2.沈みしは水の青き鬼

 幸太こうたが入院していた病室の窓からは、時計塔がよく見えた。中央区にいくつかある病院のうち最高学府に隣接する付属病院は、時計塔からそれほど遠くない。

 まさか既に総暦そうれき一五九四年になっているとは思わなかった。幸太としてはよく寝たという程度でしかなかったのだが、目を覚ました瞬間の看護師の唖然あぜんとした顔は忘れられない。

「うん、体のどこにも異常はないな」

 目の前で医師がひとりうなずいている。

「原因不明の昏睡こんすいだったが、とりあえず肉体的にも魔力回路的にも問題はない。筋力は落ちているかもしれないが、すぐに日常生活には戻れるよ」

 目を覚ましてみればあの割れそうな頭痛もなく、三日間の精密検査を経て晴れて幸太の退院は決まった。長らく眠ってはいたが幸太の体に流れる魔力は正常に機能してくれていたらしく、体は固まることもなく、動くことに支障はない。

 肉体と魔力回路に問題がないのならば、異常があるのは魂かもしれない。人間を構成するのは肉体であるはく、核となるこん、動力となる魔力だ。

 魂ともなれば、それは医師の範疇はんちゅうではない。

 あの日倒れたまま運び込まれたのか、幸太の私物は病室に一つもなかった。窓際には見舞いであろう花が飾られて、収納には綺麗になった軍服がかかっている。

「ご家族はいないということだし、自分で帰ってもらうことになるが……帰れるか?」

「問題ありません」

 母は幸太を産んですぐに亡くなったとかで、幸太を育てたのは父だった。その父も成人する直前に亡くなっている。

 そもそも父は貿易船に乗っていたし、学院も中等学府になってからは寮生活で年に数回しか顔をあわせていなかった。だから自分のことは自分でできるし、こんな殺風景にも慣れている。

 誰かが見舞いで花を持ってきてくれただけありがたい。

 病室を後にする医師に礼を述べてから、収納にあった白い長袖のシャツを着て、ボタンを止める。

「うわー、筋肉落ちたなあ。鍛え直しか……」

 これでも軍人として筋骨隆々とまではいかないものの、それなりに鍛えて筋肉もついていた。しかし一年にも及ぶ昏睡は残酷で、筋肉は衰え、それどころか痩せて一回りくらい小さくなってしまっている。

 スリッパを脱いで裸足になり、臙脂色のきっちりとプレスされたズボンを履く。黒いベルトを締めてみれば、今まで使っていて少々広がったベルトの穴よりも二つも内側の穴に通すことになった。その事実に少し落ち込む。

 靴下は黒、軍靴も黒。そして腰につけた収納用のウエストポーチも黒。ネクタイは暗い紫味のある赤。その上から臙脂色の軍服の上着を着てボタンを止めれば身支度は完了だ。

 軍服のポケットに手を入れ、中身を確認した。軍部の所属証、武器の所持許可証、転移施設の使用許可証、入れてあったその三枚は変わりなくポケットの中にあって安心する。これらの再発行は非常に面倒だ。

「お世話になりました、と」

 花はどうしたものかと思ったが、そのままにしておく。誰もいない病室に一礼をして、幸太は病室から出た。

 白くぼんやりとした魔道具の明かりが、薄暗い廊下を照らしている。最高学府の付属病院は見た目は二の次らしく、まるで白い箱のようだ。

 階段から降りると病院の中庭が見えた。その芝生の上には入院中だろう入院着の小さな子どもたちが集まり、看護師が本を見せながら話をしている。見た目からして五歳か六歳くらいの幼等学府の生徒だろう。

「いいですか? 悪いことをすると異形がやってきてぱくっと食べられてしまいます」

 そんな看護師の声が聞こえてきた。まったく、都合の良い使い方だ。

 異形などいないものとするのに、怪異などなかったことにするのに、こうして『異形』というものを便利に使うのだから矛盾している。

 風見鶏だってそうで、先代のアメミコトの死も「異形に殺された」などと速報で発表したのだ。怪異か怨嗟えんさか、なんていう見出しをつけて。軍部の正式な広報部はそんな風に書くくせに、次の日には「病死だった」などと書く。

