第2話 裏切者
情報統制派軍が行ったので、政府要人がその事実を知るのは、かなり後になってからだろう。
それだけ、当時の日本は戦争機運であり、大日本帝国の性質上、
「政府は、軍のやり方に口を出すことはできない」
ということであったのだ。
つまり、
「裏切り」
というのは、基本的に、戦時において、有効になるものだ。
それは、実際の国家間の戦争であっても、テロのような一方的な攻撃であっても、個人間同士の諍いであっても、人が絡めば、そこに必ず、
「裏切り」
というのは発生するものに違いないのだった。
そんな中において、
「裏切り者」
がいるとすれば、
「裏切られる者」
がいるということだ。
日本人は、
「判官びいき」
ということもあるので、どうしても、
「裏切り者」
という方が白い目で見られる傾向にある。
時代が確かに証明しているが、その大きいものとして、関ヶ原での、小早川秀秋などが、その典型であろう。
しかし、裏切りという意味でいけば、亡き豊臣秀吉にしてみれば、
「徳川家康こそ、裏切り者だ」
ということになる。
しかし、これは、豊臣秀吉から見ればということになるのであって、徳川方から見れば、
「いよいよ、待ちに待った時代の到来だ」
ということになる、
しかも、豊臣方として兵を挙げたのが、石田三成、奉行として、内政にての第一人者だったことで、朝鮮出兵を命じられた、
「武功派」
である、加藤清正、福島正則、黒田長政らなどからすれば、面白くない存在だ。
しかし、これは一種の分業制であり、武功派が、内政の長である人間を恨んでも、逆恨みというものではないだろうか?
家康は罠を仕掛け、上杉征伐をもくろんで、その間に三成が兵を挙げるのを待って、取って返して、大義名分ができたことで、取って返して、戦ができるということになったのだ。
その際に、黒田長政の説得で、
「西軍を裏切る」
という密約を交わしたのは、何も小早川秀秋だけではない。
「朽木、赤座、脇坂隊」
なども、秀秋の裏切りを見て、裏切っているのだ。
秀秋軍が、大きかったのと、最初に動いたことで、
「裏切り者」
のレッテルを貼られたが、人が動いたのを見て、自分たちも動いたという意味で、
「どちらが卑怯なのか?」
ということである。
「横断歩道、皆で渡れば怖くない」
というが、確かに、兵の規模からいうと、とても、最初に突っ込んでいくのは、勇気がいるだろう、
「もし、他の連中が密約通り裏切りをしなかったら?」
と考えると、裏切るといっていた連中が、こっちに向かって攻めてくるのだ。とてもではないが、犬死dしかない。
と言えるだろう。
しかも、万が一生き残ったとしても、裏切った相手が負けてしまうと、自分の裏切りはただの、
「貧乏くじ」
でしかない。
裏切りを密約させられた方も難しい。
たとえ、自分の活躍があったとしても、孤軍奮闘であれば、結果、待っているのは、制裁しかない。
「あのまま、身かtでいれば、論功行賞にも預かれたのに」
と思うのだろうが、しかし、もし、関ヶ原で西軍が勝っていればどうなったであろうか?
確かに、徳川の時代ではなかっただろうが、三成が勝ったとして、自分を中心とした政治ができるのだろうか。
あくまでも、
「秀吉あっての、三成」
だったのである。
三成が天下を握っても、誰かをトップにしないと、うまくはいかない。
となると誰か?
「宇喜田秀家は若すぎる。大谷刑部とて、あくまでも、自分と同じで駒の一人であり、天下人ではない」
そうなると、考えられるのは、毛利か上杉くらいしかない。もう前田利家も亡くなってしまっていないのだ。
となると、
「果たして、毛利輝元で大丈夫なのか?」
ということになるだろう。
案の定、毛利輝元は、家康からけん制されて、
関ヶ原では、
「陣を張るところまでは行ったが、まったく動かなかった」
ということで有名であった。
ただ、考えてみると、徳川軍も裏切りがあったから、うまく勝つことができたのだが、別動隊である、約半数の軍が、中山道にて、真田軍に足止めを食うという、息子の秀忠による、
「大失態」
によって、圧倒的な兵力さだったものが、
「ほぼ、同数」
というくらいにまでの戦闘状態に持ち込んで、善戦したのだった、
もちろん、裏切りさえなければ、
「西軍が勝っていた」
かも知れない。
下手をすれば、小早川の裏切りがあったとしても、他の小規模な隊の裏切りがなければ、西軍が勝っていたかも知れない。
そうなった時、小早川は確実に裏切り者として、制裁を受けるのは当然である。
しかし、問題はその跡だった。
もし、西軍が勝ったとして、その後の世の中を、
「じゃあ、誰の天下になるのか?」
ということになると、今度は、絶対的な主君がいないことになる。
そうなると自然と、内輪もめが生まれたりして、せっかく、統一された天下がバラバラになり、また戦国時代に逆戻りということになるだろう。
信長、秀吉、家康。
それぞれに天下を握り、それぞれの目的だったり、国家建設の青写真があったであろうが、その共通の目的は、
「戦国の世を終わらせる」
ということであるのは間違いのないことであろう。
そのことが分かっているから、徳川幕府は、徹底的に、大名を取り締まり、徳川の天下を知らしめることに成功したのだ。
三代将軍家光の時代までに、ほとんどの外様大名が改易させられた。しかも、中には、三河以来の、重鎮であっても関係なく、本多正純であったり、家光の弟の忠長ですら、改易させられるということになったのだ。
それだけしないと、天下を治めることはできず、どこかで戦火の火種が生まれるということになるのだろう、
だから、ある意味、日本人が、
「判官びいき」
でなければ、小早川秀秋は、
「徳川260年の歴史を築いた英雄」
ということで、持てはやされたのかも知れないが、実際には、
「味方を裏切った」
という方がイメージが強い。
これは一つは、
「豊臣びいき」
という発想が強いからではないだろうか?
