フクジュソウ

 ここ3日は、毎日出掛けている。


 でも、やっぱり夏は嫌いだ。暑いし、汗はかくし、嫌なことしかない。本当に。


 昨日ぶりにあの喫茶店に入る。


 「いらっしゃいませ」


 昨日と同じように迎え入れてくれた店主に、今日はアイスカフェオレを注文して、店の奥の方に目を向けると彼女が背を向けて座っていた。


 今は客が僕と彼女しか居ないけれど、例え他の人が沢山居たとしても、僕は彼女を見つけられる自身がある。


 家から外に出た瞬間から、この店に入るまで、本当に滅入る気持ちだった。でも、この店に入って彼女を目にしてからは、その気持ちが一気に消えた。天気が雨から晴れに変わったときのように、気持ちがぱっと変わる。


 『こんにちは。お待たせしました』

 

 彼女の目の前に腰掛けながら文字を打つ。


 すると彼女は、また僕に微笑んでくれた。


 『こんにちは。全く待っていませんよ。時間ぴったりですね』


 彼女は、ホットのウィンナーコーヒーとチーズケーキのセットを頼んでいたらしい。彼女は甘いものが好きなんだろうか。


 僕は注文したカフェオレが何時頃運ばれてくるのか心待ちしながらも、彼女とどう話を繋げば良いのか考えていた。


 『ここにはよく来るんですか?』


 僕が精一杯考えた結果がこれだ。ただ、この話が終わった途端、沈黙が流れ続ける事になるだろう。


 『はい。ここが落ち着くので、ほとんど毎日来ています』


 『そうなんですね』


 『あの、あなたのお名前は何ていうんでしょうか?』


 「あ、えっと……」


 少し、戸惑ってしまった。僕は、自分の名前を言うのが嫌いだった。


 名前自体は嫌いではなかった。両親が一生懸命考えてくれた大切なものだ。でも、人に自分の名前を教えることが嫌で嫌で仕方ない。


 別に、笑われたりする名前というわけでもない。

でも、自分の名前を言うと嫌な思い出が溢れかえってくる。


 それでも、彼女にだったら。彼女なら、きっと……


 「……ふー……」


 変な汗が頬を伝った。一文字ずつ緊張しながら文字を打つ。


 『僕の名前は、紅林竜也くればやしりゅうやと言います』


 反応を見る。彼女は、一文字ずつゆっくりと読んでいるようだった。その後、優しい表情でノートに文字を綴る。


 『とても素敵な名前ですね。あなたにぴったりだと思います。紅林さんと呼べばいいですか?』


 『ありがとうございます。あなたが呼びやすいように呼んでください』


 怖かった。とても恐ろしかった。足が震える程に。でも彼女が微笑んだ時、嘘のように震えが止まった。恐怖が、無くなった。きっと彼女になら、僕はこれまでの事を話せるだろうか。


 『分かりました。遅れましたが、私は紫乃しのあやめと言います。私の方も呼びやすいように呼んでください』


 「……あやめさん……」


 初めて、彼女の名前を知った。嬉しさと感動が同時にくる。本当に、美しい名前だ。彼女に良く似合っている。でも、いきなり『あやめさん』なんて呼ぶのはハードルが高い。あやめさんは僕の事を名字で呼んでいるから、僕の方も名字で呼ぶのが無難だろう。


 『とても、美しい名前ですね。綺麗な響きだと思います。ではこれから紫乃さんとお呼びしますね』


 暫く、沈黙が続いた。話せる事が思い浮かばなかったからだ。でも、名前を知れただけで僕にとっては大きな一歩になった。


 「お待たせいたしました」


 ようやく頼んだカフェオレがきたらしい。グラスがとても綺麗だ。普通と違うから、アンティークなのだろうか。生憎僕にはそういった知識が全く無いから良くわからない。


 一口飲むと、ミルクの甘い味とコーヒーの苦みが広がる。でも、当たり前だが家で作るカフェオレとはまた違う。コーヒーは確かに苦いが、甘さも感じる。そういう豆もあるんだろうか。コーヒーは苦いものしかないんだとずっと思っていた。


 彼女の方を、いや、あやめさんの方を見る。あやめさんは、少し俯いていた。そして、意を決したように僕の事を見据える。


 『紅林さん、突然で申し訳ないのですが、私の話を聞いて頂けないですか? 文字を書きながらなので時間がかかりますが』


 『はい。良いですよ』


 もともと、断る気なんて無い。それにどんなことであれ、あやめさんからのお願いなら尚更だ。


 『私は、この近くの大学に通っている大学2年生で、ここから一駅先の所で一人暮らしをしています』


 大学生……僕にはまだ想像ができない。なんとなく分かるような気もするけど、やっぱり具体的には分からない。僕は進路も適当に決めている様な人間だ。高校2年になっても、オープンキャンパスに行かないで大学進学。なんていい加減に決めている様な人間に、分かるわけがない。でも、あやめさんが大学生なら、僕も同じ学校に行けるかもしれない。あやめさんが居るなら、僕も同じ学校に行けるように今からでも頑張らなくては。


