1.新月の桂男

 夢の中で、「これは夢だ」と自覚する瞬間がある。この日の夢もそうで、そこに立った瞬間に、これは夢なのだと自覚した。

 足元も周囲も真っ暗なのに、目の前の一部分だけが丸く明るい。明るいそこには花が咲いていて、それを踏まないように誰かが立っていた。

 その誰かは後ろを向いていて、その向こうには真っ白な墓標がひとつ。

 茎は地面を這い、上部だけが斜めに上向いている。針葉樹の葉に似た葉がぐるりと上向いた茎の周りに密集し、その先にはいくつかの小さな花がついている。花びらは桜色で、がくは紅紫色。横を向いたり下を向いたりしている花は丸くて先だけが開いた形をしており、小さな鐘のようだった。

「それ花は斜脚しゃぎゃく暖風だんぷうひらけて。おなじく暮春ぼしゅんの風に散り」

 小さな背中だった。体格からすると青年のようではあるが、背は低い。

「月は東山とおざんより出でて早く西嶺せいれいかくれぬ。世上せじょお無常むじょおかくの如し」

 足を進めようとした。けれども足は動かなかった。

因果いんが車輪しゃりんめぐるが如く。因果応報、その身に返れ」

 足元から、焔が燃え広がる。その焔は黒く、黒く――まるで、墨をこぼして真っ白な紙を汚していくかのようだった。小さな可憐な花を舐めるように呑み込んで、焔は燃える。

 燃える。燃えていく。腐っていく。

 突然上空も明るくなり、ぐるぐると空に向かって球体が円を描きながら昇っていく。けれどもそれは唐突に行き場を失い、ぼとりと落ちる。そうしてまた昇って、落ちて、その繰り返し。

「――――」

 声は、出なかった。

 出なかった声の代わりに、ごうと黒い焔が燃え上がる。淡い桜色の花が焼ける。焼けて、焼けて、焼けて。そして腐って、消えていく。

 ああ、ひどいにおいがする。夢の中なのに、吐きそうなほどにひどい腐敗のにおいがする。

「思い出さなくていい。その方がきっと、しあわせだ」

 小さな背中が振り返る。けれどその顔は真っ黒に塗りつぶされていて、何も分からない。

 黒くのっぺりとした顔は、まるでそこだけぽっかりと穴が空いているようだった。

「だってお前が、そう願ったのだから」

 その人もまた、足元から焔に呑み込まれていく。焼けているのに、腐っていくのに、悲鳴を上げることもなく、ただそこに佇んでいた。

「そうだろう?」

 何を忘れているのだろうか。何を、願ったのだろうか。苦しくて、苦しくて、さみしくて。それから、それからなんだっただろう。

 ああ、そうだ。それから。

 何も、聴きたくなくて。

 もう言葉も聞こえない。すべては黒い焔に呑まれて消えてしまった。墓標も、花も、人も、なにもかもすべて。取り残されて、真っ暗だ。

 もう何も、聞こえない。もう何も、聴こえない。この静寂を、きっと、願った。


  ※  ※  ※


 この国に過去も未来もない。あるのは脈々と続く現在だけだ。それがこの秀真ほつまという国を作り上げた初代アメミコトの遺した言葉だという。

 真っ白な砂浜と明確な季節のあるこの小さな島国は、珊瑚さんごによって作り上げられた島である。ゆえに、あまり作物は育たない。

 生き残るすべを模索し、そして中継貿易拠点という道を選んだ。それはつまり、人も物も秀真には入り込むということ。

 それが良いものでも悪いものでも、入り込む。

 いつしか人ならざるものも入り込み、それは『異形』となった。

 異形も怪異も確かにそこにある。けれども人々はそれを忘れ、見ないふりをする。

 月明りに照らされた影の中にいる、それらもすべて。

「いやー、今日は明るいなあ」

 月は欠けたところもなく、皓々こうこうと辺りを照らしていた。異形というのは何も真っ暗なところに現れるばかりではなく、月の明るさに惹かれるものもいる。

 ただその大半に共通するのは、活動するのが夜というところか。

 高槻たかつき幸太こうたは前髪の赤い部分を摘まみ上げて、月を見上げた。明るい茶色の髪の中、額にかかる前髪の中央の一房だけが赤い。やけに目立つ色ではあるが、幸太はそれなりに気に入っている。