豊臣秀頼という男が、秀吉とは正反対で、身体の大きな、
「頼れる大将」
という雰囲気になったことも一つだろう。
しかし、もう一つは、母親である、
「淀君」
の存在が大きいのではないだろうか。
息子可愛さということで、徳川の天下になることを許さない。しかも、それが、太閤を裏切ることになるというのだから、特に大きなことである。
それを考えると、
「秀吉の正室である、ねねの態度は大人であった」
と言えるだろう。
淀君をなだめながら、冷静に天下の動向を見極め、
「今の世の中をまとめていくのは、徳川でなければダメだろう」
ということも分かっている。
「秀頼が悪い」
というわけではないが、武士としての求心力を考えると、誰が考えても家康であることは火を見るよりも明らかだといえるのではないだろうか。
そもそも、
「裏切り」
ということは、関ヶ原に限らず、
「諜報合戦」
などで用いられることも多い。
これは、昔からあることで、一番多いのは、自分の敵である相手に対して、
「謀反の疑いをかける」
などして失脚させるというやり方である。
例えば、将軍や、天皇の側室が、
「自分の産んだ子を、次の天皇、あるいは、将軍の座につけたい」
として、正室の子に、
「謀反の疑いをかけることで、捉えるように仕向け、そのまま斬首にしてしまう」
などというやり方である。
ここでは、誰か、狙っている相手をたきつけるための、その人物の仲間として君臨している人間を、その信頼を踏みにじる形で裏切らせ、そそのかされた相手を、この時とばかりに、
「自分が証人だ」
ということで名乗りでれば、容疑はのっぴきならないものになるに違いないだろう。
そう思うと、何を言っても、もうダメである。斬首か切腹か、せめて、どこかに島流しかということで、失脚するしかなくなってしまう。
それこそ、
「まるで身内の裏切り」
のようなものであり、何度も繰り返されてきたことだった。
だが、あまりにも多すぎるということや、時の権力者が考えることは同じだということで、目立たない。
それをいいことに、あまり歴史で教えることも少ない。
「だが、この変の歴史を勉強するのが、一番興味深いところなんだけどな」
と思う、歴史ファンも少なくはないだろう。
「裏切り」
というものは、大なり小なり、あまりありがたくないものだ。
しかし、コウモリのような、
「あまりありがたくない」
と言われている人たちの中に存在していればどうだろうか?
そもそも、日和見的な行動をしているコウモリのまわりに、
「裏切り者を自認しているような、そんな裏切り者がいたとすれば、どうであろうか?」
と考えるのだ。
元々、コウモリというと、日和見的だということもあり、あまり印象がよくない。
ただ、贔屓目に見ると、
「コウモリは、自分で武器も持っているわけでもなく、身を守るだけの力があるわけではない。したがって、諜報作戦などに長けていないと、生き残っていくことはできない」
ということになる。
つまりは、コウモリにも、自分がその役目を負うわけではなく、
「参謀」
のような者がいれば、それでいいのだ。
自分がまとめる力さえ持っていれば、それでいい。ただ、今のように、
「卑怯なコウモリ」
という悪しきインパクトを持ったままでは、それも難しいといってもいいに違いないのだ。
そんなコウモリは、暗いところから出てくることはできない。
「目が見えない」
ということは負い目でもあるが、その分、
「俺には、世の中の汚い部分が見える」
と言ってもいいだろうと思っている。
要するに、
「コウモリを助ける」
という存在だ。
そもそも、コウモリというのは、
「暗闇の湿気のある陰湿な場所に生息していて、夜中を行動パターンとする」
というような、一種の、
「隔絶された世界に生きている」
と言ってもいいだろう。
しかも、
コウモリを助ける存在というのが、女だったらどうなのだろうか?