 『大学では、私に話しかけようとする人は一人も居ません。理由は簡単です。私は話すこともできず、耳も聞こえないからです。これは、大学に限らず小学校も中学校も、高校でもそうでした。そして、家でも』


 あやめさんの息が、荒くなっている。


 『私は、産まれて数ヶ月で耳が聞こえないことが分かりました。両親が必死に病院に連れて行ったりしてどうにかならないのかお医者さんに聞いたそうですが、どうしても無理だと言われたそうです。その後も3歳までは両親の元で育てられましたが、私はずっと無口で、無表情だったそうです。それを気味悪がった両親は、私を捨てました。それ以降、ずっと施設で暮らしていました。施設でも、私は他の子に声をかけようとずっと努力していました。でも、皆私を見ると避けていくんです。それが続いて、小学校に上がると同時に話しかけることは諦めました。それからずっと私は一人でした。皆、私を見ると笑うんです。耳が聞こえないからと、悪口も言っていたんでしょう。でも、私は目は見えます。だから、口の形を見れば何となくなんて言ってるのか分かるようになりました。それが、とても酷な事でした。それで、人と関わるのが嫌でずっと一人で居るようにしていました。この喫茶店によく来る理由も、人が少ないからです。それと、店主さんが私の事を理解してくれたからです。話せないことも、耳が聞こえないことも。そんな人は、私の周りには居ませんでした。でも、紅林さんが現れました。私、最初は凄く怖かったんです。あなたが、私のことを知ったらまた離れていくんじゃないかって。だけど、紅林さんはそれでも離れていかなかった。それが嬉しかったけど、私の今までの話をしたら、あなたは、今度こそ、きっと』


 ここまでで、あやめさんは一度言葉を切った。深く俯いて、長い髪が顔を遮っているせいで表情が見えない。けれど、かなり呼吸が荒くなったのか、肩が大きく上下に動いていた。


 はっきり言って、衝撃的だった。


 「彼女自身」の事では勿論ない。「彼女がおかれてきた状況」が衝撃的だった。


 まず、両親だ。自分の子供が気味悪いという理由で捨てるものだろうか。僕なら絶対にそんな事をしない。第一、そんな理由で捨てるなんて親として失格だろう。


 後は周りの人間だ。施設でも、学校でも同じ様な扱いを受けてきていたなら、施設の大人や教師が止めるべきだろう。なのに、そういった対応をしてこなかったなんて。いざ、自分が言葉を話せなくなって耳が聞こえなくなった時、周りの人がくすくす笑ったり、聞こえないことを良いことに悪口を言っている事を知ったらどう思うか、考えたことがないんだろうか。


 信じられない。虫唾が走る。あやめさんは、何も悪くないのに。今までどうやって乗り越えてきたんだろう。僕だったら、出来ない。出来なかった。


 あやめさんは、勇気を出してこの話をしてくれた。今度は、僕の番だろう。


 俯いているあやめさんの横に移動し、肩に優しく触れた。


 ゆっくりと僕の方を見る。不安気な瞳に僕が映った。あやめさんは今、僕の事を見てくれている。


 『紫乃さん、僕はあなたから離れていきませんよ。こんな辛い話を、出会ったばかりの僕なんかに話してくれて、ありがとうございます。今度は、僕の話を聞いてくれませんか?』


 彼女は、あの時と同じ瞳で僕を見つめた。そして、首を縦にふる。


 『僕は、まだ高校2年です。この近くに住んでいて、父と弟と僕の3人家族です。母は、僕が12の時に亡くなりました。弟は9歳でした。僕はまだ良かったけど、弟はまだ甘えたい盛だったのに。母の葬式の時、茹だるような暑い日。父も弟も泣いていました。でも、僕だけ泣けなかった。母が居ないことが信じられなかったから。そして、亡くなるにはまだ早すぎたから。母は、30歳で亡くなったんです。事故でした。仕事の帰りに飲酒運転していた車に撥ねられて。頭の打ち所が悪かったそうです。そんな事故で、母は亡くなりました。たった30で。まだ、人生の半分も生きてないのに。やりたい事もまだ沢山あっただろうに。それから父は僕達2人を養う為に仕事を増やし、家に居ないことが増えました。それだけが理由ではないけれど、僕は学校で親の事について言われるようになりました。その言葉の殆どは聞き流すようにしていたので、あまり覚えてはいませんが。僕はそうだっから良かったかもしれないけど、弟は何時も泣いて帰ってきてました。それを見るのが、本当に辛くて。両親を恨んだこともありました。どうして母は、あんなに早くに逝ってしまったんだ。父はどうして僕等を残して仕事をしてられるのか。そうやって悩んでたら、段々馬鹿らしくなってきて恨むのも、悩むのも辞めました。そして、今に至ります。弟は、今は明るく生活しています。毎日楽しいって、家の中で笑う事が増えました。でも、分かってるんです。無理してるって』


 あやめさんの視線を感じる。


 言葉が途切れてしまった。このまま続けるのは、少し辛い。僕から自分の事を話し始めたのに、申し訳ない。


 うつむく僕の前に、あやめさんはずいっとノートを見せてきた。


 『紅林さん。貴方は嘘をついていますね』

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