昼過ぎ
あいつが来てからこの宿屋の厳しい業務形態が如実に目立ち始めた。昼間は客の足取りが減って、宿はほとんど俺しかいない時間が必ず出来る。普段ならその時間を狙って宿を閉めて、足りない食材や備品の買い出しに出かけるのだが、あいつが居座っているせいで家を留守に出来ない。今週は年に二回尋ねてくる旅商人を泣く泣く見送ることになった。にんにくとか干し魚とか、ここいらじゃ取り扱わない品はその商人を通してでないと買えないというのに。スープの味付けがラード続きでは一泊限りの客はともかく、それを毎日食べてる俺の食道がいよいよむせ返る。どれもこれも全部あいつのせいだ。
奥間で疲労を抱えた身体が地に伏して、晴れない
二階の様子を見に階段を上がる。ぼったくりは効果がなかったんだ。この宿の規則も見直さなくてはいけない。とはいえど俺みたいな卑賎の生まれが私的な揉め事を丸く治めるには、力ずくで暴れ回るか衛兵に幾らか金を掴ませて頼み込むしか方法がない。衛兵らは私用に関しては勝手に処理してくれというスタンスで、頼りにできるのはせいぜい喧嘩になって傷害沙汰になった後始末をしにくる程度のところ。ああ、どこへでもついて回る金の悩みが憎い。どれもこれも全部あいつのせいだ。
部屋へと続く曲がり角の陰から、そっと扉を伺う。……はぁ、昨日一昨日と全く同じだ。いつ扉が開いたのか、例によって床に置かれた定食は全て空になってまとめられている。見えない陰でコソコソものを食べてるなんて、でかいネズミが住み着いたみたいだ。居直るくらいならせめて食べ終えた皿は台所まで運んでくれ。そんなことさえ難しいとしてもこちらは色々物申したいのだから、せめて顔くらいは突き合わせて話してほしい。
「お客さん。食べ終えた定食は一階の台所までお下げくださるよう、ご協力お願いします」
そんな想いの言葉もこだませず、だんまりが返ってくるばかり。
「お客さーん、ちょっと−−」
何回か声をかけて無反応だったら大金叩いて衛兵を呼ぼう。もう手に負えないと考えていた時。
「……ほっといてくれよ」
−−喋った。絞り出すようなぐずった声で、俺より若そうな、というより頭一つ分くらい幼いような、少年の声音だった。そんなに背丈が違っていただろうか。宿泊初日から今日まで腹の立つ支払い方をしてきたやつだから、少しでも印象に残りそうなものだが、ではなく。俺が気になったのはこいつに対するあやふやな記憶なんかではなかった。「ほっといてくれ」と、確かにこいつはそう言った。自分勝手に引きこもって一方的に対話を跳ね退けて、ようやっと話すやつの開口一番が「ほっといてくれ」だと? このときは他に誰も居なかったこともあって、頭にきていた俺は仕事の緊張感を忘れてしまっていた。
「なんだ、お前。随分な物言いだな。そう言えば相手が引き下がると思うのか。え? 俺だって金さえきちんと払ってくれりゃあ、こんな口酸っぱく言わねえよ。どうなんだ? 払うアテはあんのか、ねえのか。ああ?」
客相手に敬語が外れたのは久々だ。これでもだいぶ抑えた方だ。昔だったら扉を叩き割って胸ぐらを掴みかかるところだった。
「金は、その。あ、いや。うぅ……ない。僕の持ち金はあれで全、部。はい」
そんなことだと思った。納得で怒りが少し緩んだ。俺は子供を諭すかのように言葉を選んだ。
「だろうな。いいか? 金を払えないやつがタダで施しを受けるのは、犯罪であってムシが良すぎることなのはわかるよな? そういうやつは捕まって牢屋にぶち込まれるか、なんでもいいから働いて金を工面するんだよ。商売舐めるんじゃねえよ」
「ひ、嫌、やだ! そんなのできない!」
扉の向こうでズダタッ、と取り乱したような後退りが鳴った。全くもって情けない反抗に俺は眉を
「あの、だって僕は、出来損ないの役立たず。だから……うん、パパやママがいつもそう言うんだ。跡継ぎのくせに何もできない無能だって。ホントに、本当に何しても上手くいかない、し。あのお金だって、何日も椅子に縛りつけられて嫌々手伝わされて、やっと貰えたのが銭一枚なんだ。これじゃ何も買えないのに、お前の働きなんぞこんなものだって、これで何か買えって僕を馬鹿にするんだ。僕みたいなのが、働いたって迷惑だ、うん。稼ぎにならない。でも捕まるのもやだ。捕まりたくないんだ! 捕まりたく、ない……」
何なんだこいつは。次から次へとふざけたこと抜かしやがって。お前の甘ったれた事情なんて聞いてねえよ。だいたい金に対する認識がぬるい。このご時世に銭一枚でやっと買える塩一袋がどれだけありがたいことか。この辺の生活を一週間でも経験してりゃあ、路上でたまたま拾った銭一枚にそんな考えは口が裂けても出てこねえはずだ。何者だ、こいつ。繁華街のボンボンが家出してきたのか?