 そのちぐはぐな印象を受ける情報たちを、秀真ほつまの人はどう思うのだろう。

 まるで、異形を忘れさせないためにしているかのようだ。異形も怪異もあるかもしれないと、人に恐怖をさせているようでもある。なんだかそれは、とても奇妙な話だ。

 退院の見送りもなく、病院を出る。中庭に散歩には出たが、幸太の体感としては三日ぶり、実際にはそれ以上ぶりの外の空気だ。ぐい、と腕を上に伸ばして息を吸い、外の空気を堪能たんのうする。

 少し散歩をしたい気分で、芙蓉ふよう川の川沿いまで行って、少し遠い転移施設まで歩くことにした。

 軍服が厚手とはいえ、やはり一月半ばは肌寒い。すれ違う親子連れやどこかへ急ぐ人たちも、防寒着を着込んで白い息を吐き出している。幸太もやはり白い息を吐いて、両手をすりあわせた。首をすくめるようにして歩くと、ほんの少し首が暖かくなる。

 芙蓉川の川沿いには、枝垂柳しだりやなぎが何本も植えられている。枝垂柳しだりやなぎはその枝の先を川面に垂らし、流れる川に遊ばれるままになっている。

「……あ、れ?」

 ぞくりと、悪寒がした。

 肌寒さとは異なる、別の寒さ。じわじわと足元から這い上がってくるような、ひやりとした手で足を掴まれているような、そんな感覚。

 足を止めて、川面をじっと見る。ゆらゆら、ゆらゆらと水面が揺れて、枝垂柳しだりやなぎが遊ばれる。

 水辺というのは、異形が多い。水だとか鏡だとか、そういったには、隠れている異形がよく映る。

 気付けば、人通りもほとんどない。

 こぽりという微かな音を、幸太の耳が拾った。目を凝らして水面を見れば、ある一箇所に細かな泡が寄り集まって波を立てている。

 怪異の始まりか。あれは異形か。体は動くが、筋力の落ちたこの体で以前と同じように異形を相手にできるのか。魔力で強化をしたとてどれほどのものになるだろう。

 けれどもここで見なかったふりをすることはできない。この臙脂色の軍服は墨焔の一員である印。異形を滅ぼして人の国を守るために戦う軍人だ。

 ウエストポーチの中に手を入れる。収納用の魔術を込めた魔道具であるポーチの中はかなり広く、その中から幸太の武器である槍を掴んだ。ずるりと槍をウエストポーチから引き出して右手に持ち、とん、と石突いしづきで舗装された石畳を突く。

 まず見えたのは、真っ白でやせ細った手のひら。それから枯れた枝のようになった腕。ざばりと川面から這いずり出したのはぼさぼさの長い黒髪と、落ちくぼみながらも爛々とした光を放つ血走った双眸。死装束のような真っ白な着物に白い鉢巻をして、その額の左右からはねじれた角が天へと突き出す。

 女だ、とは思う。けれどもあれは、人間ではない。

「異形か……!」

 幸太の声は女に聞こえているか。

 女は苦しげに口を開く。血のように赤い唇から覗いた下の歯に、鋭く尖った犬歯があった。その犬歯は女の唇をも傷つけ、どす黒い色をした血液に似た液体が顎を滑り落ちていく。

 あれは、逃がしてはいけない。本能的にそう悟る。あれは間違いなく、怪異を撒き散らす。

「……様。ど、こ……ね、え……」

 がさがさに掠れた声がする。

「ね、え」

 爛々と輝く双眸が、幸太を見た。血のように赤い唇が吊り上がり、にんまりと笑う。目は見開かれ、唇は吊り上がり、ぼさぼさの髪を振り乱し、女が川面から這い上がる。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と水が落ちる音がする。ひたひたと女は裸足で歩き、その道筋がナメクジが這ったあとのように太陽に照らされて光っている。

