3、

 

「ああきたない。あんなのを触って手がよごれたわ」


 兄の胸倉を掴んだ手をペッペッと振り払い、私は急ぎ自室へと戻る。手を清めたいとメイドに命じれば、すぐに用意がなされた。

 まだこの頃は、メイドも私の命に従うのだ。

 だがそのうちメイドは居なくなる。祖父が亡くなり父が爵位を継ぐと、父はありとあらゆる節約を始めることとなる……自分の金を増やすために。無駄だからと、私付きのメイドは全て解雇されるのだ。

 両親兄弟、ミリスのメイドも一部を除いて大半が居なくなった。

 そんなことをして、両親達も不便であるはずなのに。ではどうするのか。答えは簡単、家族は私をメイドとして扱うのだ。


 いいようにこき使われる日々。あらゆる用を命じられ、かと思えば急に呼び出され、少しでも遅れたら折檻された。父の振るう拳は痛かった。母が振るう鞭は恐ろしかった。


 贅沢の限りを尽くしながら、自分達以外のことにはとことんまでケチり、私に全ての苦行を押し付ける家族。


 そんなことは、二度とさせない。

 何度もループしてるうちに、嫌でもメイドとしての仕事に慣れた。だが反抗してそれをやらなかったこともある。


「そういえば、お父様に殴り殺されたこともあったっけ……」


 勇気をもって反抗したら、父が恐ろしい形相で殴って来た。激高した父は己の心を制御することができず、死ぬまで私を殴り続けたのだ。何度も死に戻りすぎて忘れていたけど、処刑エンドではなく虐待死もあったなと思い出して顔をしかめた。

 あれもまた祖父が亡くなってからだから、14歳以降。


「なんとしても、お祖父様の病を克服しなければ……」


 現在私は10歳で、祖父が病気を発症するのが13歳のとき。闘病一年で祖父は亡くなる。

 つまり、発症するあと三年のうちに、どうにかしなければならないということ。


「まずは医者に話を聞くのが賢明かな?」


 公爵家お抱えの医者には何度か会ったことがある。

 執事にでも命じて呼んでもらおうか。

 そう思い、立ち上がった。

 その時、突然バタンと勢いよく部屋の扉が開け放たれた。


「リリア!」


 父が血相変えて部屋に飛び込んで来たのである。その顔を見て、うんざりする。その顔は怒りで真っ赤になっていたから。

 チラリと見れば、父の背後に兄とミリアが見て取れた。

 なるほど、父に救いを求めたか。


「なんでしょう、お父さ……!」


 お父様と、最後まで発言することはかなわなかった。突如頬に熱が走り、私の幼い体はいとも簡単に吹き飛んだから。

 椅子にしたたかに体をぶつけ、ガタンと音を立てて椅子が倒れる。私もまた、床に倒れ込んだ。心配する声はかからない。


「貴様、アルサンとミリスに酷いことをしたらしいな!?」


 兄と義妹の名を口にして、父は倒れ込む私に向かってズカズカと近付いてきた。

 グイと胸倉を掴まれ、強引に体が起こされる。全身が痛くて、抵抗できない私は顔をしかめた。


「アルサンはこの公爵家の後継、私の大事な後継だぞ!?」

「ですが、お兄様は嘘をお祖父様に……」

「それがなんだ! アルサンが必要だと判じたなら、それが正しいのだ! ただの小娘が偉そうに発言するな!」


 そう言って、また父は私をぶつ。

 うっすら開いた目に、父の背後に立つ兄と義妹が見えた。


 二人は──ニヤニヤ笑っている。

 ああそうか。


 痛みで頬が熱くなるのに、心は冷える。氷のように冷えるのが分かる。


 そうか、お前たちはまたそうやって、私を苦しめるのね。私が苦しむのが楽しくて仕方ないのね。

 つと、右手を動かせば、何かが手にふれた。倒れた椅子だ。私の部屋に置かれた子供用のそれを、グッと握る。


「いいか、またアルサンやミリスに反抗したら──」

「うるさい、黙れ」


 父の目が見開かれるのを確認した直後、私は椅子を振り上げた。それは見事に父の体にヒットする。


「ぐが!?」


 あまりの痛みに、父が顔を苦悶に歪めた。その拍子に私の胸倉を掴んでいた手は離れ、私は解放される。

 さすがに立つことができなくて、床に座り込んだ私は口の中が気持ち悪くて、ペッと床に吐いた。床が私の血で汚れるのを何の感慨も無く見つめてから、私はノロノロと顔を上げた。