 今は夜、すれ違う人もいない。幸太の髪の色を見て驚くような人もいない。

「明るい方がやりやすいか。その辺お前はどう思う、朔夜?」

「別に、明るくても暗くても変わりませんが」

 片桐かたぎり朔夜さくやは顔色一つ変えず、素っ気ない答えを返した。

 風が吹き抜けて、彼の白銀の髪を揺らしていく。頭の高い位置括られた髪は長く、結っていても先が腰の下で揺れていた。

「お前はいつも通りだなぁ」

 白い肌に、無表情。作り物めいた赤い瞳。

 朔夜の容姿というのは職人が丹精込めて作った人形のようで、男性であるとは分かるものの、整いすぎていてぞっとする。

 月に照らされた軍服の色は、臙脂えんじ色。

「桂男ねえ……美男だっていうけどさ、俺は美女の方が嬉しい」

「そうですか」

 朔夜との会話は続かない。幸太が会話しようとしても、朔夜の方にはその気がない。

 美男かと、幸太は隣を歩く朔夜を盗み見る。すると即座に気付かれて、朔夜に一瞥いちべつを投げられた。けれど彼はそれに何を言うでもなく、すぐに視線を前へと戻す。

 桂男というのは、朔夜のような男なのだろうか。月に住むという桂男とと名のつく朔夜と、同じ月というものに関係があるのだと思うと、なんだか少し面白い。

「招かれると寿命が縮むって、どういうことだろうな」

玉垣内たまかきうちの神話では月の神が食物の神を殺したとされているそうですから、月は死に関わるんですよ」

 玉垣内というのは秀真の南、ほど近いところにある秀真より大きな島国の名だ。幸太は行ったことがないが、秀真の人間のように様々な色をしているわけではなく、黒や茶色の髪と目が多いらしいと聞く。

「桂男って玉垣内から流れてきたのか」

「どうでしょうね。西の朱華しゅか帝国ていこくにも似たような話があるようですけど」

「ふうん。じゃあそのどっちかか」

 朱華帝国は秀真の西にある大陸の国である。朱華帝国からの船は玉垣内に向かう途上でよく秀真に寄って補給を受けており、話に上ることも多い。

 異形とは人がそう信じるから、そのようになるのだという。朱華帝国なり玉垣内なりで信じられている桂男という存在が『招かれると寿命が縮む存在』ということになっているから、桂男に招かれると寿命が縮むのだ。

「見るたびに延びぬ年こそうたてけり、人のいのちを月はかかねど」

 歌うようにというには、平坦すぎた。いつだって感情が乗らない朔夜の声は、時折棒読みで言葉を発しているだけに思える。

 敬語を崩すこともなく他人行儀だから、尚更なのか。

「なんだそれ」

「玉垣内の桂男の伝承にある歌だそうです」

 珍しくよくしゃべるな、と幸太は思ってしまった。いつもは幸太が話しかけて一言二言返すだけで、朔夜は用件くらいしか自分から話すことがない。

 ぞっとするほどに整った朔夜の顔を見ていると、桂男という美男によって寿命が縮むというのも理解できるような気がした。美しいものは見ていて楽しいし目の保養になるが、美しすぎるものは畏怖の対象になる。

 朔夜は人間離れしすぎていて、どこか冷たいものを感じるのだ。

「桂男は自分から怪異を引き起こす異形ではありません」

 朔夜の足が止まる。皓々こうこうと輝く満月に照らされて、その姿はやはりぞっとするほどに美しい。人間らしい愛嬌あいきょうも欠点も表情もない、人形よりも人形らしい片桐朔夜という存在。

