4.総暦一五九四年二月十六日、雪

 鬼との邂逅かいこうから一ヶ月近く経とうというのに、あれ以来芙蓉ふよう川の川沿いを調査しても鬼との出会いはない。それどころか、「鬼と出会った」という噂すら耳にしないのだ。

 あれは夢だったのかと考えてしまうこともあるが、未だ幸太が保管している鬼の腕だけが「そうではない」と告げてくる。

 真紀まきから聞いた歴史民俗資料館の幽霊の話は、確認ができていない。歴史民俗資料館に行きたいのはやまやまだが、鬼が気になる。

「あー……頭沸きそう」

「じゃあ、沸いたら教えてね」

 幸太こうたうめきに、あっけらかんとした声が返った。

「そうじゃない! そうじゃないよりょうちゃん! 俺をねぎらってよ!」

 けたけたと中嶌なかじま怜は笑い、「それだけ元気なら大丈夫だね」と突き放す。机に突っ伏した幸太の隣に、小さな影がやってきた。

 顔を向ければ、ふわふわで癖のある短くて明るい茶色の髪。

ねぎらったら何かくれる?」

 輝いた怜の常盤色の瞳に、満面の笑みに、嫌な予感しかしない。

ねぎらってもらうのに見返りが必要だなんて!」

 墨焔すみほむらに与えられた事務室の自分の机に再び突っ伏して、幸太はなげく。金属製の机が頬にあたって、それが冷たくて気持ちいい。それでも煮詰まった頭はどうにもならないのだけれど。

 鬼はどうして忽然こつぜんと姿を消してしまったのだろう。まるで最初からいなかったかのように。

「そーんなに煮詰まってるなら、図書館の方に出て本でも借りてきたら?」

 墨焔の事務所は、最高学府の敷地内にある図書情報館に間借りをする形になっている。軍本部や軍の分室ではなくここにあるのは、墨焔がいつでも仕事があるとは言えないからだ。本当に暇なときは図書情報館の手伝いをしろと、そういうことだ。そして「異形はいない」としている以上、表向きの仕事はやはり必要だった。

 元々図書情報館は軍部の管理する施設であり、職員は皆軍人だ。有事の際には兵として招集されるようだが、女性が多く薄鼠うすねず色の軍服を着ていても軍人らしさはあまりない。

「いや、それは……」

 がちゃりと事務室の扉が開く音で、幸太は言葉を切る。怜はぱっと扉の方を振り返って明るい声を上げた。

「あ、おかえりー! って何だ、あずさ彬良あきらじゃん。愛想振りまいて損した」

 が、その声はすぐに冷たいものに変わる。

「うわ、相変わらずひっでー。聞いたか彬良」

朔夜さくやさんじゃなくて悪かったですね」

 梓と彬良は気分を害した様子もなく、怜の言葉を受け流す。

 どちらも背が高いが、ずんぐりと体が大きい方が三原みはら彬良、引き締まって筋肉質な方が鵜殿うどの梓である。

「外さっむいぞ。事務室あったかくて良かったー」

「本当です。防寒着いらないとか言う梓の言うこと、聞くんじゃなかった……」

 溜息をついた彬良が目を細めると、目がなくなってしまうように見える。がっしりとした大きな体躯の上に丸い顔があり、柔和な顔立ちに今は呆れを乗せていた。彼は丸襟の黒いシャツの上に軍服の上着を羽織っているのみなので、寒くて当然だろう。

「俺は平気だからな!」

 梓は右の口の端の方だけ大きく吊り上げて笑っていた。

 軍服は支給品で大きさは正しいはずなのだが、どこか窮屈きゅうくつそうに見える。おそらくそれは筋肉質であることと、ネクタイはしていないものの白いシャツのボタンを一番上まで留めているせいだ。

