サクラソウ

 僕が彼女と出逢った後の帰りは、どうやって帰ったのか覚えていない。


 気づいたら、弟に怒られていた。


 「兄貴! なんで俺のクッキー粉砕してるんだよ!」


 「……ごめん、桃真とうま


 僕とは正反対の明るい弟。今年で13歳になる桃真のことを見ると、随分と成長したと思う。それと同時に、僕もこのままじゃいけないと思う。


 「ホントに……兄貴なんかやらかした?」


 「え……なんで? なんか変かな?」


 「いや、なんか、そわそわしてるからさ」


 「……気の所為だよ。ほら、兄ちゃんのクッキー代わりに食べていいから」


 マジか! と言って走ってクッキーを取りに行く桃真を見て、小さい頃から変わらないんだと安心する。


 そして、今日遭った彼女のことで頭が一杯になる。


 あんなに綺麗な子を、僕は見たことがなかった。


 『恋は盲目』とか『一目惚れ』なんて言う言葉を、僕は信用していなかった。でも、今日思い改める事になった。

 

 僕は彼女を見た瞬間、恋に落ちた。


 そして、一瞬たりとも彼女の事を忘れられなくなってしまった。あの、穏やかで美しい微笑みを。


 もう一度、彼女に会いたい。


 そして、話してみたい。


 『恋に落ちた時は、プールに飛び込んだときみたいに身体が重くなって、息も徐々にしづらくなっていくようだった』


 これは、父さんがよく話してくれた事だった。母さんと出逢った時、本当にそんな感じだったと、嬉しそうに話していた。それを、母さんは恥ずかしそうに耳を紅くして笑っていた。


 「兄貴、俺ちょっと昼寝してくる」


 「うん? 行ってらっしゃい。夜ご飯何が良い?」


 「えぇー、カレーかな?」


 「分かった」


 「よしっ! じゃ、おやすみー」


 桃真は昔からカレーが好きだ。今でも週に一回はカレーが食べたいと言ってくる。僕はカレーがあまり好きではないけど、弟のお願いは出来るだけ叶えてあげたい。これは兄としての務めだと思う。


 「今日はとんかつも揚げようかな……」


 この前スーパーの安売りで、冷凍のとんかつが売っていた。自分で調理をしないといけないから面倒だけど。とんかつは父さんも好きだから喜ぶだろう。胃は心配だけど。


 2人が喜ぶ顔を想像しながらキッチンに立つ。


 『彼女は、一体何が好きなんだろうか』


 突然、思った。


 僕は、初めて逢った彼女に恋をした。


 でも、学校で会って好きになった訳ではない。学校だったら、友だちに聞いて相手の名前もクラスも分かるけど、彼女とはばったり会っただけだ。


 名前も知らなければ、歳も知らない、まだ見ず知らずの他人。もう一度逢いたいなんて思っても、彼女がこの近くに住んでるのかさえもわからない。


 でも、諦めたくはない。絶対に。


 もう一度、彼女に逢える事を期待して、明日も同じ時間にあの喫茶店の近くに行ってみようか。

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