「あの、方、は……ど、こ……?」

「お前を先へは行かせない。ここで、滅べ」

「どこ……? ど、こへ……あ。ああ、あああああ!」

 髪を振り乱して女が叫ぶ。先程までひたひたと二足歩行をしていたのに、突然獣のように手足を使って四足で駆け出した。

「ちっ……!」

 かぱりと開いた口が、幸太の首を狙う。その牙を槍の柄で受け止め、ぎりぎりと押し合いになる。一体この枯れ枝のようになった女のどこにそんな力があるのか、それとも幸太の腕力が落ちすぎているのか、その攻防にすぐに腕がしびれ出す。

 それでも何とか押し返し、女がたたらを踏む。その隙を逃さずに押しのけて槍を取り戻し、穂先を女の喉に向かって突き出した。女は犬のように飛び退り、幸太から距離を取る。

「いち、に、さん、よん、ご!」

 くるりと槍を右手だけに持ち直し、左手の手のひらを上空へと向ける。数を一つ数えるごとに炎球が生まれて、幸太の周りをくるくると回る。

「我が槍に宿れ、火炎槍!」

 槍を穂先が女に向くように、両手で構え直す。くるくると回っていた炎球は槍の穂先へと集まり、ごうごうと高密度の炎が槍の先で燃え始める。

 ふー、ふー、と女が興奮した犬のように声を上げる。あれは元々人間だったのかもしれないが、異形となってしまえば獣と同じか。誰かを探しているようだが、それを叶えてやる義理はない。

 再び女が駆けてくる。白い装束のすそがはだけて真っ白な足が見えるのも構わずに、獲物を狙う獣のようにしなやかに。その動きにあわせて槍を突けば、ぎゃ、という潰れた声がした。

 ぼたぼたとどす黒い液体が流れている。女は意味が分からないとでもいう顔をして、自分の右腕を押さえている。喉を狙ったつもりだったが、どうも狙いが外れたらしい。

「どう、して! どうし、て、邪魔を!」

 女の右腕は焼け焦げて黒ずんでいた。血の色をした涙を流して、女が喚く。

「あの、方、を……」

 ぼたぼた、ぼたぼた。

「あの、か、た、を……ころ、し、た……!」

 女はだらりと垂れて意味を成さなくなった自らの右腕を引きちぎる。ぶちりという肉の千切れる音と共に、どす黒い液体が飛ぶ。その腕を投げ捨てて、なおも女は幸太を見る。

 爛々と輝く双眸に宿ったのは、紛れもない憎悪。

「沈みしは水の青き鬼。なんじ芙蓉ふよう川瀬かわせ蛍火ほたるび

 突然、謡う声が聞こえた。滔々とうとうと流れたそのうらに、ぴたりと女が動きを止める。

「待て!」

 くるりと女が踵を返した。腕には見向きもせずに、二本の足で川へと駆ける。

因果いんがは、めぐりあひたり」

 ふつりと、謡が途切れた。ばしゃりと音がして、女が川へと飛び込んだ。幸太も駆けてその背を追ったが、すでに女の姿はない。ただ川岸にどす黒い液体と赤い涙が点々と残り、千切り捨てられた腕だけが転がっている。

 川面の一部が黒くにじみ、それはすぐに消えてしまった。

 謡はもう、聞こえない。女はあの謡で動きを止めて、そして川へと戻っていった。

「逃がした……!」

 あれは、危険だ。きっとまたこの川面から現れて、怪異となる。ならばそうそうに討ち、人々に害が及ばないようにしなければならない。それが幸太たちの役割だ。

 転がっていた腕を拾い上げ、ウエストポーチに放り込む。槍も同じように、ポーチにしまった。

「鬼だ……」

 ねじれて天をつく角、唇から突き出した牙。

 人間の女が変じた、鬼。

 とにかく早急に持ち帰り、仕事をしなければならない。そうして幸太はどくどくと早鐘をうつ心臓のまま、転移施設へと足を早めた。

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