第8話〈2〉
松永がナイフを自分の喉に突き刺そうとした瞬間、クロはコートを翻して飛び出した。
「一旦時を止め……」
ドン! と大きな音がした瞬間、何かに邪魔をされたように、つむじ風のような衝撃で吹っ飛ばされてしまった。松永のナイフが、キンと鋭い音を立てて床に落ちる。
「痛ってぇ! 何ぞっっ?!」
「クロさん!!」
優里は駆け寄って、クロの手を引っ張り起こす。
無数の鋭い刃物で切られたような傷ができているが、不思議と血は出ていないようだ。松永に憑いていた小鬼はさほど強くもない低級の妖だったか、今の衝撃で黒い霧となって消え飛んだかどこかに行ってしまったようだ。
(何かが邪魔をしてきた?! そんな風に見えたけど…)
つむじ風が来た方向を見ると、薄暗がりの中でもはっきりと殺気を放っている女の霊がそこに立っている。霊的な存在は屋上に来る間にもすれ違ったけれど、ここまでハッキリと解像度の高い霊は珍しい。
松永が、びっくりしたように女の霊を見て目を見開いた。
「美香子なのか?! 何でここに、てかお前たちは誰なん……」
異変に気付いた上杉雪子が、屋上に上がってきた。
「皆、大丈夫ですか!」
『誰モ彼ヲ殺サセナイ!!』
「!?!」
女の霊がそちらを向き手をかざす。風が巻き起こり、松永の方へ駆け寄ろうとする雪子を物凄い力で突き飛ばした。
「上杉さん!!」
「大丈夫です! これは
平気そうに振る舞うが、左足を深く切られて抑えている。あれでは歩くので精一杯だろう。
(ミカコって呼ばれた霊って、この男の人に危害を与えようとする者を邪魔しようとしてる?!)
優里は、女の霊が雪子の方に気を取られている隙に近寄ると、ポケットからお札を取り出すと動けないように額に貼り付けた。
「ごめんねっ、私ってあなたを止める事ぐらいしかできないんだけどさ、ちょっと大人しくしててもらえると助かるな〜、なんて」
『邪魔シナイデヨ……健太、鬼ニ取リ憑カレテル……死ンジャダメ……』
「もう鬼見たいなのは、どっか消えちゃったみたいですけど…」
松永はフラフラと立ち上がり、こちらを見た。
「美香子……そうか、もしかして逝ったのか。ちょっと待ってくれ… 早くしないと…」
松永は落ちているナイフを拾い、再び喉に突き付けようとした。
クロは素早く松永の手を掴み、制止する。
少し喉に先端が刺さり、血が滲んでいる。
「あんたらが誰か知らないけど何なんだよ! 美香子も邪魔しないでくれよ…」
「おい、このまま自分で死んじまったら地獄行き間違いないぜ?! 地獄はマジでヤベーとこなんだってよ、えっと今とにかく説明は割愛するが俺は死神だ。きみの魂を救う契約を持ちかけてやる。その健全な体の臓器を提供する契約を結んでくれたら地獄行きにならないよう処理してやるよ」
そう言うと、急ぎ契約同意書を取り出した。
「死神? そうか、あんたが死神か。俺も最後に運が巡ってきたのかな。それって移植先は選べるのか? まだ間に合うかもしれない。彼女に急いで僕の心臓をあげてほしいんだ」
「は? 何でそんな事知ってんだ」
「物の怪に取り憑かれて殺されろ、鬼でも手配してやるって言ってきた奴がいたのさ。運が良けりゃ、お前の願いを叶えてくれる死神が現れるってな」
「誰なんだよそれ……ってか移植先までは保証できないぜ…」
「頼む、この3階の病室に入院している彼女、真田美香子にだ、今ならまだ間に合うかもしれない……」
クロが手を止める。
最後の頼みだと縋る松永の訴えに耐えかね、雪子が横から助言をした。
「私が何とか、そう手配するわ」
「ありがとう、感謝する。彼女を頼みます……」
松永は、そう言うと静かにナイフを持つ手を下ろした。
同意書にサインをする。
光に包まれた松永を、クロは素早く首の動脈を刺した。
「では、良き来世を――」
雪子は同意書を受け取ると、負傷した足を庇いつつ下に待機していた医師に事の顛末を告げ、急いで松永は運び出されていった。
美香子と呼ばれた女の霊は力を失くし、小さくなってうなだれ今にも消滅しそうになっている。
ふと彼女を見ると、足元から白く光る長い糸のようなものがユラユラと階段の方に伸びている。
「あっ、まだちゃんと魂の糸が繋がってるぜ! 彼女はまだ生きてる! 生霊だったんだ。移植できる可能性は高いぞ」
「生霊って、えっと……」
「生きている人間の魂が、体の外に出ちゃって動いてる状態の霊魂の事さ」
なるほど。そうだった。優里は女の霊に話しかける。
「彼女さんですか、病室で動けなくても彼が心配だから、きっと魂だけ出てきちゃったんですよね。ごめんなさい、こんな事になって……」
女の霊は悲しい顔で微笑むと、扉の方へと消えていった。クロは神妙な面持ちで、そちらを見つめている。
「これで良かったのかなぁ……」
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