第4話マホウホリック



 パチリと、夜明けと共に目が覚めた。

 数回瞬きをして、朝だと言うことを確認する。

 昨晩カーテンを閉め忘れたせいで、光が部屋に差し込んで明るくなったせいだと思う。


 ふと、窓の外を見た。


 昨夜の記憶が夢じゃない事を確認するためだ。

 確固たる決意で見たわけじゃなく、ただなんとなく、あれは夢だったのかそれとも現実だったのか気になっただけだった。


 ゴミの回収箱の近くに何かが転がっている。

 あそこは昨日の晩にクッキーを落っことした場所だったはずだ。

 目を凝らすが見えない。

 手探りでメガネを探す。窓から目を離す気になれなかった。


 どうしてだか焦る気持ちが、心拍数を上げて、バクバクと鼓膜の奥がうるさい。


「……はぁ、はぁ」


 パリパリして喉が張り付いてしまうせいで、荒い呼吸が出たり入ったりする。

 唾を飲み損ねて、また喉はカラカラだ。


 メガネがようやく手に触れて手早く目元に持っていけば、見たかった場所がよく見えるようになってくる。


 そこにあったのは、黒い塊と、砕けたクッキー。


 ゆっくりと立ち上がって、窓に近づく。

 冷たいガラスは少し濡れているようで、手のひらに水がくっついた。


 指を這わした部分だけ、キュッと音を立てて曇ってすりガラスの様になっていた場所がクリアになっていく。


 思わず息を呑んだ。


 そこにあったのは、黒い塊と、砕けたクッキー。

 黒いのはカラスで、砕けたクッキーはその口元で粉々に砕けて散らばっている。


 ああどうしよう。

 どうしよう。

 最低な気分だ。


 寒さは感じない。

 暑いとか寒いとかいつからか感じなくなっている。それなのに、は、と吐き出した息が、凍えそうなほどに冷えている気がした。




「おはよう」



「ヒッ……」

 突如部屋に響いたもたついた甲高い声に肩が跳ね上がった。


 キイ、と蝶番が軋む音がする。



「今日はさいていな気分じゃ、ない?」

「ぇ……ああ……うん、そう……だな……」

「よかった!」

「あの……あれ……外」

 ひっくり返って途切れ途切れで、情けない自分の声に口端がひくついた。

 それでも伝わったのか、ボチがゆっくりと窓の外を見る。

 ボチのビー玉の様な目に外の風景が映り込んだ。



「ああ」



 ボチはそれだけ口にすると、またゆっくりと僕の方へと向き直った。


「ちゃんと魔法つかえたね。よかったねぇ」



 無邪気な声が無機質なぬいぐるみから発せられる。ビー玉の様な瞳の中で濁った光が揺らめいた。


 気にしたことなど一度もなかったその不気味さに背中がふるりと震えた。

 寒いわけでもないのに、心臓がグンと冷えて、背筋がブルリと震えた。


 そんなはずないと頭で誤魔化すけれど、なんだか。


 なんだか


 ボチが怖い。


 瞬き一つしない表情の変わらないぬいぐるみからけたけた無邪気な声が漏れている。


 魔法が使えた?

 なんの魔法だったか思い出せない。

 よかった?

 魔法が効いて、カラスが死んでて、よかった?




 魔法が、怖い。





 魔法。

 この日初めて怖くなった。

 魔法が怖くなった。

 自分が怖くなった。

 死んでしまった生き物を見て悲しかった。

 寂しかった。

 でもちゃんと魔法が効いているとわかって安心をした。

 恐ろしいことに。

 安心した。

 喜びが優った。

 ちょっとだけ嬉しくて、唇が釣り上がるのがわかった。


 どうしてボチ……。

 僕は、どうして。


 ご飯をたべなくても。

 寝なくても。

 家から出なくても。

 何もならない。

 お腹も減らないし。

 体調だって変わらない。

 気がつけば、何年も経っていた。

 僕は15歳になっていた。

 僕は今15歳のはずだ。

 ……いや、もしかしてもっともっと歳をとっているかもしれない。

 記憶は当てにならない。


 急にこんなこと考え始めたから、いつもよりもずっとずっとイライラが募っていく。


 部屋の端に隠れる様にして置かれている小さな壁掛けの鏡。

 鏡に映る僕は変わり映えのしない少年で、いったい何年経ったのかもわからなかった。



 幸せを運ぶはずの魔法の本は、得体の知れないものになった気がした。


 自分がとても罪深い気がしてならなかった。

 魔法を使うと、まるで快楽が吹き出して何もかもが幸せになっていく。

 それが幸せなはずなのに。

 楽しいはずなのに。


 どうしてこんなに憂鬱なんだろう。

 喉に骨が刺さった様な。

 そこに刺さっているのに、触れることもできない。見ることも叶わない。取ってしまうことも不可能だ。


 魔法を使わないと最低の気分になっていく。

 だんだん重く苛々して、最低になっていくんだ。


 じゃあ魔法を早く使わないと。


 早く魔法を使ってこの憂鬱さを吹き飛ばさなきゃ。

 そう思えば思うほど、動悸がひどい。

 胸元を掴めば、服がぐしゃぐしゃになっていく。



「あー、くしゃくしゃだー」

「あ、う……うん……」


「よくないよ」と声をかけられて、パッと手を離す。

 服の皺を伸ばしながらうやむやな返事をした。


 目に映り込むものがどれもキラキラして、面白くて楽しいもののはずだったのに。今ではなんだか、おかしい気がする。


 そんな気がした。


 そんな気がしたんだ。


 ボチが僕を見る。


 ———ダダダダッ


「へ、うわっ」



 ———ガツン


 突然、ボチが走り出して、目の前にきた。

 最後に見たのは、ボチのビー玉の目に映る僕。そして、耳に残る鈍い音。

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