第3話 新ゲーム

 今回の心理ゲームの参加者は、5人だった。

 その中で、そのうちに三角関係のようなものが持ち上がってきているように見えるのだが、その関係は、

「男二人に、女性が一人」

 であった。

 ハンドルネームは、元々、

「歴史好きの人間がターゲット」

 ということで、しかも、戦国時代に造詣の深い人が多かったことで、

「景虎」

「景勝」

「帰蝶」

 という三人の男女だったのだ。

 それぞれ、もちろん、会ったこともなければ、顔も知らない。このゲームは音声ができないので、声も聴いたことがない。今のところ、連絡を取るすべもなく、連絡を取り合うというところまで行っていないのであった。

 このハンドルネームは歴史好きの人であれば、ピンとくるだろう。

 最初の景虎というのは、実は二つの意味がある。一つは、

「長尾景虎」

 つまり、上杉謙信が、関東管領である上杉家の名前を受け継ぐ前の名前である。

 そして、もう一つは、その上杉謙信が、後北条氏から、養子にしたことで、名前を、

「景虎」

 と改めさせたのだった。

 それだけ期待していたということであろうが、言い方を変えると、

「人質」

 と言ってもいいだろう。

 そして、上杉謙信の甥にあたるのが、景勝であった。

 彼のそばには、絶えず、直江兼続という参謀がついていた。そのことが、彼の人生に大きな影響を与えることになるのだ。

 上杉謙信が亡くなって、その時、

「後継者と誰にするか?」

 ということを言っていなかったことで、景虎と景勝の間で、後継者争いとなる、

「御館の乱」

 が勃発することになる。

 ここで、勝った景勝が、

「上杉謙信の後継者」

 ということになるのだが、ここでの、

「景虎」

 というのが、普通であれば、

「上杉謙信のこと」

 というのであろうが、本人とすれば、

「御館の乱で敗北した景虎だ」

 というのである、

 そう、そもそも、このゲームは、

「孤立した精神を持つ人間をあぶり出す」

 というような、そんなゲームではなかったか。

 通常の精神状態というわけではないので、このゲームに参加している人間も、

「普通じゃないだろう」

 ということも分かっているのだ。

 このゲームの参加人数は、5人、これが、このゲームの定員だった。

「これ以上多くてもダメで、少なくてもダメだ」

 というもので、最初から決まっていた。

 だから、5人があっという間に集まれば、そこで募集は打ち切られることになり、さらに、ネットから、削除されるのだ。だから、5人があっという間に集まれば、

「そんなゲームあったんだ」

 ということになる。

 しかし、もし、人が集まらなかった場合はどうだったというのか?

