女をぼんやりと眺めながら、彼女を召喚する経緯を思い出しては落胆する。
神でも仏でも悪魔にでも頼りたいのに、やってきたのは猫耳少女だなんて。ついていないのか、もしくはすぐさま殺されなくてラッキーだったのかよくわからない。兎も角わかるのは、僕の切なる願いは叶えられることが無いようだということだけだった。
「……なに?」
怪訝そうな顔で、ミーシャが此方を振り返る。ちょっと気持ち悪そうだ。
「いや、あ、んーん。それ、面白い?」
「面白いに決まってるでしょう? 内容は……ゴシップかなにかみたいだけど、こんなに鮮明な映像で情報伝達できるのはすごい。……ねえ、これ以外無いの?」
彼女はどうやらバラエティは好きじゃないみたいだ。僕は適当にチャンネルを変え、ミーシャの好みに合うような番組を探った。彼女の機嫌は僕の人生にかかわる。
その中で、彼女の尻尾が立ったものがあった。青い背景の、ニュース番組だ。
「へえ……ニュースとか気になるの?」
彼女は何も答えない。ただ、液晶をまじまじと見つめ、その耳で情報を噛み砕いているようだった。
ついでに僕も現実逃避にニュースを見る。その内容も、まごうことなき現実のはずなのに、明日の朝、この中に僕の顔写真があるんじゃないかと思うと現実逃避になり得るのだった。
『昨日15時半、ノイエとクラスィッシェの界交正常化400周年パレードの最中、大型“ディソナンス”が出没しました』
女性キャスターが淡々と告げた後、画面がパッとこの国の中心を映し出した。
「あ」
それは、僕も利用することがある駅の近くの映像だった。
もくもくと立つ煙と、ファンファンファンと小さく鳴るサイレン、そして一部崩れた建物が、そこで何があったかを効果的に知らせている。
次の瞬間に映されたのは、視聴者投稿であろう縦画面の画質の悪いVTRだ。赤レンガの隙間から、ちらちらと覗く小さなオレンジの炎と、逃げ惑う人々、人間の三倍はある体積の、まるで雪男のような影が朝の光に照らされていた。
それに向かって赤い弾丸の雨が一人の人格者から打ち出され、その隣の影が楽器のような何かを爪弾いたときにカメラが揺れた。
「にゃあ⁉ ちょっと待って!」
そう叫んだミーシャが画面に鼻先をつけんばかりに身を乗り出した。
「え⁉」
彼女は液晶がただの色の粒に見えるのではないかと思うほどの勢いで首を伸ばしているが、椅子には辛うじて座ったままだった。行儀がいい。
『このディソナンス事故による死者は十人、重傷者は十二人、軽傷者は五人。千人以上の大勢の見物客に影響が出たと推察されます』
そして知らない人格者の氏名がいくつかテロップとして出され、画面は、知らない老人の顔面が映された。それと同時に、ミーシャは姿勢を直し、こほんと咳ばらいをした。
『えー、今回の式典に出現しました、未確認攻性魔法生物、いわゆる『ディソナンス』は……あー、『公認我楽団(がくだん)』の『演者(クンスター)』二名……ペンタス、アルヴィエ両名が所属する部隊、MELA(メーラ)が消滅させました。これにおける……』
その名前を聞いたミーシャの瞳はイルミネーションのようにきらきらと輝いている。僕に向ける、踏んづけたガムを見る時のような視線とは真逆だ。こんな光景も、お互いの世界で日常になりつつあるのに、こんなに食いつくなんて。
「もしかして、MELA、好きなの?」
彼女の双葉と耳がぴるりと動き、へにゃと眉が下がった。
「……黙りなさい」
ああ好きなのか。女の子の表情に疎い僕でも確信できるほどに、彼女の反応は素直だった。目は口程に、とはよく言うが、ここまでわかりやすいのか。姉とは大違いだ。
MELAは公認我楽団……“ディソナンス”と呼ばれる怪物と戦う組織の中の特殊部隊と聞いたことがある。確か、成人男性二人組で顔も良く、有能故に一種のアイドル部隊として認識されているらしい。クラスの女の子たちがキャーキャーと雑誌を隠し見ながら盛り上がっていたはずだ。そんなのを好むなんて、彼女は意外とミーハーなのかもしれない。
「MELAが討伐したディソナンス、お、でっかかったよな……そっちの世界のディソナンスもそんな感じなの?」
「……黙りなさいといったでしょう」
黙れと言われてしまえば、僕は口を噤むしかない。老人の声が静まり返ったリビングに響いていた。正直、とんでもなくきまずいし、僕の心境はこれどころじゃなかった。
今、彼女は大人しく画面を見ているが、見せたままではいられない。両親は用事を終えれば帰ってくるだろう。一般男子中学生である僕は、当たり前のように実家暮らしなのだ。誤魔化すにも限度がある。気分の悪さが戻ってきた。どうやって、どうにかして、どうしてこうなった。
ニュースが次の話題に移ると、ミーシャはスッと肩の力を抜いてリラックスしたような体勢になった。というか、力が抜けたのか?
