第002話 封じ手

 ──イマリさんと出会った日から、二カ月とちょっと。

 そして、爺ちゃんの四十九日から一週間──。


 ──パチン。


 病院の休憩室の、丸いテーブルの上。

 木製の折り畳み式将棋盤が、軽快な音を立てる。

 鳴らしたのは、イマリさんの細く白い中指。

 その指が、いま前進させた駒……きんから離れていき、次は俺の手番。


「フフッ……桂馬さん。この金の意図、わかります?」


「……いや、全然。攻めに使うんだろうな……って、気はするけど」


「これは『ゴキゲン中飛車なかびしゃ』という戦法を、わたしなりにアレンジした手筋です。曽根さんが苦手にしていたので、孫の桂馬さんに攻略してほしいですね。クスッ♪」


「イマリさん飛車ひしゃかく落としてるのに、飛車を使う戦法?」


 飛車角落ち。

 格下相手の際、大駒と呼ばれる強力な飛車と角を除くこと。

 そんなハンデを貰っても、イマリさんにはまったく歯が立たない。

 まるで手品か魔法を使われているかのように、あれよあれよと攻め込まれる。


「……この金は、飛車の代役です。飛車に小さな動きを持たせたら……の、イメトレをしています」


「へえ……」


「ですのでこの金には、斜め移動をさせません。それを利用して攻めてきてください。ウフフッ♪」


「か、かえってこんがらがりそうだなぁ……。ははは……」


 きょうのイマリさんは、顔色がよさそうに見える。

 けれどそれは、チークとリップをうっすらしてるから。

 俺と会うためにわざわざメイクを……なんてことは、もちろんない。

 イマリさんがお化粧してるのは、むしろ体調いまいちだから。

 顔色の悪さで周りを心配させないよう、女性の看護師さんに頼んでナチュラルメイクを施してもらってるみたいだ。

 でも、顔は取り繕えても、爪の下まで真っ白な指はごまかせない。

 一方の俺の爪は、無駄にきれいなピンク色。

 この血色、分けてあげられるものなら分けてあげたい──。


「……イマリさん。俺、ようやく将棋の面白さ……っていうか怖さが、わかってきたよ。その金が一つ進んだ上がっただけで、盤の三分の一を支配された気がする」


「桂馬さんがまた、将棋の魅力に気づいてくれてうれしい。が一マス進むだけで、盤面すべての戦況が変わるのが、将棋の怖さ。そして……面白さです」


「うん。思えば爺ちゃんも、俺に将棋を教えてるとき、そんなこと言ってたっけ」


 ……爺ちゃんの「検査のための手術」は嘘だった。

 心筋梗塞を起こした際、関連痛かんれんつうという「痛みが無関係な場所で発生する症状」のために肩こりと勘違いしてしまい、発見と処置が遅れた。

 その際、血流を損なった肺や脳にもダメージを負っていて、心臓の手術が成功しただけでは手に負えない状態……だった。

 覚悟を決めていた爺ちゃんは最期に、不肖の孫へ女の子を紹介し、孤独なイマリさんに同世代の話し相手……将棋の相手をあてがった。

 うちの親や親戚たちにも、明るく振る舞いながら、いろいろ遺してた。

 亡くしたあとで、あなたの孫であることを誇らしげに思うのは、ずるいかもしれないけれど……。

 俺も爺ちゃんみたいに生きて……そして、死にたい。


「んー……。その金が斜め移動しないんだったら……こう、かな?」


 俺と同じ名前の駒……けいをつまみ上げ、イマリさんの金を牽制の構え。

 いままで気にしたことなかったけれど、もしかすると俺の名前、爺ちゃんが命名してくれたものかもしれない。

 帰ったら親に聞いてみよ……。


 ──ペチッ。


 親指、人差し指、中指の三本で置いた桂馬が、締まらない音を立てた。

 あたかも、ヘタレ男子な俺のよう。

 最近知ったことだけれど、イマリさんは新進棋士奨励会……通称「奨励会」という将棋のエリート集団に、一年ほど身を置いていたそう。

 そんなイマリさんを楽しませるために、せめて将棋はヘタレを早く卒業したい。


「……フフッ。桂馬さんが将棋を好きになってくれて、本当にうれしいです」


 でも本当に好きになったのは、将棋じゃなくってきみだよ……なんて。

 俺の顔面偏差値とコミュ力がいまの百倍あれば、そう言えるんだけど……。

 ……………………。

 ……非モテ陰キャで女子と接点皆無な俺は、当たり前のようにイマリさんを好きになった。

 かわいいから──。

 こんな俺と普通に接してくれるから──。

 儚げで守ってあげたくなるから──。

 最初はそうだったけれど、いまはそれだけじゃない。

 この子は自分が病弱でありながらも、他人を案ずる優しい心の持ち主で──。

 将棋という打ち込めるものを通じて、強さも培っていて──。

 そしてよく……笑う。

 その強さと微笑みが消えないよう、俺も強くなりたい……。

 ……いや、なる。

 将棋でも、人間としても──。


 ──パチン。


「……桂馬さん。きょう、封じ手……持ってきてます?」


 ──ペチッ。


「ん? ああ、うん。病院ここへ来るときは、必ず持ってきてるよ」


 ──パチン。


「じゃあ、この局のあとで……。封印、解いてもらえますか?」


 ──ペチッ。


「えっ?」


「曽根さんとの続き……お願いします!」


 ────パチン!


「ええっ!? いまのド素人の俺じゃ、爺ちゃんの渾身の一手を無駄にしちゃうよっ」


「……それでも、指せなくなるよりかはいいです」


「…………?」


 イマリさんの中指が、進んだ上がった銀から離れ……。

 両手を膝の上へ置いて、笑みが消えた顔で俺をまっすぐに見る。

 俺は気恥ずかしさから目を左右へ泳がせつつ、同じポーズで顔を合わせた。

 薄桃色のリップが輝く唇を、イマリさんがゆっくりと開く──。


「この病院、あすから面会禁止なんです」


「えっ……」


「いまあちこちで発生している、ウイルスの院内感染。その対策で面会が禁止されるんです。肉親となら、条件が厳しいながらも会えるんですけど……。桂馬さんとは、しばらく会えなくなります」


 日本各地の大きな病院で起き始めた、連続院内感染──。

 感染力が強い新型ウイルス「FLエフエル00ゼロゼロ」が確認されている。

 感染者には微熱が生じるだけで、咳、嘔吐といった目立った症状はなし。

 死亡例もなし。

 けれど基礎疾患を重症化させる恐れがあることから、医療界は戦々恐々。

 市中感染は未確認で、院内感染のみの発生……というのも不気味。

 医療施設を狙ったテロ……そんな陰謀論もネット上にある。

 その余波が、ついに俺たちの生活圏に及んだか……。


「……わかった。そういうことなら、封を開くよ。この局はお開きってことで」


「すみません……お願いします。それから……もう一つ、お願いが……あります」


「うん……。なに?」


「え、ええと……その……」


 イマリさんの顔が血色ばんだ。

 チークの下から、肉体本来の赤みが頬全体へ広がっていく。

 テーブルの下でもぞもぞと両手を擦り合わせ、さっきの俺みたいに目を左右へ泳がせ始める……。


「あの……。もしその勝負で、わたしが勝ったら……。面会禁止が解けたあとに、デートを……してもらえませんか? 外出許可……頑張ってもらいますから……」


「デっ……デートぉ!?」

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