高等専門学校への進学
私の小学校高学年から中学校の時代は、今の夫を支える事に使われた。
友人たちにも極力夫やそれを取り巻く環境を話さず、その上でお勉強に励みながら女の子らしい事もした。
その裏で目一杯男の子の趣味を覚え、夫に伝えていた。
お勉強の三文字だけで釣られる夫に秘かに「お勉強」させ、その上で時々
「絶対に言っちゃ駄目よ、ばらしたらもう知らないから!」
ときつく言い聞かせた。夫は真面目に私の言い付けを守り、何とかクラスメイトたちとの話に付いて行く事が出来た。
時々夫の母が私の部屋に上がり込もうとした事もあったが、ちゃんとその時に備えて「危険物」を秘匿し、「藤木譲のガールフレンド」としてふさわしい部屋を作り上げ見せる事も出来た。
あの時の私の部屋を見る目と来たら、小鹿を一匹たりとも逃がすまいと欲するオオカミの目だった。
少しでも子オオカミを飢えさせまいと欲する、温かくはあるが残忍な野生動物の目。
「康介さんは」
「うちの人もね、政美ちゃんに感謝しているのよ。譲を変えてくれたのは政美ちゃんだって。あんなにぐうたらな子が真面目にお勉強するようになって、でもまだ自発的じゃないのがどうもってね…まあ、政美ちゃんのためならば別にいいんだけど」
一言多いと言うか、願望が隠しきれていない。私がオオカミから逃げてたまるかとばかりに彼女の顔をにらむと、彼女はひるむでもなく息子をきっちりとしつけてくれているのだと思って踵を返した。
そんな人たちが息子に何を望んでいたかなど、想像に難くはない。
だから、私は藤木譲と言う存在に、キャッチモンよりも重要な「お勉強」を施した。
「高等専門学校?」
「そう、高等専門学校」
——————————高等専門学校。
全国に百校もない極めて小規模な教育機関であり、大学よりもずっと希少な存在。しかも話によれば、ほぼ100%就職可能。その存在を知った時には、これしかないと思った。
「でも僕はそこに進んで何をしたいんだろう。それに政美ちゃんは」
「私はちゃんと付いて行くから、会えなくはなるかもしれないけど。それにね、譲君は真面目に集中しているとすごくカッコいいんだもん」
夫のごもっともな疑問にも、私は時間をかけて説いた。もちろん夫の両親には内緒で。
おそらくは入寮する。
そうなれば実質的に一人暮らし。さらに就職も保証されているからそれこそどこか遠くへ行く事になるかもしれない。そうなればもう誰もあなたを邪魔する者はいなくなる。私が目一杯しつけているつもりだから道を踏み外す事は考えにくい。もしそうならばそれで一度や二度ならば私が矯正する気だったし、万が一あの親から切られても私が両親に頭を下げて学費を何とかするぐらいの覚悟と自信はあった。
「それならばいいんだ」
果たして高等専門学校への進学を希望した夫に対し、夫の両親は簡単に首を縦に振った。
世の中の役に立つ機械が作りたいと言う事で工業高等専門学校を選び、偏差値60越えの難関入試を私と譲の努力で突破させた一方で、私は普通の女子高生になった。
「まさかあの子がそんな道を選ぶとはね。まあ別に名門大にこだわる気もなかったけど、って言うか寮に入った以上あれこれやってくれるお母さんはいないんだから身の回りをきれいにしないとあっという間に爪弾きにされるでしょうけどね。私もようやく少しだけ楽になったしまた労働者に戻れたけど、周回遅れもいいとこよ。それこそ勤め人らしく毎日八時間頑張ってるつもりだけど、すっかり新人さん状態。私のように少しでも遅れればすぐ引き離されるんだから、政美ちゃんにも檄を飛ばしてもらわないとね」
「わかりました」
夫が高専生になると共に職場復帰、と言ってもコンビニのパート店員に復帰した玉枝さんは学校帰りの私に幾度もそうこぼして来た。
パートと言うかアルバイトであり、それこそ一日八時間と言う全く勤め人の勤務時間。そのせいで二人っきりになった食卓を囲む事も減ったとか言う益体もない話。聞き流そうにもオオカミではなくチワワめいた声で言って来るものだからうかつに振り切れず、定型句を吐いて逃げるのが精いっぱいだった。
「ちゃんとお勉強するようによろしく言っておいてね」
最優先事項はこれなのと言わんばかりにゴリ押しにゴリ押しを重ねるその醜いチワワの声に対し、さらなる定型句を返す気も起きなかった。
カバンを置いて制服を脱いで玉枝さんが勤めていない方のコンビニへ行ってみると、やっぱりキャッチザモンスターのキャラが乗った製品があった。あそこまで敵意を抱いている存在を目の前にして玉枝さんは何も思わないのだろうか。
いずれ消えてなくなるからせいぜいそれまでは威張り腐っていろ、私たちはその薄っぺらな存在から金を貰い続けるだけとか本当にそんな事を考えているのだとしたらそれはもう勤労意欲にあふれていると言うより安っぽい英雄譚だ。そしてその英雄譚には、永遠に終わりはない。自分にとって不都合な存在はいくらでもあり、そのすべてを排除するのに一体どれだけの労力と才能が必要なのか。それこそ死ぬまで戦っても終わらないかもしれない。あるいは死んでなお戦う気か。
十五年かけてようやく息子をまともな形にしたつもりとは言え、ちっとも油断と言うか安心していない。少しでも道を踏み外すのが怖くて怖くてたまらず、何度も寮に連絡を入れようとしているのかもしれない。いやそれは私が夫から聞き出して思い過ごしだとわかったが、それをやりかねないと思わせ将来の結婚をためらわせ程度には、あの一年間の彼女は醜かったのだ。
「まだ、あの人は譲君を許していないみたい」
「そう」
夫の返事は実に淡々としていた。自分なりに一年間必死に頑張ってみたのにびくともしない存在に愛想を尽かしかけ、相手の心を解きほぐし解決に値する道具かと思った時間さえも役に立たない。
「でもさ、とりあえず仲間たちと一緒に楽しくやれてるよ。ロボコンってあるでしょ、あれにも挑戦するとかしないとか」
「そうなの。そういうのを聞けばはしゃぐでしょうね」
「はしゃがれるためにやってるんじゃないけどね」
「気にしない方がいいわよ。もうわかってるんでしょ」
「まあね。政美さんと仲良く話すのも楽しいし」
夫の声は実に輝かしい。自己責任の重みと言うより、解放の喜び。そして、仲間の喜び。
そこからあの情報が入って来て自分の息子の勉強を阻害するとでも思っているのか、それともそんな事に興味のない崇高な小学生を欲しがっていたのか。
夫は中学時代友人を一人も作れなかった。その事に対して私と言う彼女の存在がどれほど妨げになっていたのかはわからない。でも、藤木玉枝と言う人間の責任にするだけの事は許されてもいい。あと、藤木康介って人のせいにする事も。
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