「あのなあ、お前が今こうしていることが一番迷惑だってことがまだわかってねえみたいだな。お前がどうとかそんな話してねえんだよ。提供に対価を用意できないなら、籠城なんて卑怯なことしてないで大人しく顔出せって言ってんだ。だが、親がいるのは有益な情報だ。おい。お前の住所を言え。お前の代わりに親に延滞料払ってもらうぞ」
「悪いけど、それもできない。僕は、パパに捨てられたから……。パパは僕に構うことなんてしないよ」
ああ駄目だ。厄介なうえに訳ありときたもんだ。つまりはこいつの親に取り立てに行っても相手にされず、取り立て行為が私用として扱われるから法的な行使権を持つ衛兵が仲介してくれないということだ。面倒ばかりで非常にややこしい。やはりこうなった場合の客の対応は変えるべきだということを痛感した。にしても、そうか。「捨てられた後継ぎ」か。いつの時代も冷たいものだ。
「捨てられただの、お構いなしだの。つくづく自分勝手なやつだな、お前は。自分の大事な家業を任せるんだから親が後継ぎに厳しいのは当たり前だろ。だからといって、いくらお前がとびっきりの木偶の坊だとしても、後継ぎをぞんざいに扱う経営はどこにもありはしねえ。捨てられたってのはお前の勘違いだ。そんなに生意気言うなら、お前はちょっとでも親に認めてもらえるような努力をしたのか? どうなんだ、自分が真っ当に褒められる人間だと思うのか?」
「努力だって? 出来ないことやりたくないことを無理強いすることが努力だと、君は本気でそう思うのかい? 自分の時間が削られて不自由するだけじゃないか。大人はみんな大馬鹿だ。生きる為とかいって、自ら不自由を被って死にそうな思いをしている。本当に生きたいならもっと適材適所に、自分の身の丈に見合ったことをしていけばいいじゃないか」
「うるせえ! さっきから聞いてりゃゴタゴタと、甘ったれたこと言ってんじゃねえ。俺だってなあ、別に好きでこんな仕事したくてしてんじゃねえよ!」
「え? 君も……そうなのかい?」
俺はその場に座り込み、胡座の上に頬杖を置いた。こいつの呆れる話を立って聞くのは非常に疲れる。俺は血が上った頭を回すように振って、ゆったりと一息入れる。
「ぐうたらなお前と一緒にするんじゃねえ。俺はもっと稼げる仕事がしたかったんだ。少しでも、親父を助けてやりたかった。親父に酒を買う金を用意してやりたかったんだ。今は注文にねえけどな、昔はまだ辛うじて酒が買えたんだ。物価高で酒が嗜好品になって、酒樽の中身が残り僅かになってな。俺がようやく成人として認められた日に、その酒樽の余りを飲もうってなって、その日に初めて親父と酒を交わしたんだ」
あれからそろそろ十年目になるのか。俺も歳を取った、なんてセリフを吐くようになるとは。がむしゃらにやってきた毎日は長いようで短かったな。
「たわいもない昔話でゲラゲラ笑って、流れで俺の幼い頃の話になったら、親父が段々しんみりしだしてな。その時だったな。俺と親父の血が繋がってないことを聞かされたのは」
「え?! じゃあ君の本当のパパとママは……?」
今日はよく舌が回るな、と自分でも不思議に感じた。普通は話さなくてもいい身の上話を誰かに話そうとしたのは人生で初めてだった。でも俺は、積もりに積もった苛立ちからか、この生意気で世間知らずな青二才に対して、説教の一つでも垂らさずにはいられなかった。
「いねえ。俺は捨て子だったんだ。雨の日だってな。宿の裏手のゴミ溜まりに、お包み一枚だけで空箱に捨てられてたってよ。俺の泣く声に気づいて、親父が雨に濡れた俺を拾ったんだ」