食道炎に怯える僕に、彼女が小さく口を開いた
「……少し聞きたいのだけ」
ぴんぽーん。
「みぎゃっ⁉」
ミーシャの言葉はインターホンに遮られた。まずい。まさか、もう両親が帰ってきたのか。そう考えて一瞬で否定する。両親だったら自分たちの鍵を使って普通に扉を開ける筈だろう。ならば、これは。
ぴんぽーん、ぴんぽん、ぴぽぴぽぴぽ。
成程。確信したと同時に冷や汗がドバっと出てきた。なんで連打するんだ。そっちだって合鍵持ってるだろ。うるさすぎるし最悪過ぎる。その衝動に任せて彼女の手を引いて立ち上がらせる。
「キャッ‼」
「ごめん文句は聞くから‼」
どたどたと廊下を抜け、ミーシャを僕の部屋に放り込む。
「にゃによ‼ 手荒に扱うんじゃないわよ‼ わたしはリリーホワイトよ⁉」
結構雑に押し込んだと思ったのだが、一切よろける様子は無かった。流石猫の獣人、バランス感覚の塊だ。
「ほんとゴメン‼ で、出てきちゃダメだから‼ 一応言っとくけど、外にも出ないでね‼」
ちょっと! という怒鳴り声をバタン! とドアで遮る。そして駆け足で玄関に向かい、勢いよく扉を開けた。その途端、春風が僕の間を通り過ぎて行った。
「遅いじゃない、継護」
案の定だ。明るい赤髪をひとまとめにして胸元に垂らした人間の女性が目の前にいる。
気のきつそうな吊り目はミーシャの猫目とは少し形が違っていて、ミーシャが猫そのまんまなら、彼女は猛禽類に近い。真っ赤な瞳は、僕達兄弟、そして父とお揃いの、忌々しい形をしていた。
服装は三月後半という今の気候らしく、柔らかな桜色のワンピース。その上には薄手のトレンチコートを羽織っていた。
僕よりもまだ僅かに背の高い彼女はげんなりとした様子で僕に一発ぱちんとデコピンした。
「春休みボケイゴのくせに、あたしのピンポンに応じないとは何事か」
「な、なんだよそれ……」
言い返そうにも刷り込まれた従属命令が彼女に逆らう事を阻んてくる。
この女にだけは、知られたらまずい。早速ピンチだ。いや、まだなんとか。
「あの、さ、きょ、今日はどうしたん」
「寒いんだから退きなさいよ」
「はい。」
そう言うか言わないかのところで、彼女は下も見ずに靴を脱ぎ捨て、ずかずかと上がり込んできた。
こうなったら僕に出来ることは殆どない。背骨の中の骨髄がどこかに行ってしまったかのような気分になりながら、リビングに向かう彼女のしっかりした背を追う。
「寒い寒い、もぉ、なんで暖房つけてないのよ。あ、このお茶飲むわよ~」
室内に入るなり、彼女はスマートフォンなども入っているであろうハンドバッグをソファに放り投げ、机の上にあった……というかさっき僕がミーシャに出した夢の残滓を飲み干した。程よくぬるくなっていてさぞ口に合うだろう。何とも言えない釈然としなさが僕の中に残った。
「ね、なぁ、ほんと、今日なんで帰ってきたんだよ」
僕がそう恐る恐る訊ねると、彼女は空になった湯飲みを置いて、ピクリと眉を動かした。
「なんで、とは結構な言い草ね。別に、単に荷物取りに来ただけ。……てか、あたしってより調(しらべ)の荷物を回収してアイツんとこ持っていくの」
調。その名前に僕の背筋は凍り付く。タイミングが恐ろしい程に悪い。
「へ、へぇ。ちな、みに、何?」
「なんか本みたいでね、なんだっけすごい古い魔法陣の本って言ってたかな」
背筋どころか心臓も凍り付く。本当にまずい。なんでこう上手くいかないのだろう。
「アイツ、その本今川の家の書庫からかっぱらってきてたらしくって! それがバレたから戻さなきゃ~なんてケラケラ笑ってんのよ! 馬鹿でしょホント。普通に犯罪よ、窃盗よ‼ 信じらんないわ……」
放たれる言葉が胃を刺す。体感温度が見る見る下がる。犯罪者は、彼女の目の前にもう一人いるのだ。
