宿借り

結端 命都

朝明け

 快晴の夜明けを拝むにはまだ空は暗い。そんな早朝から俺の一日が始まる。誰もが寝静まるあいだのうちに起き抜けて、目元の隈を擦りながら身支度を整える。物音を立てずにそっと家を出て、井戸から少しの水を汲んで顔を洗う。やつれた不精顔がマシになったら、そこから釣瓶つるべに満たした井戸水を手桶に移し替えて家に運ぶ。これを三往復ほど。食堂の台所に着き、大鍋に先ほど汲んだ水を入れて火にかける。貯蔵庫から野菜を抱えて持ってきて、それらを全部切り分けていく。おっと、それよりもおかゆが先だった。乾いたオオムギを水に浸してふやけていくのを待つ。大鍋から沸騰の気配がしたので、火を弱めて具材とラードをぶち込んでかき混ぜる。出来立てだと熱すぎて飲めやしないが、何人か起きてきたくらいにはちょうどいい温度まで冷めている。トレイ数枚をカウンターテーブルに並べ置いて、出来上がったスープを器によそって配膳する。今日の人数分のスープを配膳し終えたくらいからオオムギを煮詰めていく。おかゆの出来はいつまで経っても安定しないが、今まで食事にケチをつけられたことは一度もない。まあ過度に期待されたこともないが。今日はちょっと煮詰めが甘かったか。細かいところは大雑把でも、おかゆの量は必ず器の半分が鉄則。それを水少々でかさ増しし、塩をまぶして誤魔化す。見栄え要員に申し訳程度の酢漬けと干し肉を添えたら、とりあえずはひと段落。奥間に行って、親父の形見を握って祈りを捧げる。大人数の料理に使う水は大体手桶一杯と半分強。その余りを家中の清掃に使う。ほうきで掃いた床を水拭きして、窓を満遍なく拭いている。と、日の出の光がじんわり差し込み始め、目頭めがしらのふやけた宿泊客が一人、二人とまばらに降りてくる。そいつらが食堂の長テーブルへ朝食のトレイを各自で持っていって食べるところを愛想笑いで出迎える。一日につき仮眠三時間しか休息の取れない倦怠感を隠す妙技は、毎日の習慣が編み出した研鑽けんさんによるものだ。親父から引き継いだ宿屋の管理を全て俺一人で賄っていると、どうにも自分自身の時間が作れない。本音のところはギリギリの綱渡りで吹けば飛ばされるような風を掻き分けている状態。今すぐにでも人を雇いたいところだが、生憎俺の懐にそんな余裕はできそうにない。

 やがて街中の明度が上がるにつれて、人々は朝支度を済ませ、他の店舗が各々おのおのの風呂敷を広げて商売を始める。花開く活気が行き交う日常、俺がフロントに腰を据えたならこの宿屋は立ち寄った人の旅路の中継点となる。色々と大変なことばかりだが、こうやって客と通い合う仕事は多分これからも一生続く、変わることのない俺の日課なんだろう。

 ……いや、もう一つ。これはここ数日ぐらいに増えた日課? というか悩みの種というか。二階の片隅奥の客室。俺はそこの扉が開いた様子をしばらく見ていない。他の客は既に朝食を済ませており、すぐにでも食器洗いに移行したいというのに未だに残った手付かずの定食が一つ。今起きているのかすら把握できていない。心配はあらかたつのり切ると苛立ちに上書きされてくるものだ。なんせ、もっと言うなら朝食の提供時間はとっくに過ぎているのだ。モーニングコールのサービスは頼まれていないが、今日という今日はさっさと目を覚まさせなければなるまい。

「失礼します。お客さん、朝になりましたよ。お客さん?」

 俺は荒く扉をノックする。耳をそばだてるが、反応はない。

「お客さん、チェックアウトについてのご説明は宿泊初日から再三申し上げた通りです。早急にご退室願います。お客さーん?」

 この街で商いをするにあたって、商人は自己都合で値段を設定ないし変更することが出来ない。街の元締めである商業組合の役員が各店舗の質を吟味して値段を設定する。例えば俺の宿屋なんかだと、いくら接客や提供を良くしたとても、一泊あたりの値段と評価を上げるには、この長く受け継がれてきてあちこちが軋むようになったオンボロ宿屋全体の改築をするしかない。だが改築を頼もうにも大工への依頼料は軒並み高く、固定された安給ではおいそれと払えるものじゃない。そんな息苦しい経営事情のなか、宿泊の料金は変えられなくともそれ以外であれば融通が利く金額がある。チェックアウトを過ぎた客に対する、違約金及び延滞料のことだ。俺は今まで泊める客を選んだことはない。泊まりたいというなら誰であっても部屋を貸すし、対応も一人一人平等に接している。ただ、一泊二日以上の宿泊を希望される客には、二日目昼手間の時点で強制的にチェックアウトしたとして扱い、客がごねる時は隔日おいての宿泊案内か、一泊の値段の倍以上もをぼったくって請求している。どんな奴でも一泊二日だけ。それ以上は部屋を貸さない。それが俺の宿屋の規則だ。

