5.水に沈んだ女の名前

 朔夜さくやの異動が本人の望んだものだったのか、それとも上からの命令だったのかはさておいて、あれからりょうの機嫌は最悪で、彬良あきらなどかわいそうなくらい八つ当たりをされていた。

 けれどそれにやめろなどと口を出せば、今度はその八つ当たりの矛先が幸太こうたに向く。したがって、幸太は心の中で彬良に謝罪を送るだけにしている。

 図書情報館にいても煮詰まっていくだけだ。だから逃げるように外に出て、けれどとんと情報はなく徒労に終わる日々が続いた。

 今日も今日とて芙蓉ふよう川の川沿いを歩いていく。何事もないとなると、これはただの川べりの散歩だ。

「はー……今日も無駄足かあ」

 ため息しか出てこないのも仕方がない。こう連日空振りでは、どうしていいのか解決策すら出てこない。

 いくら何でも収穫がなさ過ぎて、幸太は肩を落とす。鬼の存在すら疑いたくなるのに、幸太のウエストポーチの中には未だ鬼の腕がある。

 幸太が入院していた病院に近い橋の上、芙蓉川は今日も滔々とうとうと水をたたえていた。この水面が泡立って、そして鬼が現れた。それは間違いないはずなのに、もう自信も持てない。

「あっれー? 高槻たかつき先輩がこんなことにいるー。サボりですかぁー?」

 えらく間延びした声に、顔を上げる。

工藤くどう

「はーいー。高槻先輩のかわいい後輩たる、工藤風香ふうかちゃんですぅー」

 あまりに呑気な声と口調に、今度は別の脱力感が幸太を襲う。

粂寺くめでら中条なかじょうはどうした。だいたいいつも一緒にいるだろ、石鎚いしづち三人娘」

春奈はるなちゃんは後で来ますよぉー。彩寧あやねちゃんはー、外回りなんかするわけないじゃないですかー」

 風香が「ふふん」と胸を張る。こういうと難であるし本人に言うつもりもないことだが、張ったところで彼女の胸はない。見事なまでに真っ平らだ。

 彼女の着ている軍服の色は青紫、技術開発部――通称『石鎚』の色だ。

 見た目だけなら溌剌はつらつとした美少女かもしれないのだが、中身は何とも残念だということを幸太は嫌というほど知っている。頭の上にはどうにも無骨な印象を拭えないゴーグルを載せており、あれはおそらく彼女の発明品だろう。

「先輩こそー、何で一人なんですー? 中嶌なかじま先輩とかー、三原みはら君とかー、鵜殿うどの君はー? あ、あともう一人無駄に美形な人がいましたねー。横に並びたくない感じのー」

 それは朔夜さくやのことだろうか。

 朔夜は確かに人形のようで、世の女性からするとそういう評価になるのかもしれない。

「情報収集だけなら、俺らも組まずに動いたりする」

「へぇー。戦闘職の人っていつも二人組じゃないんですねぇー」

 新事実発見などと言っているが、別に秘している話ではない。

 確実に荒事があると分かっている場合や治安維持部隊などは二人組で行動するが、墨焔すみほむらはそうとは限らない。必要があれば単独でも行動するし、三人になることもある。

