夕暮れ
そこから特に変わったことはなく、滞りなく通常業務をこなし、また昨日と同じ朝を迎えた。チェックアウトの時間を過ぎても、あいつは一階へ降りてはこなかった。ため息混じりに首をさすって、俺は二階へ上がった。滅多なことを言うもんじゃないな。勝手に親近感が湧いて、いらんことをベラベラ喋ってしまった。口先だけ達者なやつだったな。何が天国の親父がうんたらだ。お前に親父の何がわかる。鼻で笑おうとしたが、少しどこかに寄り掛かりたくなって、俺は階段の手摺りに
奥の客室へ続く廊下を進んでいくと、曲がり角に差し掛かった辺りで何かが歩いたような物音が聞こえたような気がした。起きているのだろうかと思ったが、扉は開いていない。俺は扉をノックする。もう昨日のような苛立ちを態度に出すことはしない。俺はあいつが部屋から出てくるのを待った。今日はノックに応じてくれそうな気がした。
……しばらく経っても出てこない。それどころか返事すらない。それでも動いてるような気配はある。こういう時どうしたらいいのだろうか。俺は首に掛けていた親父の形見、マスターキーに問いかける。親父は片時も肌身離さず、この鍵を首に掛けていた。親父は人の隙間に入り込むのが上手い人だった。誰とでも簡単に打ち解けて、客同士の喧嘩は力で抑えずに穏便に
「遅くなった。今出る」
扉の側から声がした。期待していなかった返答に慌てて我に返る。とうとう扉が開いた。
俺は目を見張った。影の薄かった初日に比べて、そいつの姿がはっきりと印象付いたからだ。宿泊初日と変わらずズタボロの外套を着たそいつは、俺よりも何歳か年下の雰囲気を感じさせた。特に目を引くのは、初日にフードで見えなかった色めき輝く金髪。目元は少し荒んではいるが顔立ちは悪くない。むしろ金髪と相まって好青年を思わせる。俺の首下ぐらいから見上げてくるその目は青い、空のように透き通った目をしていた。
「すまなかった。ずっとこもっていたから、少し……気まずかったんだ」
「お、おう」
何故だか俺も気まずくなる。昨日はあんなに突っかかったのに。
「今まで迷惑をかけた。こんな僕を泊めてくれたことに、少し甘え過ぎてしまった。どう謝ればいいのか……」
そいつは深々と頭を下げて、向き直って俺を真っ直ぐ見つめる。純真な眼差しから、見た目以上に幼く感じる。
「君には感謝している。僕は本当に世間知らずだった。自分のことばかりで周りが何も見えていなかった。君のおかげで、僕の迷いは晴れたんだ。ありがとう」
「いや、そんな大層なことは言ってねえよ」
礼を言われた。感謝の言葉を強く意識して感慨深い気持ちになったのは今までにもなかった。普段の流れ作業じゃ得られない、心を通わせた感触。やっと親父の背丈に追いついた気がして、俺は
「僕はこれから関所に出頭する。もうどこにも逃げたりしないさ。君にこれを渡しておく。関所で話を通す時に使うものだ。君にも関わることだから、目を通していて欲しい」
舞い上がった気持ちのまま、俺は封筒を受け取った。特別なものだろうか。派手な装飾の封筒だ。俺は封筒を開けて、中身を見た。
……呆気に取られた。客室のメモ用紙だった。そこに書かれたのは、あの支払いの署名。内容も毎回受け取っていたものと同じ名前と同じ金額、……いや。桁が余分に多い。まるで子供がごっこ遊びで考えたような国家予算クラスの数字が書かれていた。こんな金が本当にあったら、一国の政策につき軍師が徴兵一小隊を他領へと派遣できてしまう。この宿を内装含め全て改築して、求人で五人を数ヶ月雇ってもまだ余裕で手元に残る。
俺は失望した。さっきまで浮かれていた自分はなんて間抜けなのだ。俺はこいつを、腹を割って語り合った友とまで思っていた。互いの信念を交わし合った以心伝心の仲だと勝手に思っていただけだった。俺の生い立ち、親父との思い出、経営の矜持。何もかもを土足で