「あー、本部って肩がる。幸太、よくあんなとこで手続きしてきたよな」

 梓がどかりと自分の椅子に腰を下ろした。ほんの少しだけ、幸太の机の上にあった書類が跳ねる。

「僕も苦手です。手続きとかするのは嫌ですね……怪我しないように気をつけよう」

 彬良はゆっくりと椅子に座る。

 怜には大きく、幸太や梓にはちょうどよく見える椅子も、彬良には小さくて窮屈きゅうくつそうだ。

「お前らなんてどうでもいいんだよ。朔は? ぼく一ヶ月以上会ってないんだけど!」

 椅子に座り直した怜が口をとがらせた。

 幸太も退院してからの間で、朔夜に会っていない。事務室に戻ってきているのかいないのか、少なくとも幸太が事務室にいる時には彼は一度も姿を見せていない。

 事務室には机が七つあり、一番大きな机は隊長のものだ。そして小さな机は三つずつ並び、それが向かい合わせになっている。

 朔夜の机には、物がない。少なからず私物を置いている、梓に至っては物置のようになっている机だが、本当に朔夜の机には何もないのだ。彼はそこに座って資料を読むことはあっても、昼食をとることも飲み物を飲むこともしなかった。

「俺も会ってないけど?」

「僕もしばらく会っていないですね」

 つまり、ここにいる誰もが会っていない。

「あ、そういえば」

 あの日は、ちょうど一年前。

「俺が病院に運ばれた日に追ってた異形。あれってどうなったんだ?」

 あの時、朔夜の背後に桂男かつらおとこがいたように思う。けれど朔夜と会話をして、それから頭が痛くなって、そこから先の記憶はない。そもそも朔夜としていた会話の内容も曖昧あいまいで、彼が何を言っていたのかも思い出せない。

 あの後朔夜はどうしたのだろう。そもそも幸太を病院へ運んだのは朔夜なのか、それすら幸太は確認していない。一年近い月日が流れていたことに気を取られすぎて、その辺りの確認がおろそかになっていた。

「桂男なら、幸太と朔でったんでしょ? 幸太が倒れたのって朔と別れた後だって聞いてるけど」

「はぁ?」

 怜の言葉に、思わず声が出た。

「何」

 じとりと、怜の視線が幸太に突き刺さる。

「……違う」

 倒れる瞬間、あの割れそうな頭痛の瞬間。幸太の目の前には、確かに朔夜がいた。

「え? だって幸太を病院に運んだの、朔じゃないよ?」

「そうですよ。幸太さんを運んだのは隊長ですよ?」

 怜の言葉も、彬良の言葉も、信じられない。

「まさか。俺は桂男を討ってない。それどころか、隊長に会ってすらいない」

 あの桂男を討ったのは、朔夜なのか。彼なら一人で討伐していてもおかしくはない。それから報告として隊長に連絡をして幸太を運んでもらった、というのなら納得はいく。

 けれど、引っかかるのだ。

 あの日の朔夜はあまり討伐に乗り気ではなかったように思うし、あの桂男を討ったと言われても信じられない。ただ、桂男を討っていないのならば、隊長に討ったという報告はできない。

「じゃあ朔夜が嘘ついたってことか?」

「あの朔が、嘘?」

 梓も怜も考えこんでしまった。幸太も、そこはよく分からない。

 朔夜は会話にとぼしい。けれど今まで墨焔として活動してきた中で、彼が嘘をつく瞬間というのを見たことがない。

 無表情で淡々と話すものの、その言葉に嘘はなかった。なかった、はずだ。

 それとも誰も気付いていないだけか。

 それを断定できるほど、誰もが朔夜と親しくはない。果敢かかんに話しかけていたのは怜くらいのものだが、彼は別に朔夜と仲良くしたいとかそういう理由ではなく、きれいなものが好きなだけだ。