 もちろん、4人目までは普通に受け付けるが、受付でなかなか5人集まらない場合は、二つの場合に限られていた。

 最初の、1カ月を限度として、まず、

「そこまでに、4人、集まっているか?」

 ということが、問題となる。

 もし、1カ月のリミットまでに、4人が集まっていなければ、1カ月経った時点で、募集が強制的に打ち切られ、この企画はなかったことになる。

 しかし、1カ月経った時点で4人であれば、もう1か月募集が伸びることになる。つまりは、

「1人の募集のために、今度は1カ月をかける」

 ということであった。

 今回の募集においては、5人が普通に集まった。

 つまり、あっという間に5人が埋まったというわけでもなければ、思ったよりも、時間が掛かったというわけでもない。

 ましてや、1カ月が経った時点まで、5人が集まらなかったというわけではないという意味で、

「普通」

 という表現をしたのだ。

 最初から、1カ月までに、3人までしかいなければ、ゲームオーバーということになる。

だから、この場合は論外である。

 1カ月経って、4人だった場合は、そこからさらに1か月。最大2か月の、

「猶予」

 が与えられるということになるのだった。

 だが、普通に考えると、

「1カ月経っても、最期の一人がこなかったのであれば、さらに1か月というのは、ほぼ絶望なのではないか?」

 と思うだろう。

 ここの参加者のうちの、三角関係となる3人は、皆そう思っていた。

 他の二人は、3人の中では眼中になかった。

 元々、このゲーム参加者は、

「孤独な人間の集まり」

 みたいなものであり、それは、リアルでも、バーチャルでも同じだろう。

 ましてや、バーチャルの方が余計に、その傾向は強いのかも知れない。

 ということは、

「皆それぞれ、向いている方向は、バラバラだ」

 ということであろう、

 この3人も、リアルな時には、まったく明後日の方向を向いている。人と話している時でも、その人の顔を見ようとはしない。相手はそのことにすぐに気づいて、

「こいつは、ヤバいやつだ」

 ということで、相手にされないようになるだろう。

 元々、時分から相手にしようとは思っていないのだから、相手が相手をしないと思っても、自業自得というものだ。

 しかし、それ以前に、彼らは、そんなことはどうでもいいのだ。人との関係を億劫だと思いたくないということから、

「最初から気にするからだ」

 と感じるのだ。

 他人のことを気にしさえしなければ、何とでもなると思っている。

 よく、

「人は一人では生きてはいけない」

 と言われるが、ここに集まってくる人たちは、そんな言葉を一切信用していない。

「人は確かに一人では生きていけないのかも知れないが、それは、人全員ということではなく、少なくとも、俺らは生きていけるさ」

 と思っていた。

 こんなことを、他の連中に話せば、

「何を想いあがっているんだ。親から生まれて、親のすねをかじっている分際でよくそんなことが言える」

 と、皆がいうだろう。

 しかし、彼らは、

「俺たちは、生まれる自由はないんだ。どの親から生まれてくるかということを選ぶ権利もないじゃないか」

 というようなことをいう。

「屁理屈だ」

 と言われるが、たぶん、他の連中は、

「屁理屈だ」

 とまで言わないだろう。

 それ以前に、

「こんなやつらの相手はしない」

 と思っているからで、

「実際に、屁理屈なのだが、間違ったことは言っていない」

 というような、

「結論が正しければ、それでいい」

 という考えを持っているのだ。

 そういう意味からか、

「生んだのだから、育てるのは当たり前」

 という考えであった。

 理屈は確かにその通りだ。ごくまれに、子供ができたはいいが、育てられないということで、

「コインロッカーベイビー」

 などと呼ばれた時代があった。

 今でも、大きくニュースにはなっていないが、育てられないからといって、どこかの家の前に、まるで、ペットを捨てるかのような気持ちで、子供を捨てる親がいたりする。

「赤ちゃんポスト」

 などというものも存在し、

「子供を諸事情から育てられない親が、匿名で預ける施設」

 のようなものもあったりする。

「人道的にどうなのか?」

 あるいは、

「未成年の妊娠を抑制できなくなる」

 などという理由で否定的な人もいるが、実際の子供が殺されて生きされるというようなことを思えば、

「かなり安心だ」

 と言えるのではないだろうか。

 今回の心理ゲームの中で、本来は、

「孤独な人間を探す」

 というのが表向きであったが、実はその裏に、

「裏切者を探す」

 という考え方があるようだった。

 特に、元々は、

「卑怯なコウモリ」

 のような、

「日和見的で、自分が助かるためには、まわりを欺いたために、孤独で陰湿なところに追いやられた」

 という雰囲気であるが、実際にどうなのだろうか?

 元々、まわりと隔絶された生き物なのかも知れない。

「まわりと関りを持たない」

 というのが、元々の性格であり、その性格を、いかに表現すればいいかということで、考えられたのが、この

「卑怯なコウモリ」

 の話なのかも知れない。

 ただ、そう考えた方が、話としては、辻褄が合っている。

「卑怯な真似をしたから、コウモリは罰を受けたというよりも、コウモリの性質が、陰湿で、まわりと関わらない性格であったとすれば、理屈は合う。どうしても、

「その性格がいかにして育まれたのか?」

 ということを、追求しないといけないのが、童話の世界であり、必ず、教訓づけて言い表す必要があるということなのかも知れない。

 歴史を勉強していると、

「裏切者」

 というのは、必ず付きまとってくることだろう。

 しかも、いくつか種類があって、すべての裏切者が、同じものからの派生なのかどうか、よく分からなかった。

 日本史などで裏切者としてよく言われるのが、

「明智光秀」

 と、

「小早川秀秋」

 なのではないだろうか?

 本当のところは分からないが、自分が信長に苛められているという被害妄想を持ちながら、最終的に、

「何も悪いことをしているわけではないのに、自分の領地を取られる」

 ということなのだ。

 領地を取られるどういうことかというと、

「自分の配下の人間に与える給料がなくなる」

 ということである。

 そんなことは、自分を信じてついてきてくれた部下を見殺しにするようなものである。

 光秀はそれまでに、信長から、

「大衆の面前で赤っ恥をかかされた」

 あるいは。

「戦で人質になっている母親を見殺しにされた」

 などなど、数々のことがあった。

 光秀は、織田軍団の中でも頭脳派であり、足利幕府や朝廷ともパイプを持っている。しかも、しかも、意外と知られていないが、頭脳派でありながら、戦をすれば、全戦全勝、負け知らずというほどのつわものだったのだ。