まともに彼女の方を向けずにちらりちらりと自室の扉を見てしまう。
「……どうしたのよ。妙に顔色悪いわね。大丈夫なの?」
もういっそ嘘だと言ってくれ。震える声達をどうにか統べようとするが、僕の脳にはついていけないとばかりに言葉がどこかに行ってしまう。待ってくれ、話は終わってないぞ。
「……まあいいわ、調の部屋入るわよ」
そう言いながら、彼女は奥に向かう。
ダメだ、それはもう僕の部屋なのだ‼
「まって姉ちゃん‼」
掴みかかってでも彼女を止めようとしたが、時すでに遅し。無慈悲にドアノブは回り、部屋が暴かれる。せめて、せめて、逃げていてくれないか、なんて保身欲が首をもたげてしまう。
「にゃっ」
小さく驚く声が彼女の背の向こう側から聞こえた。少女は僕の言いつけ通りに部屋から出ないでいてくれていて、既に消えかけていた希望が完全に断たれた音がした。
辺りに苦しい沈黙が満ちていく。だがその時間はわずかで、すぐに女性がくるりと振り返り、僕の方へずんずんと詰め寄ってきた。
「あ、あの、これには、えっと」
どうにか空気を和らげようとして発した言葉は、鬼のような気迫を纏った彼女の荒々しい足音にかき消される。ちょっと、ここマンション。
彼女はギリっと奥歯を噛み締め、右の拳を大きく引いた。
「話せばわか」
「この色ボケイゴ‼ なにアンタ、女連れ込んでんのよ‼」
ドゴ、という痛覚を伴った衝撃と共に視界が揺らいだ。彼女の右ストレートは僕の顎をきっちりととらえ、少し離れた場所にある脳に破壊をもたらす。すごい痛い。僕はたまらず蹲り、うぅと呻いた。
「おんにゃ⁉」
遠くの幼い声が僕をひっかいた。
「にゃ、なんだか勘違いしているようだけど、わたしはケイゴの番いじゃないわ! さっき魔法陣で転移させられただけ‼ というか、あんただれよ、この犯罪者の仲間?」
目の前が真っ暗になる。なにもかもおしまいだ。被害者の証言に、部屋の証拠。目撃情報も消失情報もいずれ露わになるだろう。少年院送りも時間の問題だ。
女性はミーシャの言葉を聞くと、ほんの少し黙って僕を見下ろした。
その目にあったのは、無だった。怒りも、悲しみも、呆れすらない。ただ、この状況をどう解決しようかという算段だけが映っていた。
彼女は、視線をミーシャに向けなおす。そして、余所行きの優しい声で、少女に話しかけた。
「ううん、あたしはこいつの家族。大丈夫、あなたの事は必ずお家に帰してあげるから」
女性はそう言って、ミーシャに右手を差し出した。
「継護の姉の、青葉 亜音(あおば あのん)です。私設青葉我楽団のコンダクター……要するにナビね。皆の補佐役やってます! 初めまして!」
そう名乗った女性……僕の姉、亜音にミーシャはぴくっと耳を立てたが、すぐさまふんと鼻を鳴らして、その手を握った。
「へえ、アオバ我楽団のモニタータクトね。公認我楽団員じゃないとはいえ、ケイゴよりは話が通じそうだわ。わたしはミーシャ・リリーホワイト」
姉ちゃんの頬が強張ったのが此処からでもわかった。
「リリーホワイト家の次期家長よ」
誇らしげに、そして優雅に。ミーシャは姉ちゃんに人懐っこく笑いかけた。
「……ちょっとお客さんの前で殴るのは駄目よね」
握手を解いた姉ちゃんが、また僕の傍らにやってくる。悪い予感しかしなかった。
ギュ。
「グエ」
むぎゅっと、内臓が出るかと思うほどの力で姉ちゃんが僕を踏みつけた。
「んの馬鹿継護‼ アンタなんて子を召喚してんのよ‼」
きっと僕は、禁忌魔法を使った事以外で、なにかとんでもない事をやらかしたのだ。激痛に耐えながら、そう悟らざるを得なかった。
……踏むのは良いのか?
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