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 一方、家を飛び出したヒルデは、公園のベンチに戻ったが、ジルの姿はない。


 顕微鏡も、なくなっていた。

 ジルがもっていったのだろう。


 彼女はまたむしゃくしゃして、公園じゅうを歩きまわった。


 ふと見ると、そこには凍りついた湖が広がっていた。

 今年は珍しいほどの暖冬で結氷も遅かったけど、今は一面凍りついて、雪が湖の上にまで積もっている。


 あたりに人の姿は見えず、スケート遊びをする人もいなかった。


 ヒルデは氷の上を歩き出した。


 ――その時だった!


 突然、バリバリという音がして、すごい勢いで、やわらかなクリーム色の光が、ヒルデのまわりに満ちあふれてきた。

 卵の殻が破れるように、この世界の見えない壁が破られ、光の流れのなかから、白い小さな生き物が飛びだした。


 白い生き物は、六枚の透きとおる羽根をはためかせ、びっくりして口もきけなくなってしまったヒルデの目の前まで、かるがるとくるくると、舞うように飛んできた。


 幼子おさなごのようにやわらかな頬、真っ白な肌。

 雪の結晶を並べた花冠はなかんむりを頭にかぶり、髪は金色の巻き毛で、とても愛くるしい顔をしている。


「やあ、ぼくは雪天使のクロッケル。ぼくを呼んだのは君デスネ?」


 ヒルデは、とんでもない、と首をふった。


 クロッケルは、琥珀こはく色をした、猫のような目をしばたかせた。


「あれー、おかしいな。また間違えたカナ。でも大丈夫。心配しなくてもいいノデス。失敗は誰にでもあること。心を明るく切り替えて、解決法をさがしマショウ」


 ヒルデは口をぽかんとあけていたが、ようやく言葉を思い出した。


「天使……様なの?」


「ちがうノデス。『雪天使』なノデス。あのね、雪の結晶は、一回の降雪で一兆個は作られマス。けれども同じ形のものは、ひとつも無いノデス。そのなかには、僕のようなものもいてもフシギじゃないノデス」


「……雪天使……」


「そう。天の御業みわざは、素晴らしく、はかりしれないノデスノーデス。今日は降誕祭ですから、急いで天国に帰らねばならないノデスが、せっかくですから、サービスしてあげるノデス。願い事をひとつ、叶えてあげマス、ウララノス」


「え、願い事? なんでもいいの?」


「はい、どうぞ」


 ヒルデは考えた。

 パパを連れてきて……というのはどうだろう?


 ――突然、ヒルデは、自分が鋼鉄製の潜水艦の、長い廊下に立っていることに気づいた。


 廊下の一方の壁は、ゆるく湾曲していて、いくつもの丸窓が、ずっと向こうまで一列につづき、そこから薄いクリーム色の光線が漂いこんでくる。


 反対側の壁には、水の光が映りこんで、波の形にゆらめいている。


 一番近くの丸窓をヒルデがのぞきこむと、今まで深海だと思っていたその場所に、しあわせそうな親子の姿が見えた。


 それはパパと、知らない男の子と、知らない女の人だった。

 親子はあたたかな料理を囲んで、楽しそうに笑い合っていた。


 ときどき空気の泡が、列になって立ちのぼってくる。

 クロッケルが、六枚の羽根をふるわせた。


「あの男の子と、あの女の人を、鋭く冷たいヒョウのつるぎで追い払って、君のパパを連れてきてあげるノデス」


 クロッケルの言葉に、ヒルデは、首を横にふった。


「ううん、やめとく……」


 クロッケルはわざと、つまらなそうな顔をして、それから、ヒルデを隣の丸窓に連れていった。

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