 信長は、どちらかというと、

「子供の頃から、経験と実践で、知恵を身に着けてきたところがある。

「天は二物を与えず」

 というが、天から二物を与えられた光秀に対しての、嫉妬もあったのかも知れない。

 そういう意味では、信長と光秀というのは、

「天才肌」

 という意味では似ているところがあるのだろう。

 意外と似ている人間同士であれば、却って、反発しあうということもあるだろう。

 そういう意味で、光秀が信長を討ったのも分からなくもないが、問題は、秀吉との才覚の差だったのかも知れない。

 農民の出だからということで、織田軍団の中でも、馬鹿にされていた存在だった秀吉が、あれよあれよという間に信長のそばで出世していくのである。

 それを見ていて、

「秀吉など、論外だ」

 と光秀は思っていたのかも知れない。

 確かに、光秀は、

「思い付きから、中国征伐を途中でやめて、敵は本能寺ということで、信長を急襲した」

 ということになっているが、その割には、事後のこともしっかりと考えていた。

 元々それが、

「光秀の天才たるゆえん」

 なのであろうが、まさか、自分についてくれると思っていた武将たちが、皆誰もついてくれないというのは、意外だった。

 娘の嫁ぎ先である細川家からも、門前払いの状態。一番びっくりしたのは、光秀だっただろう。

 ひょっとすると、それまでに、秀吉との出世レースにおいて、

「あんなサルよりも、光秀度をひいきにする」

 とでも言われていたのかも知れない。

 何といっても、皆根底では、秀吉のことを、

「農民上がり」

 だということで、武士のプライドが、秀吉の存在すら許せないと思っているだろうと、光秀が感じていたとしても、それは無理もないことであろう。

 しかし、蓋を開けてみれば、孤独だったのは自分だったのだ。

 光秀が見誤っていたのは、それだけ、信長という人物を家臣団は奉っていたということであろう。

 まさか、自分が感じているのと同じとまでは思っているわけはないだろうが、どうしても、信長にはついていけないところがあり、煮え湯を飲まされたと思っている武将は数知れずだと思っていることであろう、

 しかし、皆は秀吉についた。なぜ秀吉についたのか、光秀も分からないだろう。

 正直歴史を勉強している人であっても、ここは、よく分かっていない。そもそも、言い方は悪いが、

「本能寺の変は、光秀の思い付きから起こったこと」

 といっても過言ではないだろう。

 なのに、なぜ秀吉が、備前で毛利と戦っていた秀吉が、こうも早く行動できるというのだろうか?

 いわゆる、

「中国大返し」

 と呼ばれることをやってのけたのだが、その後の、織田軍団筆頭の柴田勝家との戦である、

「賤ケ岳の合戦」

 の時も、美濃から取って返した、

「美濃大返し」

 というものをやってのけるのだが、この時は、

「雪で兵を動かせない勝家の隙をついて、勝家の領地を攻めることで、相手を引っ張り出すことに成功し、最初からの思惑通りの、

「美濃大返し」

 でだったろうが、中国の場合は、

「毛利に向かう密偵を、偶然山中で捉え、それで信長が討ち死にしたことを知った」

 ということである。

「偶然にしてもできすぎている」

 といえなくもない中で、よくあれだけのことができたというものだ。

 美濃の時は、中国の教訓があるから、いくらでも手の打ちようがあるが、中国はいきなりのぶっつけ本番だということではないか。

 そんな話から、本能寺の変における、

「秀吉黒幕説」

 が浮上してくるのだった。

「偶然知ったというわりには、仲間を集めるには早すぎる」

 という。

 そもそも、偶然知ってから、一日だけ、毛利と和睦するために、当地にとどまったが、それが終わると、例の中国大返しである。

 急いで帰ってきているところで、どうやって他の武士を調略できるというのか?

 誰も、本当にそのことに触れようとしない。

「中世最大の謎」

 といわれる本能寺の変、光秀一人の思い付きというのも、おかしな気がする。

 本能寺で、謀反の一方を聞いた信長が、

「誰の兵じゃ」

 と蘭丸に聞いた時、

「水色帰郷、明智十兵衛殿です」

 というのを聞いて、蘭丸から、

「殿、ここは我々が食い止めますので、殿は安全なところに」

 と、いわれたが、その時信長が答えた言葉が、

「たわけ。相手は光秀ぞ。アリ一匹通るわけがあるまい」

 といったという。

 それだけ、光秀の実力は認めているということだ。

 となると、やはり、

「光秀の天才肌が怖かったのではないか?」

 といわれているが、まさしくその通りなのかも知れない。

 光秀のことを考えていると、

「彼こそ、コウモリ」

 なのではないか?

 と思えてきた。

 さすがに、

「卑怯なコウモリ」

 というわけではないが、そのことを考えると、いわゆる、

「卑怯ではないコウモリ」

 というのは、結構いるのではないか?

