罪悪感

「十万円も渡しているんですよ」



 月末だと言うのに夫の財布にはまだ五万円も入っている。

 それこそ爪に火を点すように自分のためのお金を削り続け、財布を膨らませる代わりに体重は減っていた。それこそハンバーガー一個で終わらせているんじゃないだろうかと心配になる事もあるが、そうでない事を浅野さんから連絡をもらって確認した事もある。一応社食に入って日替わり定食を食べてはいるようだが、それ以上間食などはしないらしい。

 健康的だ。字面だけ聞けば実に健康的だ。


 だがそのお金を貯めて何をするかと言えば、貯金しかしない。それこそこちらが渡したお金を返すかのように貯金通帳の数字を増やし、その事を誇りにしている節すらある。金に汚いと言うより、祐介や私にお金を与える事を喜んでいる。祐介は言うまでもないし私だって専業主婦なので所得はゼロだと言うのにだ。

 職場復帰を考えていない訳ではない。だが私の職場は学校なので、祐介の事を思うと少しややこしいのもある。無論祐介とは全然関係ない遠い所にしてもらうつもりではあるが。

「料理ってよくわかんないんだよ」

「パパが教えるよ」

「お母さんに教えてもらうよ」

 夫と私が共働きとなれば、料理などの家事をする人間はいなくなり、自然祐介がしなければならないと言う事を意味する。当然私たちが教えなければならないが、いやに乗り気な夫に対し息子は引き気味だった。

 とりあえず二人仲良くと言う事で解決しそうではあるが、夫の私たちに対しての腰の低さはもうどうにもならないのかもしれない。


「てめえ、誰の稼いだ金で暮らせると思ってるんだ!」


 そんな古めかしいドラマの中のような男はもちろん嫌だが、そんな男の1%ぐらいの部分は夫にあっても罰は当たらないはずだ。

 たまには贅沢をしろと言っても、必要最小限のそれしか買って来ない。

 車も買わないし、旅行も私たちの希望任せ。スポーツでもしてみたらとか言った事もあるが、せいぜい息子に付き合って軽くランニングするだけ。別にサボっているわけではないが、あれだけ少食の上に仕事も家事もやるような人間だからスポーツなど不必要かもしれない。

 やがて、祐介も結婚して独り立ちする。そうなればそれこそ余生とまでは行かないにせよ第二の目的を求めねばならない。それこそ会社と言うか研究に張り付く事もできるだろうが、それとて定年退職の四文字からは逃れられない。まだ三十七歳で老後をうんたらかんたら言うのは取り越し苦労以外の何でもないが、夫の危うさを思うとどうにもその事が頭をよぎる。

「なんか昔やりたかったスポーツないの」

「僕が運動音痴だって事は君が一番よく知ってるだろ」

「それでもできるスポーツはあるはずよ」

「何が一番体にいいと思う?」

 嫌々とか渋々と言うより、システマティック。あくまでも私たちの前に健康な姿を見せるのが第一。きちんとお金を持ってくる事が目的でなければ出ない発言。まるで、自分をどこかに忘れて来たような言葉。




「ねえねえ父さん、ゲームー」

「何がやりたいんだ」

「ほらこれー」

 この前息子と一緒に買い物に行った夫の目に入ったのは、有名なゲームがいくつも集まったゲームソフト。

 別に「テレビゲーム」ではなく、囲碁・将棋・トランプなどの歴史ある多数のゲーム。夫にそれらで遊んだ事はないのかと聞いてみた事もあるが、小学校の頃はそれなりにあったらしい。でも中学生になってからはほとんどなかったと言う。

「でもこれさ、祐介できるのか?」

「いやこれはお父さんのためだよ」

「えっ」

 そのゲームを息子から自分のためにと勧められた時の夫の顔は、正直親ではなく子どもの顔だった。


 当然ながら高専に入ってもほとんどなかった。何せあの性格だから仲の良い人間は少なく、何らかの形で集まる時がせいぜいだ。その上に弱かったから、あっという間に終わってしまい見るだけになると言う流れらしい。

 その度にやった事ないのかよと言われて夫は首を縦に振り、距離を取られる。段々と話に付いて行けなくなり、孤立化して行く。その流れをかろうじて食い止めていたのは女子高生であり女子大生だった私だと言う自負はあったし、今でもそんな形の青春を送った事に付いて文句は何もない。

 それでも、おせっかいな仲間もいた。あまりにも「物を知らない」藤木譲の育ってきた家庭環境を勝手に想像し、食うにも困るような貧困家庭の出身ではないかと言い出したのだ。

 その判断の切り札となったのが、携帯電話だ。何せ二十年前だからいわゆるガラケーが一般的だが、夫はそんな電話など持っていない。言うまでもなく実父母の方針であり、その時まだ十六歳だった夫が携帯電話を持ったのは二年後だった。ちなみに私は高校の入学祝で買ってもらったそれを既に持っていた。

 そしてその彼は藤木家に自ら足を運び、自分と変わらない中流家庭なのを確認して帰って行った。その過程で夫の父である藤木康介が大企業の重職にある事を知り、それから夫にやけに優しくなったらしい。それがまごう事なき夫の両親に対する彼の扱いであり、世間的な目だった。その事を私は、夫に教えて来たつもりだった。


 今でも夫は決して自分から求めようとせず、必要だと思わねば動こうとしない。

 怠惰ではない。

 あくまでも必要・不必要の二つだけ。

「ちゃんと使うんだよ」

 とか物を買い与える度に息子に言う程度には口うるさい夫だが、

「父さんも自分の物ちゃんと使ってるの」

 と言われると笑ってごまかそうとする。実は悪いのはこの場合祐介の方だが、夫からしてみれば与えられた物を使えなくなるまで使い尽くすのは美徳とか吝嗇と言うより、当然の行いだった。

 小学校時代はまだともかく中学生になってからはそれこそ鉛筆が二センチぐらいになるまで使い続け、消しゴムの欠片も使えなくなるまで持ち歩いていた。言うまでもなく親の教育の賜物であり、教師からも受けは良かった。中には貧乏性とか馬鹿にする生徒もいたが、それぞれの家庭の事情がで終わらされていた。それでも口さがない子たちは親がケチっているとか騙されて金をむしり取られたとか、あるいは親がリストラに遭ったとかあらぬ噂を掻き立てた事もある。私はその事について、夫の親に訴えた事はない。人様の家庭に口を出せるほど私も偉くはないからだ。


 だが親がリストラに遭ったと言い出した人間の中に、悪意を持っていた存在はどれだけいただろうか。もしかしたら本当に藤木家にお金がないと思い心底から心配した上でそんな言葉を口にし、何か助けられる事があれば助けようとしたのかもしれない。世に言う大きなお世話だが、それでもその気持ちに誠意がないとは言い切れない。

 買い与えられた物を最後まで使い切ると言うのも、困っている人に手を差し伸べると言うのも、どっちも正義だ。どっちが優れていてどっちが劣っているかなど比べようもない話であり、対立などそこにはないはずだった。

 この話における夫の正義が前者であり、息子の正義は後者だっただけの話である。


 で、結局息子の勧めで買ったそのゲームは夫が適当にいじりながら私や息子も触っている。いったいどれだけ遊べば元が取れるのかわからないが、少なくともすぐさび付くような代物ではない事を私は知っている。

「でもこういうのってある意味ライバルだよね」

 その祐介の無邪気な言葉は、まごう事なき事実だった。

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