3.影は密やかに
軍本部で手続きをすませて、
隊長がいつも忙しそうにしていてどこにいるか分からないのは常のことだが、こんな時にと思わず肩を落としてしまう。
すれ違う軍人たちはそれぞれ軍服の色で所属を、上着の胸ポケットについた階級章で階級を表す。その相手の名前を知らなくても所属と階級は見ただけで分かるのだから、実に効率的だ。
「幸太! よかった、まだ出とらんかった」
本部の入り口付近で聞き覚えのある声に呼び止められ、幸太は足を止めた。
振り返れば、見知った顔がある。
「
丸顔の彼女は、黒い双眸もやはり丸い。太っているわけではないが、全体的に丸いというか、あまり人には警戒心を抱かせない容姿だ。
「何だ、
「幸太がいるの見えたから出てきてあげただけやで」
「退院おめでとさん。仕事の資料と世間話とあるんやけど、どっちから聞きたい?」
警戒心を抱かせない容姿とは裏腹に、彼女は食えない笑みを浮かべる。相手をからかうことに全力というべきか、親しければ親しいほどにこういった一面を見せてくる。普段は実直ですとでも言いたげな顔をして、事実よく知らない相手にはそういう風に見せているくせにだから、本当に
真紀はひらひらと手にした大判の封筒を振っている。
「世間話からにする……」
考えてから、そう答えた。とりあえず世間話をして仕事の話とすれば、延々真紀にからかわれ続けるというのは避けられる。
「なるほどそっちがお好み? まあいっか」
結局はにやりと笑われたので、どちらを先にしようとも結果は変わらなかったのかもしれない。
「別に大した話やないんやけど。怪異かもっていう噂程度やし」
それは世間話というより、結果として幸太の仕事につながる話ではないのだろうか。それとも迅影が調査した結果、墨焔に調査命令が出るほどのものではなかったということなのか。
「歴史民俗資料館に幽霊が出るんやと。何人か見たとかで噂になっとる」
「幽霊? 立派な怪異だろ、それ。なんでうちに上がってきてないんだよ」
先程本部で見た、現在の命令一覧を思い返す。きっちりすべて記憶したから断言できるが、そんな話は載っていなかった。
「歴史民俗資料館の職員はそんなの知らないの一点張りやでな」
「はあ? どうせ頭の固いジジイ共だろそいつら」
これはまったくの偏見なのだが、思わず口をついて出てしまった。
歴史民俗資料館なんていう、秀真では
「別にそういうわけでもないんやけど……そもそも幸太、それうちの父の悪口?」
「え。あ……悪い」
口をついて出た言葉は戻らないが、真紀の言葉で彼女の父親の勤め先を思い出す。
「まあ、ええけど。面倒なのは事実やし? おかげで迅影でも調べられてないんよ」
「こっそり調べろよそんなの……」
「やってもええけど、うちの隊長怖いんやもん」
迅影の隊長の顔を思い出す。いつでも笑顔を浮かべている、線の細い男性だ。いつでも笑顔というのは聞こえはいいかもしれないが、それはつまりまったく感情が見えないということでもある。
ただ、真紀の言う「怖い」というのが想像できない。
「父さんに聞いても知らんって言われたし、実際職員は知らんのかもやけど」
職員の「そんなの知らない」は真実なのかもしれない。
けれどそれならばなぜ、幽霊の噂などあるのか。幽霊が姿を見せる相手を選んでいるということがあるのならば、ありえるかもしれない。
幽霊は立派な『異形』だ。姿が見えるだけというと『怪異』というほどではないが、それでもいずれ何かしらの怪異を引き起こすかもしれない。
「今度の休みにでも行ってくるかな。まったく興味ないけど」
「興味ないのに行くのもどうかと思うんやけどねー。面白いのに」
この国には過去も未来もない。
その言葉に
真紀は父親の影響なのか歴史というものに興味があったようで、最高学府でもひっそりとあった歴史専攻の学課に所属していた。たしか、そこの教授は歴史民俗資料館の館長だったはずだ。
「まあ、ええわ。んじゃ世間話おしまい。こっちが資料」
「どうも」
ぽんと封筒を押し付けられる。それなりの厚みがあるということは、かなりの資料が入っているとみていいだろう。
「とりあえず今墨焔が追ってる怪異と異形のまとめ。目撃情報なんかも入っとるけど、墨焔の事務室の方が詳しいのあるかもしれんから」
「どうせこの後事務室行くし、確認して分からなければそっち当たるよ」
「ん、ならそうして」
ここで封筒を開くことはせず、ポーチにしまう。そういえば千切られた鬼の腕も入れっぱなしだったのだが、これはどうするべきだろう。一応本部に報告はしたが、それについては隊長と相談しろと言われただけだ。
動き出したりはしないよな、というのが幸太の目下の不安である。
「じゃ、病み上がりなんやし、あんま無理せんようにな」
ひらりと手を振って、真紀が踵を返す。