「おい、人をおちょくんのも大概にしろよ。あ? 昨日に払える金は宿泊の前払いで尽きたって言ってたよな、商売舐めんなって言ったよなあ! 散々コケにしてそんなに楽しいか。こんなもんで何話すつもりだ? まだお前の立場が見えてねえなら、そのツラぶん殴ってパンパンに腫らしてやろうか!」
壁に押し付ける腕に黒い感情がとめどなく流れ込む。そいつは苦しげに縮み上がった首を伸ばした。
「ちょ、落ち着いてくれ。ま、まず。正式な署名を今すぐに出せないのは申し訳ないと思っている。だ、だけど。その封筒さえあれば充分なはずだ。そこに書いてある名前、そのおじさんに事情を話せば、ここの宿代を支払ってくれ、るゥッ」
「ハッ、出鱈目の次は連帯保証人ときた! よく出来た冗談だな。何か? そのおじさんってのはお前如きの野暮用に構ってくれるお暇な聖人なのか? これを代わりに支払ってくれるくらいお前はそんなに偉いのか? 阿呆も休み休み言えよ! 辺境のボロ宿に七日泊まったぐらいで、こんな紙切れに書いたあり得ねえ額払うやつがいるわけねえだろうが!」
「払えるさ。そのおじさんは絶対払う」
そいつは俺の手を振り払い、また俺の目を見つめ返した。
「僕は指名手配中の奴隷だ。商談成立前に逃げてきた」
「……は?」
言っている意味がわからなかった。言語の端々は理解できる。しかし、何故今更になってそんな嘘が出てくるのかがわからなかった。奴隷? 指名手配? 一体何を言っているんだ?
「商談のときに僕のパパが、もっと高く買い取ってくれないかって、号泣しながら僕の値段について交渉してた。その値段に比べたら、ここの宿代くらい屁でもない。多分あのおじさんは幾らふっかけられても平気で払う。そんな値札が僕に付いたんだ」
なんなんだ、こいつは。ますます訳がわからない。仮にその話が本当だとして、そのおじさんとは−−署名の名前の人物は何者なのか。その名前に聞き覚えはない。こんな馬鹿げた大金など、繁華街に住む見栄っ張り共でも支払えない。たかがこいつ如き、奴隷一人の売買で横行する金額じゃない。
「命に価値が付くのは初めてだった。誰かに必要とされることも初めてだった。その初めてが怖かったんだ。ありがとう。おかげで目が覚めた。家の後継ぎとして、僕を高値で買い取ったおじさんと、僕を高値で売り飛ばしたパパの期待に答えるんだ。さて、そろそろ使いの人が僕を捜しにこの街を訪れる頃合いだろう。今まで世話になったよ」
「お、おい!」
こいつを信じたわけではない。ただ疑える雰囲気ではなかった。我先にと宿を出ていくそいつを、俺は戸惑いながら追いかけた。
「動くな!」
「いたぞ、こいつだ!」
玄関を開けるや否や、複数の怒号が響き渡る。見ると、宿前の出先にてサーベルを抜いた男達がそいつを取り囲んでいた。誰だこいつら? 武装しているが衛兵ではない。服飾にはここいらでは見かけない紋様が刻まれている。
「両手を挙げろ! ゆっくりと跪いて地に伏せ!」
サーベルを持った男の指示通りに従って、手を挙げたまま踞るそいつに、手枷と首輪が付けられて、俺はとんでもない決意を後押ししてしまったことに気がついた。俺は一人の人生を大きく変えてしまったんじゃないか。さっきまで怒りで上がっていた体温が急激に冷めていく。
あいつが連れていかれる。あいつに付いた首輪に繋がれた鎖が、サーベルの男の手元より遥か高くの天上へと
俺はまた、誰かの別離を見過ごすことしかできなかった。
数日後、署名の人物の使いを名乗る者が、大金を入れた大袋の山を
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