「お客さーん! せめて応答くらいしたらどうなんですか? お客さーん!」

 人の気配は確かにある。いい加減にこの引きこもりを追い出さねば。宿屋の評価に響くのだ。

 すすす、と音がした。扉の下から紙切れが出てくる。その紙は客室に設備されているメモ用紙で、そこには延滞料らしき数字と名前が書かれてあった。

「チッ、お前なぁ……。(しっかりしろ、落ち着け俺)お客さん、払う意思を見せたからってこの場を有耶無耶うやむやに出来ると思ったら大間違いですよ! それとこちらも申し上げましたが、支払いの署名でしたらちゃんと正式な用紙に書いて提出してください!」

 念を押すが、今対応している輩はいくらぼったくっても構わないカモネギなどではない。この規則には別の意図がある。近年の不況の煽りと物価高で、このごろ失職した浮浪者が増えていて、そのなかには遠方から来た戸籍不明の流れ者なんかもいる。賑わう商店街の裏手を回れば、たちまちそこはどんよりとしたそんな奴らの溜まり場だ。一泊分の前払いができる以上、たとえそいつの背格好が見窄みすぼらしくても客として対応しなければいけないが、オンボロ客室の衛生面と治安を保つためにはどうしても一泊以上貸すことができない。このあいだ、チェックアウトをごねた家無しが諦めて立ち去るフリをして夜中に忍び込まれたことがあった。俺が寝た隙を狙って、貯蔵庫から勝手に食料をくすねられ、ちょうどこの部屋に閉じこもったことに気づいたのは三日も経った後。その時は警備衛兵が出張って大騒ぎになった。俺がたまたま空室の管理を怠ったのが仇となった。問題の家無しは捕まって現在牢中にて刑務作業の稼ぎを得ているはずだが、未だそいつから一銭たりとも延滞料の回収ができていない。

 こいつを泊めてから、はや一週間が経とうとしている。今手元で預かっている形式だけで書かれた署名の合算、つまりこいつの滞納している金額は、この街周辺に住んでいる一般民の生活費三カ月分に相当する。そんなに金があるならば、こんな宿より商店街を抜けた先に堂々と構える繁華街の高級旅館に一週間泊まった方が遥かに安い。はなから儲けを期待して決めた規則じゃない。こういうヤツを留まらせない・追い出すための抑止力として設定した暴利なのだが、厄介なことに扱いが「金を払える客」であるせいで衛兵が対応する事案にできない。無理やり鍵をこじ開けようにも、このあいだの家無しとの取っ組み合いでこの部屋の扉の鍵穴が歪んでしまってマスターキーが使い物にならない。扉を壊すのは流石に論外だ。鍵の故障を悟られないように、毎日扉前でこうやって退室するよう圧力をかけているが、もし俺がマスターキーで解錠できないことをこいつが知ったら、今以上につけ上がられる。多分こいつもそういう野郎だ。今まで顔を見せないどころか一言も発したことだってない。そのくせ、もったいないからとわざわざ扉前に置いてやった定食は余所見しているうちにいつのまにか平らげていて、まるで片付けてくださいと言わんばかりに空の食器一式が扉前に戻されている。なんて厚かましく捻くれた野郎だ。こいつの身なりはもうぼんやりとしか覚えてない。確か、初日のときは子供が貯めたお小遣いの山のような小銭で一泊分を支払ってきて、(確認作業がめちゃくちゃ面倒だった)顔はボロ切れみたいなフードを被っていてよく見えなかった。だが、こいつが何者かなんてのはどうでもいい。人前で顔を隠すヤツなど、絶対ろくな人相ではないことは間違いないだろう。許されることなら腹いせに顔面を一発ぶん殴ってやりたい。

 昨日チェックインした宿泊客はこいつ以外全員退室して、この場は膠着こうちゃく。やらなくてはいけない仕事のある俺が折れて、あいつはこの場をやり過ごす。全く、嫌なルーティンが加わったものだ。だがこうなったとしても決して油断はしない。部屋は二階。窓には頑丈な鉄格子が付いている。出口はたったの一つだけ。タダ逃げは絶対に許さない。絶対にこのツケは取り立ててやる。

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