「え、そんだけ?」
思わずそんな言葉が出てしまった。慌てて口を手で押さえるが、出てしまった言葉が引っ込むはずもない。もうとっくに真紀の耳にも届いている。
「は?」
「ああ、いや。なんでもないなんでもないです」
からかわれなかったのが意外すぎただけだ。けれどそんなことを口にしようものなら、次に会ったときにもそれをネタにされる。
「そ、それじゃ! ありがとな!」
これ以上つつかれるのも困るので、幸太はとりあえず逃げ出すことにした。三十六計逃げるに
背後で真紀が笑っているような気がして、幸太は決して振り返らずにその場から立ち去った。
※ ※ ※
逃げるように去っていった幸太の背中を見送って、真紀は笑顔を消す。人をからかうのは好きだが、それでも今は仕事中だ。それでも普段なら多少の揶揄くらいはしただろうが、今は普段とはかなり状況が違っている。
「こんなんで良かったんですか、
本部の廊下を少し戻ったところで、気配を消して壁に
男はその名を、昂神
「うんうん、上出来。よくできました」
さらさらと黒髪が揺れている。この隊長は無駄に顔がいいと真紀は内心思っているが、だからといって特別何を思うでもない。時折外を歩いているとの女性が見惚れていることもあるくらいだが、まったく理解ができなかった。
壱葉の良いところなど、顔だけだ。そうでなければ迅影の隊長なんてできるわけがない。
「これで愛しの我が弟も兄が役に立つと分かってくれるだろうね」
「それはどうでしょうねえ……」
迅影の隊長がどうとか関係なく、壱葉にはものすごく残念な面がある。その最たるものがこの弟への行き過ぎた愛情だろう。
壱葉は弟が満面の笑みでお礼を言ってくれるとでも思っているのだろうか。真紀は弟の方もよく知っているからこそ、それは絶対にありえないと断言できるのに。彼は弟に夢でも見ているのだろうか。それとも弟が好き過ぎるあまりに幻覚でも見えているのか。
彼の弟は物心ついてからは一度たりとも、兄に満面の笑みでお礼を言ったことなどないはずである。弟本人に確認したのだから本当だ。
「しかし彼は本当に、すっかり忘れているみたいだね」
幸太の忘れていることというと、真紀にはいくつか心当たりがある。壱葉の言う「忘れている」は、そのうちのどれについてだろうか。
そんなことを考えていると、壱葉が声を上げて笑った。
「そうだねえ、だいたい全部かな」
「……心でも読めるんですか?」
「まさか。考え込んでいたから言ってみただけで、当てずっぽうだよ?」
それでも疑ってしまうのは、相手が壱葉だからだ。
有り得ないとは言い切れない。上司と部下という立場になって数年だが、とても真紀は壱葉のことをよく知っているとは言えない。言いたくもない。
「だいたいね、心なんて読めてしまったら……それは間違いなく異形だよ?」
だから自分は読めないと、そういうことなのだろうか。
「面白いよねえ」
本当に、性格が悪い。その面白いという言葉が何を示して言われているかが分かってしまうから、尚更にそう思う。
真紀とて性格が良いとは思わないが、それでも壱葉ほど悪くはないと自負しているし、客観的に判断されてもそうなるだろうだ。今度壱葉の愛してやまない弟にその辺りを判定してもらおうか。
「ところで大川君」
「なんでしょう」
じっと、壱葉の赤茶色の双眸が真紀を見ている。内心を見透かそうとするような、観察するかのような視線はいつも居心地が悪いし、気持ちが悪い。
「君は、どっちの味方なんだろうねえ」
「今のところはどっちでもないですよ。私、コウモリの予定なので」
にっこりと笑って、そう返す。そうすれば壱葉はとても愉快そうにしていた。
「面白い方の味方ですから」
壱葉相手に取り繕っても仕方がない。下手に取り繕う方が、逆に見透かされてしまう。
それなら最初から嘘偽りなく事実を言ってしまえばいい。それを壱葉も
「じゃあ、もう少し観察するんだね。でもお仕事はきっちりやってよ」
弟の味方をしろと、彼は言わない。
「あの子の味方が私だけになればいいのになあ」
「相変わらず狂ってますね、隊長」
そして、
愛してその幸せを願っているくせに、周囲すべてを
「何を今更。昂神なんて狂っているものの最たるものじゃないか」
「はいはい」
他の軍人が歩いてくる気配をとらえて、話をそこで終わらせる。これ以上ここで話していて、誰かに聞かれていい類の内容ではない。
「仕事はきちんとやりますから、ご心配なく」
「それならいいよ。君は優秀だからね」
裏切るなとも言われない。
壱葉の言葉は嘘ではないが、それでも「優秀」といいながらその人材を切り捨てることも
この人は、怖い。それを真紀は、よく知っていた。
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