「コノ隊長か朔に聞いてみたら?」

 怜の言うことはもっともではある。けれどそれにいい考えだとは賛同できない。

「……それ、教えてもらえると思うか?」

 隊長は教えてくれなさそうだし、朔夜も答えてくれなさそうだ。

「教えてもらえないに一票!」

 梓の手が挙がる。

「僕も、教えていただけないと思います」

 彬良もおずおずと手を挙げた。

「はーい、言ってみたけどぼくも無理だと思うー」

 怜も元気よく手を挙げた。

「駄目じゃん!」

 結局満場一致で「教えてもらえない」という結論が出ただけで、思わず幸太は三度目となるが机に突っ伏した。

 桂男は討伐された。幸太は病院に運んでもらえた。

 それが事実であるのでそれでいいと言ってしまえないのは、釈然しゃくぜんとしないからだ。何せ隊長に報告するための前提条件となる「朔夜による桂男の討伐」という部分が、どうしても幸太は信じられない。

 あの日、何があったのか。どんな会話をしたのか。思い出せない。それのせいで、朔夜を信用できないでいるのかもしれない。

「あ、幸太ほら! 雪だよ雪!」

「本当ですね。道理で寒いわけです」

 窓から外が見えている怜と彬良が声をあげた。怜は椅子から立ち上がり、窓のところへと駆け寄っていく。それにつられて幸太も窓を見てみれば、窓の外でちらちらと白いものが舞っていた。

「あれ、お客さんだ」

 怜が窓の外を見ながらそんなことを言う。それを疑う必要もないので、幸太は立ち上がって事務室の扉を開けた。

 軍服を着た女性だった。とはいえ色が黄土色なので正規の軍人ではなく、軍に所属する準軍人の事務員だ。手に書類を入れる封筒を持っているところからして、誰かの手続き関係だろうか。幸太の手続きは終わったはずなのだが、何か不備でもあったのか。

 女性は扉が開いて驚いたようではあったが、すぐに表情を整える。

「こちらに古野村このむら隊長はお戻りですか?」

「いえ、戻っていませんが。隊長にご用でしたか?」

「ええ。こちらの書類をお届けにあがりました」

 女性はしばし考え込んでいるようだったが、ややあってから再び口を開く。

「戻られたら、お渡ししていただいてよろしいでしょうか」

「分かりました。何の書類ですか?」

片桐かたぎり少佐の異動手続きが完了しましたので、その書類です。終了しましたので確認して保管をお願いしますとお伝えしてください」

 女性から封筒は、受け取った。彼女が一礼して去っていくのを見送るのも、問題なかった。

 ちらちらと雪が降っている。あまり水分を含んでいない、さらさらとした雪だ。これは一晩降ると明日には積もっているかもしれない。

 などと現実逃避をしてみても、手の中にある封筒は消えてしまったりはしない。

「ねー、なんだったー? 事務の人だよね」

「あ、うん」

 怜たちになんと言えばいいのだろう。うまい言い回しなど思い浮かばない。

「朔夜の、異動手続き完了書類、だってさ」

「は?」

 怜の反応は当然だ。梓や彬良も唖然あぜんとしている様子で、彬良などぽかんと口を開けている。幸太も意味がわからない。

 手続きをしたということは、隊長はそれを知っていた。上からの命令だったのか朔夜の希望だったのか分からないが、とにかく朔夜は墨焔からいなくなる。

「どこに異動?」

「さあ……聞いてない」

「そこは聞いてよ!」

 そんなことを言われても、幸太はそこまで気が回らなかった。怜ならその場で聞いたかもしれないが、幸太にそれはできなかった。

 聞いても守秘義務があれば答えてはもらえない。こっそり封筒の中身を見るという手段もあるが、中身に隊長格以外見てはならない書類が含まれていた場合問題がある。

 何だった。あの日、朔夜は何といった。一年前の、今日。

 雪は変わらずに降っていて、外はとても静かだった。事務室内も誰も声は発さなかったが、怜が苛々いらいらと机を指先で叩く音は響いていた。

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