この世界においては、バーチャルな世界と、リアルな世界が交錯しているようなところであり、今のところ、バーチャルな存在として、その中で、ハンドルネームというものを使って、いわゆる、
「プレイ」
をしていた。
まるで、
「バーチャルではあるが、今は当然と言ってもいいが、リアリティな、
「3Dゲーム」
という感じである、
かつて、
「世界的なパンデミック」
が起こり、政府が人流抑制のために行った、
「緊急事態宣言下」
において、誰もが、
「おうち時間」
というもので、ストレスを感じている中、
「オンライン」
というものが普及し、
「リモートワーク」
「オンラインでのバーチャルなゲーム」
というものがクローズアップされてきたのだ。
この物語は、まずは、そんな、
「バーチャルオンラインゲーム」
のキャラクターが引き起こした話であり、最初は事件というのは、あまりにも些細なことだったのだ。
「これが今の世の中なんだな」
と大人も、複雑な思いだったことだろう。
そんなゲームの中で、
「孤立した人間が誰なのか?」
ということをあぶり出して、
「その人間を改心させよう」
というバーチャルゲームであった。
「孤立した人間というのが、どういう人間なのかというのを、皆で、心理ゲームのような形で言い合って、それをゲームとして行うことで、本人も分かっていない、孤立する性格をあぶり出そうというのだから、正直、誰か先生がいないと、本来の正解は分からないだろう」
ということであったが、そんな遊びをやっていると、不思議と、
「孤立する人間には、お助けになる人間がくっついてくる」
という、
「あるある」
に遭遇したのである。
元々、彼らは、孤独ではなく、
「自分の種族だけで、飛び回っていた」
ということであった。
しかし、ある時、そのうちの一匹が、
「君主になろう」
と企み、そもそも、君主を必要としていなかったことで、君主のような纏める人間が必要だということに、気づかなかったのだ。
彼らの知能は、そんなに発達していなかった。そもそも、動物は本能で生きるものだったのだろうが、ちょっとでも知恵を持つと、
「集団で行動する」
ということの意義を見つけることができるようになる。
だから、人間は、ここまで発展したのであって、人間も昔は、
「自分たちの群れの中で生きている」
ということに何の疑問も持たなかったのかも知れない。
しかし、ある時、いろいろなことを覚えていく。そこに神の存在が介在しているのかどうかまでは分からないが、
「集団で行動することで、感情を持つようになると、寂しさが分かるようになってくる」
と言えるだろう。
寂しさが分かってくると、
「今まで、漠然と他の連中と一緒にいたことが、群れというものだということに気づいてくる」
というわけだ。
そして、一人になると寂しいという感情が湧いてきて、
「孤独は嫌で、怖いものだ」
と思うようになってくる。
そのせいで、孤独を正当化しようと考えると、
「自分は他の連中とは違うのだ」
という、自己顕示欲のようなものが生まれてくる。
だから、その思いが、自分のまわりに、人を侍らせるということに繋がってきて、そのうち意識が、
「オンナ」
というものに近寄っていくのだ。
こちらも、性欲が付きまとう。ただ、これは人間に限ったことではなく、どの動物にも言えるように、
「性というものが、恥辱なもので、恥ずかしい、という羞恥心を持つことが、正当化だ」
と考えるようになると、
「他の動物にはない人間の優れたところは、羞恥心を持っていることだ」
と言えるのではないだろうか?
だから、聖書でも、男と女が裸でいることの恥辱を、最初に知ることになるということなのではないだろうか?
コウモリのような動物にとって、人間における、
「恥辱」
というものは、
「孤独なのではないだろうか?」
だからこそ、何としてでも、うまく乗り切ろうと、卑怯と言われるような、行動を取ったのかも知れない。
そんな恥辱の中で、
「本当は寂しいくせに、群れを成すことを嫌がり、一人でいることを望む。それが、コウモリの性格と言ってもいいだろう」
コウモリというと、目が見えないということから、どうしても、猜疑心が強くなるようだ。目の前にいても、コウモリというものを意識すると、その猜疑心からか、急に相手の姿すら、見えなくなってしまうという、そんな感覚になってしまうのではないだろうか?
もちろん、極端な例で、すべてのコウモリがそうだともいえないし、コウモリ以外の動物の中にも似たような性格の動物がいないとも限らない。
特に人間などは、
「猜疑心の塊」
という人は山ほどいるといってもいいだろう。
そもそも、猜疑心という言葉は、人間が作った言葉であり、その言葉からなのか、猜疑心というと、
「一番人間らしい」
と言えるのではないだろうか?
「猜疑心が強いから、嫉妬というのをするのか? それとも、嫉妬をするから、猜疑心が生まれるのか?」
という人がいたが、基本的にが、猜疑心が生まれるから、嫉妬という感情が生まれるのだと言われる。
「猜疑心は、心に芽生えた意識であり、そして、嫉妬は、感情だ」
と言えるだろう。
だから、芽生えた意識から、感情が生まれ、その感情が、行動を起こす。つまりは、
「結果として起こった行動は、嫉妬という感情から生まれる」
ということで、どちらかというと、猜疑心は、あまり意識されないかも知れない。
もちろん、
「嫉妬の原因は何か?」
ということで突き詰めていくと、最初のぶち当たるのが、猜疑心である。
「猜疑心と嫉妬は、対称物であって、切っても切り離せない関係にある」
と言ってもいい。
しかし、そこには、意識をすることはないが、れっきとした主従関係のようなものが存在しているように思えてならないのであった。
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