第8話〈1〉逢魔が時、病院の屋上

松永健太

二十九歳/会社員

洛東総合第一病院屋上/十八時五十分

原因:ナイフによる失血死

憑き物:低級の小鬼

状態:健康体

備考:失恋による心神喪失のダメージあり



「もう、お別れしたいの」


 彼女から告白があった。

 五年間、順調に僕たちは上手くいっていると思っていたのに。



 真田美香子とは、勤め先の最寄り駅、帰途に着く人々のごった返すホームで出会った。

 昔、俺は金銭関係を拗らせて、友人を裏切って逃げた事がある。今は酷く猛省している。何とかお詫びしたくて、とりあえず金が必要で。毎日必死で真面目に働いていた。

 会社はよくある中小企業の印刷会社の営業職。ブラックだとかつべこべ言っていられない、残業続きで死にそうで毎日多忙で疲れていた俺は、酔っ払いに押されて線路に落ちそうなところを咄嗟に引っ張って助けてくれたのが彼女だった。

 どうやら美香子も同じ会社に勤めていたようで、人事部にいるらしい。

 だから俺の名前と履歴書の写真だけは見たことがある気がするわ、と言っていた。


 彼女がいなかったら死んでいたかもしれない。

 さながら命の恩人だ。

 それがきっかけで、その後も何度か会社や駅で顔を見る事があり、何となく会話をするようになる。

 その後、お互い独身の俺たちは自然と付き合う事になった。彼女は実家暮らしだったけれど、よくお互いの家を行き来していた。

 彼女の誕生日、西木屋町にある高瀬川沿いのちょっといいレストランを予約した。

 そこで三十歳になる折に、プロポーズをしようとしていたのだが、切り出そうとした瞬時、あっさりバッサリお別れを言い渡されてしまったのだ。

 この流れでフラれるなんて、思ってもいない展開。

 鞄の中で待機していた指輪が悲しい。



 僕の部屋に置いてあった自分の荷物をまとめる彼女。

 さようなら。

 何があった?

 別の男がいた?


 僕は傷心のあまり、食事が喉を通らない日々を過ごす。

 無気力から会社も休みがちになった。

 随分依存していたのだな。

 それから少し経って、美香子が会社を辞めたらしいと人づてに聞かされた。

 おかしい、誰も訳を知らない。

 

 迷惑とは思ったが、思い切って実家に会いに行った。

 黙っててと言われたけれど、とご両親。

 娘は今、入院しているという。

 急いで向かった。



 洛東総合第一病院、三階の個室に美香子は入院していた。

 同意を得て、主治医の先生から話を聞く事が出来た。

 拡張型心筋症、いわゆる心臓の病気らしい。

 移植するにもドナーが見つからず、このままでは病で余命数ヶ月だと告げられたとの事だった。

 知られたくなかったから何も言わず別れたのに、と。

 全然知らずに俺は一体何を理解った気でいたんだろう……。

 何で言ってくれなかったんだ。

 彼女はずっと苦しんでいたのに。

 俺は呑気にプロポーズをしようとしていたなんて。



 それから毎日、何とか一秒でも一緒にいていたいと見舞いに通う。

 相当病状が良くないようだ。

 ああ、神様仏様、僕はどうなってもいいから助けて欲しい。

 だけどすでに意識が無く、静かに目を瞑って寝息を立てるだけの美香子の手を握った。

 医者が言うには、もう今晩……。

 眠っている彼女に、以前渡すはずだった指輪を左手薬指にそっとはめた。

 一人で死なせたくないな。どうせ君に助けられた命なんだ。

 あの世で会えたらごめんって謝るからさ、俺も一緒に死にたいよ。

 君がいない人生なんて――


 二人しかいない病室に、ふと何者かの気配を感じた。

 部屋を見渡すと、いつの間にか仄暗い黒い霧のようなものが渦巻き、中から声が聞こえる。何だこれ?!

 

『オ前ハドウナッテモイイト願ッタナ、ソノ女ガ助カル術ヲ教エテヤロウカ……』 


 不思議と怖さは感じなかった。

 彼女が助かるなら、神じゃなくったって鬼だって物の怪だって構わない。


「……そんな事が出来るのか?」

『アァ、運ガ良ケレバ……マズ、オマエニ取リ憑イテヤロウ……』





 上杉雪子の運転する軽自動車で、現場へ向かう。

 後部座席に座っている優里ゆりは、助手席のクロの方に身を乗り出した。


「その鬼籍帳、いつ契約者の名前が出てくるんですか?」

「色々かな、今みたいにすぐの場合もあるし犬の子の時みたいに一週間後の場合もある。契約候補者が発生したら、冥界からのお達しでここに記される訳だけど、俺らはそれを確認して指示に従うだけさ」

「ちなみに私ども役所の方にも同じものが支給されておりまして、今日は羽柴に代わって私が持っております」


 雪子は慎重に走らせながら、後ろの鞄の方にちらと目をやる。

 ほどなく三人は、現場の総合病院に到着した。





 鬼籍帳に載っていた総合病院屋上に出る扉の前にたどり着くと、上杉雪子は要件を然るべき救急隊員と医師に話を通し、階下に待機してくれている。


 病院という場所柄、人間の生死が行き来する故に昔から幽霊や生き霊、取り憑こうとする妖などが多く存在しやすいホットスポットなので優里は得意ではない。

 特に危害を加えるでもなく、寄ってくるわけでもなく、屋上に着くまでにぼんやりした霊のようなものと多数すれ違う度、ちょっと通してくださいねと呟きながら廊下と階段を通ってきた。


 自分がついてきたからとて、さほど力になれる事はないのだけれど。他人とはいえ色々な人生を見ていると様々で、普通に生きるって何なんだろうか。

 そもそも普通の人生なんてないわけで。

 ちょっと人より霊感があるだけ、それだけの事なのに何故自分なんてと思いつめて生きてきたんだろうと、優里は真面目に悩んでいたのが少しおかしくなってくる。



 そっと屋上への扉を開ける。飛び降りないよう周りは高いフェンスに覆われていて、ちょっとした屋上庭園がある。目を凝らして見たけれど、まだ誰もいないようだ。

 

「隅に隠れてよっか」


 クロは空調ダクトの影に身を潜めた。

 その背後に回った優里は、目の前のコートの裾をぎゅっと握る。


「ん?」

「クロさん、私この場所に来た事ある気がする……いつだっけ、めっちゃ小さい時……」

「屋上ってどこも似たようなもんじゃない? 俺は現場が病院ってたまにあるから何度も来てるけどさ」

「もしかしたら昔、お母さんが入院してたのってここだった、かも……」

「へぇ、他に何か思い出す事ある?」

「うーん……何もない」

「……そっか」

「えっ意味深、何、こわ、匂わせ?! 何かの匂わせですか?」

「違う違う! 裾引っ張るんじゃねぇよ、ちぎれるからっ」


 その時何者かが階段を登ってくる音が聞こえたので、静かに口をつぐんだ。

 扉が開くと契約候補者であろう松永健太が現れ、庭園の中央に立ち止まると空を見上げた。

 彼が黒いモヤに取り囲まれると、額に角を生やした猿くらいの大きさの物の怪がズズズと松永の背後から現れ出て肩に乗る。これは小鬼だ。恐らくこの鬼に取り憑かれているのだろう。

 手にはナイフのようなものを持っている。

 小鬼は耳元で囁く。


『サァ、死ネ』

「美香子、俺もそっちに行くよ――」

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