第四章 プライベートの依存

「なんで没落しないのかしら…」

「なんで没落しないのかしら…」




 藤木玉枝って人の口癖は、それだった。

 エプロンよりもスーツが似合いそうな人が、それこそあそこまで夫に張り付いていたのはなぜなのだろうか。その疑問の答えを考えるのに、五秒も要らない。

「あなたは本当に素晴らしい人。それは私も、祐介も、浅野さんも、みんなわかってるんだから」

「そう…」

 私は幾度も、夫を褒めている。あまり褒めすぎて浮かれ上がられてもと言う話かもしれないが、夫に限ってはそれはない。断言してもいい。でなければ、こんなに幸せな寝顔ができる訳もないから。実家でどんな寝顔をしていたかなど、想像したくもない。そしてこの家をそんな寝顔をするような家には、絶対にしたくない。

「でもイライラする時はあるんだろう。素直に言ってくれ」

「あるけどね、あなたが生理痛の薬を切らさないから」

 あと二十年もすれば更年期と呼ばれる症状との戦いが待つことになるが、それまではそれまでの症状との戦いもある。話によれば男性にも更年期はあるらしいが、生理との戦いがないのはうらやましい。その度に夫が買ってきた薬のおかげでなんとかなっているのはいいが、それぐらい自腹を切らないで買って欲しい物だ。おかげで私がお金を渡すのが二度手間になっている。それ以上に私をいら立たせるのが、玉枝さんだった。



 祐介が幼い時から、幾たびも孫に会わせて欲しいと玉枝さんから連絡が来ていた。だが私にはその気はなく、どうしてもと言う時は適当なファミレスとかで私の実父母同伴で会わせていた。夫がいるかどうかはその都度違うが、玉枝さんが何か言おうとする度に実父母が話を反らし、祐介がメニューを頬張るのを楽しく見るだけの舞台に持って行こうとする。

 私もそれに同調し、玉枝さんの舌を食い止める。祐介も祐介で柄にもなく玉枝さんが開いた財布の中身をがっつくように口に運び、飲み干す。これはあらかじめ私がしつけておいた通りだが、祐介もおいしいしか言おうとしないで私や私の実父母から離れない。どうしても抱かせろとせがんでくる時は私や私の母を挟ませる。

「まったく、ほらそんなに」

「いいじゃありませんか、何も考えられないぐらいおいしいんでしょ」

ふんうん

「ほら口の中に物を入れたまましゃべるんじゃ」

「ごめんね祐介、おばあちゃんがあおっちゃってね、ああいい子いい子」

 私たち八つの瞳で冷たく視線を送ると義父もいない玉枝さんは救いを求めるように首をあちこちに振り出し、深々とため息を吐く。

 そんな事を繰り返す間にだんだん疎遠になり、現在ではほとんど連絡すらない。

 自然消滅と言うより、こちらがわざと消滅させた結果だ。新居に身を置いてからは年賀状すら送っていないような間柄であり、平たく言えば絶縁状態だった。




 そんな玉枝さんが仲良くしていたのが、半崎家と言うお家だ。


 半崎家と藤木家と平田家の違いは、子どもの年齢しかない。半崎家と平田家の違いに至っては、年齢だけだ。

「あかりちゃんは本当にすごいわねー」

 玉枝さんの第二の口癖はそれだった。

 半崎あかりと言う、私たちより二年下の女の子。それこそ私たちがやっているそれよりもかなり先の勉強を塾に通って行い、テストは100点以外取った事のないような完璧な優等生。小学生だと言うのに今の夫よりもずっと厚い眼鏡をかけ、夏でも長いスカートを履きいつも三つ編みにしていたような女の子。趣味はと言われれば料理洗濯お掃除とか言う、まるで絵に描いたような孝行娘。もし自分の子どもがそんなだったら、子育てなんて超イージーモードかもしれない。

「イージーモードって何?」

 ある日、その事を誰かが言ったのを聞いたあかりはそう聞き返した。もっとも英語は既に分かっていただろうから「イージー」と「簡単」って言葉はすぐさま結び付いたと思うが、それでも「イージーモード」って言葉は全く知らなかったんだろう。その言葉を聞かされた彼女はおそらくその素直な性分のまま、両親に意味を聞こうとしたのだろう。だがそれから彼女は、二度とその言葉に関心を示さなくなった。

 その事もまた、玉枝さんにとってはある意味大変都合が悪い事だった。

 私の義父の藤木康介とあかりの父はいわゆる同業他社のライバルであり、国内トップシェアを常に奪い合うような大企業だった。当時は二人とも課長で、今の義父は常務、あかりの父は社長だ。出世競争と言う点では義父はあかりの父に負けた事になるが、常務まで行っておいて負けたとか言うのはあまりにも酷な話だろう。


「でもみんな…」

「どうしてもって言うんなら半崎さんとこのあかりちゃんが買うまで待ちなさい!」


 玉枝さんがキャッチザモンスターを夫に与えない表向きの理由にしていたのが、あかりだった。二つ下のくせに自分よりもずっと勉強のできるあかりですらダメなのに0点の常連のような自分が求めるだなどと贅沢であり、どうしてもと言うならば彼女ぐらい勉強ができるようになってから言え—————。

 もっとも、その言葉に従うように学問にはげむようになっても言を左右にしまくって与えるのを渋りまくっている内に人気も落ちるだろうと玉枝さんは踏んでいたが、コンビニでもスーパーでも、キャッチザモンスターのキャラが使われた商品は未だに主力を張っている。実質パッケージにいるだけで、売り上げが違って来るらしい。それこそコンビニに張り付き続けてついに店長にまでなってしまった人が、キャッチザモンスターに触れずに過ごすなど至難の業だろう。



 そんな人間に立ち向かうには、屈従するか脇の道を探すかしかない。それとも、屈従した振りをするかだ。

「政美ちゃんと勉強して来る」

 そのフレーズを盾に、夫は幾度も家を出た。そして私も実際に一緒に勉強し、藤木譲のテストの点数を上げた。途中から例え100点を何連発してもキャッチザモンスターを与える気がないのを悟ってからは私が買い、息抜きと称して一緒にプレイした。実際決して「息抜き」の時間を外す事はなかったし、ある種理想的な触れ方をさせる事は出来たと思う。でも、少しでも露見すれば私との関係さえ断ち切られたかもしれない以上、夫には帰りがけに何度も何度も他言無用と言い含めた。


 その結果、高等専門学校入学も認めさせ同棲からの結婚、さらに婿入りまで持ち込んだ。

 藤木譲と言う人間に研究以外の才能があるとすれば俳優かもしれないと思わせるぐらいには、堂に入った演技だったと思う。そしてあの就職祝いの一件で未だに悪感情が取れていない事が分かった以上、祐介を義父母に近づけるのはあまりにも危険だった。

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