赤のリコリス
今日の気持ちは、
今日も暑い日差しに茹だってしまう。やっぱり僕は、夏があまり好きではないかもしれない。例え誰に何を言われても、好きにはなれないだろう。
そして、そんな事を考えながら僕はあの喫茶店の前まで来てしまった。
家を出る時、
カランッと音がした。
顔を上げると、彼女が居た。
それだけで、顔が熱い。心臓が跳ね上がる。
意を決して話しかけようとしても、言葉が出てこない。何を話そうか、考えていなかった。
あれこれ考えている内に、彼女は歩きだしてしまった。後ろを追いかけていこうとしたけど、それが出来なかった。
考えてみれば、彼女にとって僕はきっと、『昨日荷物を拾ってあげた人』ぐらいでしかないだろう。そんな奴がまた目の前に現れて、「昨日はどうも有難うございました。何かお礼をしたいのですが」なんて言ってきたら気色悪すぎる。そんな奴が来たら、僕だったらもう絶対に会いたくない。
「……帰ろう……」
人々の波に埋もれてしまったこの独り言には、当たり前だが誰も返事をしてくれない。
もう一度、また逢えるように期待して彼女の歩いていった道を見る。
当たり前だが、彼女の姿はもう見えない……と思っていたのに、なんと、彼女が道の真ん中でしゃがみ込んでいる。
一体どうして、なんて考える前に、僕の足は自然に彼女の方へ進んでた。
「……大丈夫ですか?」
声が震える。情けなく思えるくらいに。
でも、彼女はまるで僕に気づいていていないかと思う程、こっちに目を向けない。
でも、彼女と話せるチャンスだと思い、もう一度彼女の隣に同じ様にしゃがんで声を掛けてみた。
「大丈夫ですか?」
声が上擦ってしまったけれど、気にせず笑いかける。彼女がそうしてくれたように。
そうすると、彼女はとても驚いた顔をして僕の方を見た。
「……! ………」
「何か、困っているんですか?」
彼女は、何も話さなかった。でも、なぜだかそれを不安に思う気持ちは僕の中に無かった。
彼女は、少し大きめのトートーバッグからノートとペンを取り出し、何かを書き出す。
僕は彼女が何をするのか、予想がつかなかった。けれどその数秒後、僕は彼女について衝撃的な事を知ることになった。
『ごめんなさい。私は耳が聞こえず、話すこともできません。』
本当に、衝撃的だった。けれど、同時に少し安心もした。さっきまで、話し掛けても言葉を返してこなかったのは、わざとではなかったという事に。
「じゃあ、あっ」
僕は生憎、彼女のようなペンと紙を持ってない。代わりの物といえば、スマホぐらいしか思い当たらない。
それと、道路の真ん中に立っているのも人の邪魔になりそうだから、道の端にあったベンチを指差し、2人で座る事にした。
あまり活用していなかったメモ機能を開き、急いで言葉を打つ。彼女は、まだ僕の方を見ていた。
『しゃがんでたから、何かあったんじゃないかと思って、声を掛けました。大丈夫ですか?』
彼女は、またノートに言葉を綴る。
『実は、時計が見つからなくて』
『大切な物なんですか?』
ここで、彼女は少し悩むような仕草をした。それがどういう意味なのか、分からなかった。
『はい。出来れば見つけたいんです』
『じゃあ、僕も手伝いますよ』
彼女は、大きな瞳をもっと大きくして僕のことを見る。その瞳の中には、僕が居た。
『昨日、あなたは僕のことを手伝ってくれました。そのお礼です』
『でも、良いんですか?』
彼女は、申し訳無さそうに微笑んだ。
『良いんです。時計は、どんな形ですか? 色とか、特徴を教えてください』
『はい。ちょっと待ってて下さい』
彼女は、スラスラとノートに書いていく。
彼女の字は、とても綺麗だった。達筆、で合っているんだろうか。兎に角そんな感じの字で、読みやすい。
『形は丸です。時計自体は、文字盤が黒で周りが青いです。ベルトの色は黒です』
その特徴を頭に叩き込んでから、探しに行かなくては。普段、もっと勉強して暗記出来るように鍛えておくべきだったと、今更後悔した。
『分かりました。じゃあ、僕はさっきの道を引き返して探しています。あなたはここで待っていて下さい』
『いえ、私も行きます』
一瞬きょとんとした彼女は、急にハッとなり首を左右に振る。
それでさえ、愛らしく思えてしまう僕は重症なんだろうか。
『じゃあ、一度僕が一人で行ってくるので、それで見つからなかったら、一緒に来てくれますか?』
これでも彼女は納得いかない様子だったが、渋々といった形で頷いてくれた。
静かに立ち上がり、取り敢えず彼女がさっき出てきた喫茶店へ向かってみる。
いざ来てみると、僕なんかには場違いな場所に来てしまったように感じた。でも、彼女の為だ。ここで引き返す訳にはいかない。
カランッという音と共に店内に入ると、ジャズみたいなお洒落な音楽で迎え入れられた。
「いらっしゃいませ」
髪が白くて、声が低い、細身の男性がカウンターに立っている。この方が店主のようだ。
「すみません、実は落とし物を探してて……」
「落とし物……どんな物でしょうか?」
「えっと……時計なんですけど、丸くて文字盤とベルトが黒で、周りは青色の物です」
「うーん……嗚呼! 分かりました。少々お待ちください」
そう言って店主はカウンターの下に手を伸ばした。
「こちらでしょうか?」
店主は手に時計を持っていた。特徴から見て、彼女の物だと思われる。
「多分それです。ありがとうございます」
「いえ、良かったです」
時計を受け取り、彼女の所まで戻る。
彼女は、姿勢良く座って待っていた。けれど、彼女は僕が戻ってきたことに気付いたのだろう。僕の方を見たかと思えば、スッと立上がって待っている。
彼女の正面に立ち、時計を差し出す。
『これで、合ってますか?』
彼女はホッとしたような顔で何度も頷いてくれた。
『ありがとうございます。何処にあったんですか?』
『いえ、良いんです。これは、この通りにある喫茶店にありました』
『そうだったんですね。あの、あなたはよくここに来るんですか? もし良ければお礼がしたいです』
まさかの誘いに、僕の心は踊りだしそうになった。これ程のチャンスがあるだろうか。でも、ここで『是非! お願いします!』なんて言ったら厚かましい奴だと思われかねない。いや、絶対に思われる。
『いえ、僕は昨日のお礼のつもりだったので気にしないで下さい』
『でも、大切な物を見つけて下さったので、是非お礼を。あの喫茶店でも良いですか?』
『じゃあ、お言葉に甘えますね。全然良いですよ。何時が良いですかね?』
『じゃあ、明日の15時頃はどうでしょう? 私はあのお店の奥側のテーブルに座ってます』
『分かりました。じゃあ、明日。気をつけて帰って下さいね』
ぺこりと頭を下げて微笑んだ彼女は、また同じ道を歩いていった。その後ろ姿を、僕はずっと眺めていた。
彼女と、また会える。
ただ、それだけが嬉しかった。
明日が待ち切れないと思う日が来るのは、とても久しぶりのことだった。
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