「で、先輩はー、サボりなんですかぁー?」

「違うに決まってるだろ! 仕事中だ!」

「それにしてはー、川を眺めて黄昏たそがれてたじゃないですかぁー」

 風香にはそう見えていたらしい。確かに川面かわもを眺めて肩を落としていたのは事実なので、それも致し方ないことではあるか。

「煮詰まってるんだよ」

「ほえー、そうなんですかぁー」

 風香はそれっきり興味をなくしたらしい。彼女は川べりに並んだ魔力灯まりょくとうを指差して、最新式に取り換えたばかりなのだと言い出した。

「お前な! そこは『何があったんですか』とか聞けよ! 分かってたけど! この魔道具オタク!」

「分かってたならいいじゃないですかぁー。じゃあ一応聞きますけどー、何があったんですかー?」

 一応聞いてはくれるらしいが、それはそれで腹が立つ。

 風香がそういう人間だということはよくよく分かっていたのに、自分は何を言っているのか。どうも本当に煮詰まっているらしい、頭が回っていないのだ。

「鬼が見つからない」

「鬼ですかぁー」

「退院の日に遭遇そうぐうして、腕だけ回収した。一ヶ月経っても目撃情報すらない」

 言っていて、段々と声が小さくなっていく。

 腕はある。遭遇そうぐうしたことも嘘ではない。だというのにあるはずのものが煙のように消えていった。

「川から、出てきたんだよ」

「へぇー、川から」

「それでまた、川に戻っていった」

 あれは、女だった。女の鬼、おそらくは人間が異形に変じたもの。

 外から入ってくるものも数多いるが、人間が異形に変じる事例も多数ある。それは秀真ほつまというよりは、近場の玉垣内たまかきうちに伝わる話ではあるが。

「川から出てきたならー、川にいたんですかねぇー?」

「川に、いた?」

 風香の言葉を、聞き返す。

「川から出てきたならー、まず川に入らないといけなくないですかぁー?」

「川に、入らないといけない……」

 あれは人間から変じたもの、そしてそれはどこから来たのか。

 最初から川の中にいたわけではなく、川に入って、そして。

 鬼に変じてから川に入ったのか、それとも人間だった頃に川へ入ったのか。あの鬼は何といっていた。誰かを探して、そして――と。

入水じゅすい自殺か!」

 人間が異形に変じるとき、それは何らかの強い感情がある。憎悪か、怨嗟えんさか、悲嘆ひたんか、そういった強すぎる負の感情に支配された人間が、異形に変じる。

 女は誰かを殺してしまったのか。それとも誰かが殺されて、それをはかなんで自殺したのか。

「まさかお前の一言で道が開けることがあるなんてなあ……」

 しみじみと言ってしまったが、風香は特に気にした様子もない。

「よくわからないですけどー、お役に立てて何よりですぅー?」

「そうだなあ、助かった。ありがとう」

 こうなればとにかく、入水自殺をした女がいないかを調べるべきだろう。もしそこから誰を探しているのか、何があったのかが分かれば、あの鬼をおびき出せるかもしれない。

 それでも出てこなければあの鬼は消えたものとしてもいいのかもしれないが、幸太のところにまだ腕が存在している以上それはないはずだ。

 風香と別れて、先を急ぐ。行く先は、決まった。


  ※  ※  ※


 治安維持部――通称『警邏けいら』の資料保管庫は、手続きさえしていれば軍属ならば入ることができる。もちろん機密とされているものはそれなりの階級が必要ではあるが、ある程度の事件の概要や自殺者の概要くらいは、軍属ならば誰でも見られる。

 幸太は風香と別れて早急にこの保管庫を目指し、手続きを終えた。何人か保管庫で警邏けいらの人間が資料を見ているのに混じって、幸太はここ数年の自殺者の記録を手にする。そのまま近くにあった机のところに腰かけて、ぱらぱらと記録をめくった。

 自殺者の年齢、性別、経歴、自殺の方法、発見場所――とにかくそこから、あの鬼に該当する女性を探す。性別は女、年齢はよく分からないが年老いてはいなかった。方法が入水かどうかは確定ではないが、発見されている場所は芙蓉ふよう川で間違いない。

 ただ、その資料を手にして考え込む。果たして本当に、そうなのか。

「遺体……見つかってるか?」

 ぼそりと小さな声でつぶやいた。

 あれは異形に変じた人間だが、肉体があったように思う。魂だけになっていれば濡れたりはしないし、ましてや腕が残ったりはしない。血かどうか定かではないどす黒い液体をまき散らし腕を千切り捨てたあの鬼は、魂ではないだろう。

 ということは、川に肉体が残っていたということだ。一度死んでいながらも、強い感情によって異形に変じた。あるいは、異形に変じたか。

 となると自殺者だけを当たっても辿り着かないか。

 一旦記録を閉じて、立ち上がる。それならばもう一つ、見ておくべき資料がある。

 保管庫の棚をあたり、行方不明者の記録を手にした。先ほどまでいた机に戻って腰かけ、今度はそれをめくっていく。

 秀真で行方不明になる者は、海が多い。しかし鬼は川に現れたのだから、海へ出て、あるいは海へ行くと言って行方不明になったものは除外できる。

「若い、女性……」

 指で記録を辿り、ある一か所で指が止まる。

「自殺の可能性あり」

 行方不明になったのは、二年前の九月。当時の年齢は二十二、性別は女性、髪は黒。

「行方不明になる一年前から食べ物をほとんと受け付けず、せ細った……?」

 あの鬼は、痩せて枯れ枝のようだった。ぼさぼさの黒髪、落ち窪みながらも爛々と輝くぎょろりとした瞳。

篠ノ井しののいかり……篠ノ井家って、貴族、だよなあ」

 篠ノ井家といえば、議会でも何度も議長を務めているほどの家だ。その家のいわばお嬢様がせ細って行方不明、となれば大事件だろう。

 だというのに、幸太にそれを聞いた覚えがない。家の醜聞として篠ノ井家が隠させたということもあり得るが、どうだろう。

 それにしても、なんだってそんな家のお嬢様がそうなるに至ったのか。あの鬼がこの女性であるという証拠はないが、その可能性は限りなく高いように思える。

「経歴、は……」

 篠ノ井家の三女。四歳から六歳の幼等学府、七歳から十歳の初等学府、十一歳から十四歳の中等学府、十五歳から十七歳の高等学府、ここまでは秀真ほつまの人間ならば誰しもが通過していくものだ。そして最高学府には、彼女は進んでいない。

 ありきたりな経歴だ。十八歳から二十二歳までの最高学府は、そもそも通う人間が三割程度で数が少ない。

「先代アメミコトの、婚約者」

 思わず、文字を辿っていた指が止まった。

 先代アメミコトは、三年前に亡くなっている。異形に殺されたという速報、そして病死であったという次報。彼女が食べ物を受け付けなくなったのが、三年前。

「あの方、は……先代アメミコト様、か?」

 そうであるのならば、辻褄つじつまは合う。彼女が異形となり先代アメミコトを殺したのか、それとも本当に病死だったのか、あるいは――考えたくはないが、実際には誰かが殺したのか。それは分からないが、その先代アメミコトの死によって彼女が痩せ細り行方不明になり、そして自殺していたのであれば。

因果いんがは、めぐりあひたり」

 どこかでそんな声がして、けれどもその声は幸太の耳には届かなかった。

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