聞かされた当時は、根拠はなかったが薄々そうなんじゃないかって思っていた。でも俺にとっては血の繋がりなんか関係なかった。俺は親父の背中に憧れていた。
「小さい頃から親父の手伝いをやってきた。
「つもりだった? じゃあなんでならなかったんだい?」
ふと、何故ここまで言わなきゃいけないのかと口をつぐみかけて、言い出した手前引っ込む訳にもいかず、俺は諦めたように溜め息をついた。
「その三日後、親父が急逝したんだ」
過労が祟った。
「すぐさま火葬より前に、店舗契約手続きの話になったよ。店主のいなくなった店舗は権利を所有している組合に返還される。店舗が住居を兼ねていようが関係ない。思い出の詰まった職場はおろか、俺はこの家の居住権を失ってしまう。なし崩し的に俺が宿屋の後継ぎになって、がむしゃらに十年。悲しむ暇なんて一時もなかった」
「やっぱり不自由にしているじゃないか」
扉越しでこの日一番の声が張り上がった。
「何が親父さんの助けだ。人の死を
「知った風な口を利くんじゃねえ! お前の言い分もご
反論に躍起になってこいつの無意味な署名を取り出し、扉に思い切り叩きつけた。
「この宿のぼったくり規則な、俺が考え出したものなんだよ。酔っ払ったある客が、便所が遠いからって部屋のど真ん中で糞しやがってな。こんなやつばっかじゃ商売にならねえって、親父に無理言って案を通してもらったんだ。親父の大事にしてきたこの宿を汚されるのは耐えられない。命をかけてでも、俺は宿屋を最後まで続けたいんだ」
俺の育ってきたこの家は、物心ついた頃から人が入り乱れる環境だった。寝静まる夜中だっていうのに奥間まで聞こえてくる乱痴気騒ぎ、酒の勢いで喧嘩なんかはしょっちゅうだった。関係ない俺まで巻き込まれて、それらの責任は店主の監督不届きだって親父が組合に咎められる。若かったあの頃の俺は、この宿屋が嫌とさえ思っていた。でも親父は、客に掴み掛かろうとする俺を引き止めて、喧嘩の仲裁を穏便に済ませようとする親父は、決してそう思っちゃいなかった。俺はそういう親父のでかい背中を見て育ってきた。
「じゃあなんで、君は僕なんかを泊めたんだい? 自分から言うのも何だけど、見るからに面倒くさそうなやつだったじゃないか僕は。いくらなりふり構えないからといって、損な役回りをするのは君だ。少しくらい客を選んでいれば痛い目を見ずに済むじゃないか。言っていることの辻褄が合わないぞ」
だから俺の怒りはこの宿に相応しくない。俺の気持ちよりも、この宿の調和の方が大事だったはずだ。大丈夫だよ、親父。俺は大人になったんだ。
「面倒とか辻褄なんて関係ねえよ。簡単な話だ。俺が客を選ばないのは、赤子だった俺を親父が見捨てずに受け入れてくれたからだ。親父が
親父がそうだったように、俺もそう心に決めたんだよ。分かったか、ナマガキめ。俺は得意げに鼻息を吹かした。
「だが、俺も客との向き合い方を改めなきゃなって思い直したよ。お前のおかげでな。ったく、散々手間かけさせやがって。どうすんだよ、金の脅し以外で穏便に取り締まる方法思いつかねえのに」
気怠く頭を掻いていると、一階の方で呼び鈴が鳴った。まずい。客だ。さっきから気が抜けすぎだ。
「うわ、もうそんな時間か。はーい、少々お待ちください。おい、いいか。今日だけは俺の裁量で大目に見てやる。ただし、飯は作らんぞ。明日になったら何があってもお前を関所に引っ張っていくからな」
そう言って俺は片付ける皿一式をトレイにまとめて階段を駆け下っていった。あいつからの返事は、聞こえてはこなかった。
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