「リ、リア……きっさまあ……」


 痛みに体をくの字に曲げながらも、私に伸ばされる父の手。足は動かないが、動く手で私はそれを払いのけた。いとも簡単に、父の手をはじく。また父が驚きに目を見張った。

 直後、その顔が歪む。


「貴様あ!」


 叫んで、父は私に飛び掛かった。私に馬乗りになり、父が何度も私を殴る。何度も、何度も……。

 けれど私は泣かなかった、叫ばなかった、ただ淡々とそれを受けた。かつて殴り殺された時は必死に抵抗し、泣いて喚いて救いを求めたけれど。そんなことをしても死はまぬがれなかったのに、今更そんなことをしてなんになろう。


いっそ笑ってやれ──


 そんな風に考えて浮かべた笑み。

 きっとそれは壮絶なものだろう。


 

 気味の悪い娘だ。

 そう言って父は立ち上がった。


 どれだけ殴られても表情を変えずにいたら、徐々に父のほうが表情を変える。最初は真っ赤な顔で鬼の形相だったのが、最後には恐ろしいものを見るかのような目が私に向けられた。顔色は青い。

 そしてついには手を止め、父は私から離れたのだ。

 なんだ、変に抵抗するよりもこうすれば簡単に終わったのね。もっと早くに気付けていれば良かったのに。


 うっすら開けた目に映るのは、私を殴った手が赤く腫れあがっているのと、その痛みに顔を歪める父の顔。メイドに冷たいタオルを用意しろと命じ、父は部屋を後にした。おそらく自室で手を冷やすのだろう。


「ふふ、バカみたい」


 私に痛い思いをさせようとして、自分が痛い思いをするなんて。手を傷めるなんて。

 間抜けとしか言いようがないわ。

 本当は大声で笑いたいが、体中が痛くて指一つ動かせない。ゴホリと咳き込めば、血の味が口の中に広がった。


 そんな私の体を、使用人の誰かが慌てて起こし、小さな桶が目の前に差し出される。そこに遠慮なく血を吐き出して、ホッと一息ついた。それを確認してから、誰かが医者を呼びに行くと話すのが聞こえ、誰かが私を抱き抱えて寝台に横たわらせた。


「ありがとう」


 どうにか絞り出した声が、使用人に届いたかはわからない。

 だが直後、使用人以外の者が私の顔を覗き込む気配を感じて目を開いた。

 それだけで痛みに顔が引きつる。


「おに、さま……?」


 それはアルサン兄様だった。お兄様は、私の顔を心配そうに覗き込む……なんてことはしない。

 ニヤニヤと汚い笑みを浮かべて私を見ろしている。


「ざまあないな、リリア。いっそ死ねば良かったのに」


 死。

 11歳の子供が吐くに相応しい言葉とは言えない。それを兄は平然と口にする。妹の私に向けて。


「お兄様あ、もう終わりですの? つまらない……お父様ったら、もっとやってくだされば良かったのに」


 同じく9歳の子供とは思えないとんでもないことを口にするのは、ミリス。

 その顔は本当に残念だと思ってるように見える。


 ギリと唇を噛めば、いとも簡単に血は流れる。唇も切れているのだ。


「まあそう言うな、ミリス。あんまりやっても、な。今後のお楽しみがなくなるだろ? こんな見すぼらしい娘が僕の実の妹だなんて……ホント恥ずかしいよ。我が公爵家のため、美しいミリスのため……こいつには、踏み台になってもらわなきゃ。せめてそれくらいの役に立ってもらわないとな」


 私が聞いてないと思ってるのか、聞いてても構わないと思ってるのか。おそらく両方であろう兄は、そう言って笑う。


「お兄様ったら悪い人……いいえ、素敵な人。大好きですわ」


 そう言って、ミリスも嬉しそうに笑って兄に抱きついた。それを受け止めギュッと抱きしめ返す兄。


「ああミリス、お前は本当に美しく可愛い妹だね。血が繋がってないのが残念で仕方ない。……いや、繋がってないことを喜ぶべきなのかな? 血のつながりがないのなら、結婚もできるからね」

「うふふ、お兄様ったら……」

「愛してるよミリス」


 ミリスの額に兄は口づけを落とし、二人はそのまま手を繋いで部屋を後にした。

 二人が居なくなるのを確認したところで、また使用人達が慌てて駆け寄って来た。

 痛みで動けない私を、メイド達が世話をしてくれる。それをされるがまま、動かせない体の中で唯一動く口をいびつに歪ませる。


「は、ははは……あはははは……」


 大声で笑うことは痛みで出来ない。だが可能な限りに私は笑った、笑い続けた。

 愚か者たちの愚かな行為に、もう傷つく私ではない。あまりに愚かすぎて笑うのだ。

 笑って、笑い続けて。


 医者が来るまで、私はただ笑い続けた。


 涙を流しながら。

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