第12話 さよならバイバイお別れを
キラキラ光る粉を散らした寝室の扉に耳を当てれば、バシャリと音を立てて魔法が溶け落ちた。
ルナの魔法が解けたのだ。
魔法がかけられていたために、部屋の中には何の音も聞こえてこなかったが、実に廊下はやかましい事になっていた。
「おい、魔女はどこだ」
「どこへ行った」
「消えた、消えたら困るぞ」
「やはりもっと魔法を使わなければ」
「もっと使わせなければ」
———ざわざわ、ガヤガヤ。
漏れ出す声は、どれもきっと僕に対しての言葉だろう。
扉を開けて、廊下に出れば、多くの目が僕を見た。
「ヒロ! ひろ! お前を心配してやっただろう、してやったんだ」
「早く魔法を使え! 使え!」
「今すぐ今すぐ今すぐ今だ」
「使え使え」
口々に罵る怒号が壁から次々投げかけられる。
それを横目に通り過ぎようとすると、一つ、よく通る高い声が鼓膜を揺さぶった。
立ち止まって声の主を見た。
「私たちを捨てるの?」
壁にかけられ大層な額縁に彩られた女性が淑(しと)やかに目を細めてこちらを見ている。
普段は“おはよう”“いい天気ね”としか言わない夫人が、甘やかな声で囁く。
頭が痛い。
イライラする。
「私たちを捨てるの?」
美しい黒髪の隙間からは大きなイヤリングが揺れている。
穏やかそうな美しい人は、まるで僕を愛おしげに見つめ、淑やかに話しかけるものだから『そんなことはしないよ大丈夫』なんて言ってしまいそうになる。
今すぐ言う事を聞いてしまいそうになる。
背後に、ルナの存在を感じる。
でも彼は、何も言わない。
きっと僕が引き返せば、「仕方ないね」なんて言うんだろう。
出会ってほんの少ししか時間は経っていない。
だけれど、そんな気がした。
「うん、さよならだよ」
そう言えば、みるみるうちに絵の中の女性は、恐ろしい形相へと変化していく。
水が抜けた花のように肌は枯れ始め、目は窪み、吊り上がった眉は眉間に多くの皺を作っていく。
しわくちゃになった女性の声は僕を罵る事に余念がない。いくつも飛び出す汚い罵声は、いつの間にか耳にすら入らなくなっていった。
絵の中から何かを叫び、決して絵からは出られない魔法のカケラたち。
「君の魔法のかけらを食って生き延びた魔女の
「うん、気にしてないさ」
そもそも、だ。
僕は全く気にしていない。
この女性はきっとお気に入りだったのだろうとそう思ってはいたけれど、結局誰なのか頭に残っていないのだから『誰だか分からないもの』に気を取られることはない。
ほんの少しも寂しくない事に何の罪悪感もない。
気持ちが少しも揺らがなかった。
次第に罵る事に夢中だったポスターや額に入れられた絵達は、口汚く罵詈雑言を撒き散らしたその口で、懇願を始めた。
僕のやろうとしている事を察したのかもしれない。
しかしそれも、距離が開くと何も聞こえなくなっていく。
「ルナ」
「なんだい、ヒロ」
「魔女じゃなくなったら、どうなるの?」
「そうだね。きっと君は僕の入れた珈琲に感動するかもしれないね」
「珈琲?」
「そう。魔法を使わないで珈琲を作るのはものすごく手間なんだ。でも毎回違う味になる。これは君も気に入るはずだよ」
「……うん、そうだね。きっとそうだ」
今回ばかりは、この遠回しな会話にイライラしなかった。
さほど長くもない廊下を歩くと、一つ扉が目の前に現れた。
リビングへ繋がる扉だ。
リビングに入れば、二羽の鶏が大人しく部屋の隅にうずくまり暖をとっているのが目に入った。
それから、部屋の真ん中へ視線を移動させれば、いまだ腹の綿を撒きながら、柵にしがみついたままのボチの姿があった。
もう腹は中身があちらこちらに飛び出してしまったせいでぺたんこになっている。
それでも柵にしがみつく姿は異常だ。
「ボチ」
声をかければ、ぴたりと体は固まったが、色のない瞳が僕を見る事はない。ただひたすらに打ちつけていたガラス玉の目が音を立てなくなっただけだ。
「さよなら」
「ヒロ、まほう、ヒロ」
「さよならボチ」
“あの手この手で魔法を使うように仕向けてくるよ”
ルナの言葉が頭の中で思い出される。
ボチの姿は可哀想だ。
か細い声。
痛みを感じるそぶり。
僕から溢れた魔法の欠片が、僕を操るためだけに用意した
心配するふりをして、僕が人からどんどん離れていくを望んでいた者達。
「さようなら」
最後にもう一度、別れの言葉を。
くたびれたぬいぐるみから目を離し、ルナを見る。
途端に発狂して、喚くボチの声が部屋に響き渡ったけれど、無視をした。激しく柵を揺すり、ガチャガチャと喚く鉄の擦れる音はただの雑音となって部屋の中で鳴り響く。
僕は本当に、色々な物を失ってしまったのだろう。その事に対して悲しいもなければ、嬉しいもない。
長く一緒にいたボチを置いて、僕はルナの手を取った。
さよならバイバイ、ボチ。
多分これが、『楽しかった』だね。
僕にはあまりわからないけれど。
最低な気分では無いはずだ。
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