 と思えるのだった。

 いつも孤独で、いかにも孤独さが滲み出ているように見えるのだが、それもきっと何か孤独を思わせるエピソードであったり、逸話があるのかも知れない。

 もちろん、光秀のような人物は、そんなにもいないだろう。

 ただ、それまで、まわりから一目置かれていた人物であっても、神のごとくあがめられていた自分たちの主君を討つという、

「絶対にやってはいけないことをしてしまった」

 という認識がなかったのだろう。

 ただ、それまでは必死に我慢をしてきたのだが、領土の件ではさすがに堪忍袋の緒が切れたに違いない。

 だが、堪忍袋の緒を自ら切ってしまったことで、気が付けば、まわりは敵だらけ、ひょっとすると、

「まわりに、光秀という武将が、孤独な男であり、信長という存在がなければ、その存在を認められることのない男だったのかも知れない」

 ということを知らしめたのかも知れない。

 ということは、

「織田信長を討つということは、自分で自分の首を絞めることになる」

 ということであろう。

 しかし、何もしなければ、結局、領土を取られてしまうことになる。そうなると、一か八かを考えれば、あの場合は、

「謀反を起こすしかなかった」

 ということになるのであろう。

 織田信長と、明智光秀というのは、

「性格的にはまったく似ていない」

 というように見えることで、考え方も違うかのように思われるが、実はそうではない。そのことを一番わかっていたのは、光秀だったのではないだろうか?

 信長も、

「光秀であれば、自分の考え方が分かってくれるという、

「タカをくくったようなところ」

 があったのかも知れない。

 そういう風に考えていくと、確かに光秀の考えは、無謀であったかも知れないが、信長ほどのオトコが光秀の謀反を予期していなかったというのも、不思議である。

「人間というもの、性格が似すぎていると、相手が考えていることが分かりすぎるのか、行動パターンが得てして読めなかったりするものではないだろうか。

 明智光秀というのは、実際に信長が憎かったのかどうかは分からないが、

「私的復讐」

 というものもあったかも知れない。

 しかし、小早川秀秋の場合はどうでろうか?

 秀秋は、光成に恨みはなかっただろう。しいていえば、

「未来の世の中のため」

 といえば恰好いいが、

「家休み脅迫されて」

 というのが本音かも知れない。

 三成方とすれば、

「自分の10倍の石高の大大名を敵に回す」

 というのだから、正直、きれいなやり方だけでは、勝てないということは最初から分かり切っていることではないか。

 それが、

「細川ガラシャの悲劇」

 を生むことになる。

 細川ガラシャといえば、偶然というか、因果というべきか、前述の明智光秀の娘である、たまのことである。彼女は、父親が本能寺の変を起こす前に細川忠興に嫁いでいたのだが、前述のように、本能寺の変で、細川家が光秀につかなかったことで、たまの立場は微妙になり、細川家の領土である丹後に幽閉されるという運命をたどった。

 それから許され、時は流れて、関ヶ原の時代になると、夫の星川忠興は、諸大名とともに、家康に従って、会津に向かって、

「上杉征伐」

 へと赴いていたのだ。

 滋賀にいた三成は、この時とばかり、家康にしたがって上杉征伐に出かけた武将の留守を襲い、女房子供を人質にして、自分に味方させようという作戦に出たのだ。

 卑怯に見えるが、圧倒的に弱い勢力で、強敵に立ち向かうのだから、これくらいのことをしないといけないということである。

 他の武将は、ある程度の抵抗をすれば、無駄だと思えば、そのまま人質ということになったであろう。

 しかし、たまの場合は違った。

 そこに、父である光秀のことが、今回のことに影響していたかどうか、本人ではないと分からないが、

「夫の足手まといにはなりたくない」

 という思いがあったことだろう。

 しかし、彼女は、少し前にキリシタンとして洗礼を受け、

「ガラシャ」

 という洗礼名までもらっているという、完全なクリスチャンであった。

 キリスト教では、

「人を殺めてはいけない」

 という戒律があり、それは、自分に対しても同じだということで、自殺も許されなかった。

 そこで彼女がとった手は、

「配下の者に、自分を殺させる」

 という方法であった。

 だが、この方法が果たしてよかったのかどうか難しいところである。

 なぜなら、

「自分が殺さないからといって、部下を殺人者にしてもいいのだろうか?」

 ということであった。

 あの場面では、そうするよりも仕方がなかったということなのかも知れない。少なくとも、自分を殺させた名もなき兵は、当然、キリシタンではなかったということであろう。

 ただ、この事件があったことで三成は作戦を変更せざるを得なかった。これ以上、この作戦を押し切ろうとすると、味方内部でも分裂を起こしかねないほどの、衝撃的なことだったのだろう。

 そもそも、大義名分が、

「豊臣家のため」

 ということなのだから、豊臣家のために働いている武将の家を襲撃しようというのだから、やっていることは、間違いなく、決してきれいなことではないだろう。

 そんな日本を東西に二分する戦において、光成の存在は、微妙だといえるのではないだろうか?

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