「招かれて応じれば寿命が縮みます。招きに応じなければ、ただ無害なだけです」

「それがどうかしたか? 異形に有害も無害もないだろ。先のアメミコト様だって、怪異で殺されたんだし」

「……夕霧ゆうぎり様を、異形が殺した?」

「は?」

 先代のアメミコトを朔夜が名前で呼んだ。それに思わず、幸太は声を発する。

 秀真の国民は基本的に、アメミコトの名前を呼ばない。君主は誰もがアメミコトという役職となり、その名前を知らない国民も多い。知っていたとしても畏れ多いから呼んではいけないと、幼い頃から言い聞かされる。

 アメミコトは遠い遠い存在だ。貴族らによる議会と、軍人らによる軍部と、その二つの向こう側にある存在で、決して身近なものではない。

 そして、朔夜が幸太の言ったことを知らないことも驚きだった。

「知らないのか? 風見鶏かざみどりが――広報部が出した速報に出てただろ? だから墨焔すみほむらの設立も急がれたんだし」

 特殊犯罪取締部、通称を墨焔。幸太と朔夜がまと臙脂えんじ色の軍服は、その部隊に属する証明だ。その役割は、異形を討つこと。

 先代のアメミコトは、三年前に亡くなった。ちょうど幸太が最高学府を卒業する年の春先で、よく覚えている。

 朔夜はそれきり黙りこくってしまって、歩き出すこともない。桂男を早々に探して仕事を切り上げたいというのが幸太の本音ではあるが、単独行動をするのも危険だと分かっているから朔夜を待つ。

「異形よりもっとおそろしいものが、あるんですよ」

 ぽつりと朔夜の呟きが夜にほどけてけていく。

「お前に?」

「俺は異形をおそろしいと思っていません。ですが、そういう意味ではなく」

 白銀の髪が風に揺られてゆらゆらと揺れる。一本一本が絹糸のような光沢を持つその髪の色は、どこか抜身の刃にも似ていた。

 幸太は刀を使わないが、朔夜は使う。朔夜が持っている刀の刃がちょうど、それと同じ色をしている気がする。

「この国に。あるいは、世界に」

 ごう、と風が吹き抜けた。朔夜を通り越して向こう側に見えたのは、桂男か。

「朔夜! 後ろに――」

「異形は、敵ですか。排除すべきものですか。高槻幸太」

 はじめて朔夜に名前を呼ばれた。そして、はじめてその無表情に感情を乗せるのを見た。

 けれどもそれは友好的なものではなく、どこまでも冷たく鋭い、刃のような敵意だった。

「異形は排除する。当たり前のことだろ」

 朔夜の言っている意味が分からない。この国は人の国、それを脅かすものは排除する。墨焔は異形から人々を守るためにあって、朔夜だってその一員だ。

「そうですか」

「いっ……あ、ぐっ……いた、い! いた……っ!」

 割れるような頭痛がした。突然の痛みに幸太は耐えきれず、頭を抱えてうずくまる。

 朔夜の背後には異形がいる。あれを排除しなければ、朔夜も幸太も危険にさらされる。ここで逃がせばもっと多くの人に被害が出る。

 この頭痛は異形による怪異なのだろうか、だとすると朔夜が平然としていることに説明がつかない。

 朔夜と異形が結託けったくして、幸太を罠にかけたのか。けれどそんなことをして何になる。そもそも異形なんてものは人間と意思疎通をしたとしても、いつか裏切るものだ。

「それなら、君は……」

 朔夜が何かを言っている。けれど痛みに邪魔をされて、その言葉が聴こえない。耳は聞こえているはずなのに、拾った音を脳まで届けてくれない。

 目眩めまいがする。だんだんと視界が狭くなって、ぐらりと体が傾いでいく。

 桂男。寿命を縮める。幸太はそれに招かれてしまったのか。このまま寿命を削り取られて、死んでしまうのか。

 最後に見えたのは、ぞっとするほどに美しい――。


 総暦そうれき一五九三年二月十六日。これが幸太の記憶にあった最後の日付だ。

 まさか次に目覚めた時に一年近い時が流れていようとは、幸太は思ってもいなかった。

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