第2話 最高の気分


 廊下を歩けば、静かな石畳の廊下が長く続いている。長く住んでいるはずの我が家だというのに、どの部屋に何があったかまるで思い出せない。


 記憶の中に、薄らぼんやりと浮かび上がる光景は暖かいものだった気がするが、誰と何をした部屋なのか———それすらも思い出せない。


 絵やポスターが僕に向かって手を振ってくるのは毎日の事だ。時々気まぐれにどこかへ姿を消してしまうけれど、それは稀だ。


 稀だった気がする。

 ともあれそこまで覚えていないのだ。

 気にかけるほどではない。


 絵やポスターは気まぐれに廊下の壁に貼り付けられていると言うのに、一つだけ特別なものがあった。


 これは結局お気に入りというやつなんだろう。

 誰の?

 きっと僕のだ。

 そうに違いない。だってこの家には僕しか住んでいないのだから。ああ、いやボチや絵達も一緒だけど。


 壁にかけられ大層な額縁に彩られた女性がしとやかに目を細めて「おはよう」と言う。


 美しい黒髪の隙間からは大きなイヤリングが揺れている。穏やかそうな美しい人は、まるで僕を愛おしげに見つめるものだから、なんだかこの絵だけはお気に入りなのだ。


「おはよう、ご婦人」

 そう言えば、決まってこういうのだ。


 “いい天気ね”。


「いい天気ね」


 ほら。やっぱり。

 心の中で小さな悪態をつきながら、にこりと微笑んだ。


「そうだね」


 その声に幸せそうな笑みを浮かべるご婦人。

 何がいい天気なものか。外は雪が降っているし、彼女の位置からは窓は見えない。


 機械的な返事に落胆する。

 それでもなぜだかこの絵だけはお気に入りなのだ。




「さて、今日は何を作ろうかな」


 古びた大きな本を開くと、ぶわりと埃が舞うがそれよりも本の中身の方に興味が集中していてさほど気にはならない。

 鼻がむずむずとしたが、それだけだ。


 ペラリとページをめくると、いろんなレシピが載っている。


 これは魔法の本。


 呪文や儀式なんかは載っていない。いくつもレシピが並んでいる、不思議な本。

 この本を手にすると、不思議と安心した。なんでもできる無敵になれた気分だ。

 いやいや。事実、そうなのだ。


 僕は魔女だ。


 魔法が使える、魔女。

 女じゃないけど魔女だと言うらしい。変なの。


「うははは、やっぱり僕って天才なんだよな」

 古い本を持ち上げて、指を振る。

 気分が高揚していく。

 浮き上がったような不思議な感覚だ。


 指をくるくる空中に向かって回せば、銀のボウルの中でカチャカチャと泡立て器が回り始める。


 焼きたてのクッキーが空中で二つに割れて、小さなマグカップにポコポコと入っていく。


 重厚で古びた本には指の振り方、力の入れ方、そんなことが書かれている。


「やっぱり魔法は楽しいよ、すごいよこれは。最高だ」


「楽しそうだね」


「当たり前だろう! 魔法ってやっぱり最高なんだ」


「楽しいがいちばんだねぇ」


「だな! 魔法最高!」


 空中に浮いたボウルの中身がポワポワと宙を舞ってポンと弾けて花の形に変わると、花びらがボロボロと散って最終的に小さな青く丸い飴玉が完成した。それらは小さな瓶に数個ずつ、吸い込まれるように滑り込んでいく。


 だって最高の気分なんだ。


 魔法を使っていれば、何もかもが楽しくて、1日なんてあっという間に過ぎていく。


 想像通りのものが出来上がっていくのは楽しい。


 最高の気分だ。魔法を使えば使うほど、気持ちはスウっと楽になって、気分が晴れやかになっていく。ずっとこの時間が続けばいいのに。


 ずれたメガネを指先で上げて、瓶から溢れた飴玉をひょいと魔法で浮かび上がらせて手のひらに落っことした。


「この飴、ずっと舐めてても無くならないんだって。すごいよな」

「すごい、すごい! どんな味?」


 ボチに褒められて、得意げな気持ちになる。

 そうだ。僕にしか使えない、僕だけの魔法の本。

 僕にとって唯一誇れて、唯一楽しいもの。


「えーっとね」


 ポンと口に放り込む。

 コロリと舌の上で転がして、二度三度左右へ転がしてみるが、どうもおかしい。



「あ……あれ? 味が……しない」



 そんなはずない。

 きっと、これだけが。この一粒だけが失敗したんだろう。砂糖もしっかり入れ込んで、きっちり本の通りに作ったのだから。


 ゴミ箱から袋の端がはみ出ている、中身のなくなった砂糖の空袋を見やれば、それはやはり間違いなく砂糖が入っていた袋だった。


 口から吐き出した飴玉をその辺に転がるゴミ箱に捨てて、もう一つ手に取って口の中へ放り込む。


 ガラス玉のようなひんやりとした飴玉が舌を転がり歯にカツンとぶつかった。


「……はれ?」


 やはり味はしなかった。

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