第10話〈1〉不穏
『次の契約候補者なんだけど、上杉雪子、とあるんだが――』
「は? ちょっと待って、何で??」
クロは、コートの内側に入れていた鬼籍帳を取り出し、急ぎ開く。
確かに八月十六日の契約対象者に、上杉雪子の名前が載っている。
思わず顔を見合わせる。
それに送り火のある十六日か、って明日ではないか。
「なぁ羽柴さん、彼女は今日職場に来てた? 最近変わった事なかったぽい?」
『あいにく一昨日から盆休み中だ。連絡したけれどLINEは返ってこないし通話にも出ない。怪我の具合も心配だし……
「お邪魔した時は普通だったし、特に心当たりは……」
とりあえず三人は、急ぎ上杉さんのマンションに向かう事にした。
◇
◆
上杉雪子
二十八歳/公務員
京都駅ビル大空広場/二十時二十分
原因:失恋による心神喪失
憑き物:悪霊の類
状態:健康体
◆
「ちょっと出てくるね、ごめんね」
三年前、最期に聞いた彼の言葉だ。
以来、ここには帰って来なかった。
私は物心がついた時から、少し人と違うものが〈視えて〉いた。いわゆる霊感ってやつが強い体質らしい。
彼、石田翔太とは小学校からの同級生で、同じく〈視える〉悩みを持っていて仲良くなり、何となく大学になって友だちから恋人になった。
卒業すると彼は一般商社に勤め、私は公務員になり府庁のシステムセキュリティ課で働いていた。最近婚約をして、一緒に住み始めたばかりのごくありふれたカップルだ。
彼は、昔から誰にでも優しくて気のいい人だった。
優し過ぎるが故に、昔から損ばかりしている人。
運悪く彼の大学時代の友人が、よくある詐欺に引っかかり失踪、保証人になっていた彼は多額の借金を背負ってしまった。
その頃からか、友人にも裏切られて何か鬱がちになっていたんだと思う。うっすらと変な黒い霧が付き纏っていたりぷ、悪い悪霊や怨念、物の怪か何かに取り憑かれているのかもしれないと感じ始めていた。
負の感情は電波のようなもので、感情が強ければ強い程に負の波長が強く出て、よりそういう強力な悪いものを引き寄せてしまうらしい、と聞いた事がある。
たまに〈不吉な場所〉と噂される所には、そういった波長の吹き溜まりになっているケースが多く、同じ負の感情を持つものを呼び寄せているためなのだそうだ。
ますます心の状態が悪化する一方の彼を心配に思っていた頃だった。
ある日の夜、ちょっと出てくると言って翔太はふらりとマンションを出て行ってしまった。どこに行くんだろう。嫌な予感がして後をこっそり付いていった。
十分程度歩いた頃、彼が暗がりの歩道橋の階段を降りようとした時だ。
十五メートル程離れて後ろを歩いていた私の目にもはっきりと見える、もやもやとした黒い霧が翔太の目の前に現れた。恐らく負の感情の集合体だろう。
その霧の闇の中から手のようなものが多数現れて、勢いよく彼の体を掴み引きずり落とそうとした。
落ちる! と思ったけれど、間に合う筈もなく。
瞬間、どこからか翔太の前に黒いコートの青年が現れた。
助けに行こうと一歩踏み出そうとしていたのに、何故か一瞬時が止まったかのように体が動かなくなった、ような気がした。
次の瞬間、暗い中ぼんやりと、小さい刃物を持ったその青年が、ぐったりしている翔太を抱えていた。
階段からは……落ちていない?!
けれど、翔太は首を切られて血が滴っているように見える。
あまりにも一瞬の出来事で、いったい目の前で何が起こったのかわからない。
体から血の気が引いていくのがわかる、驚いて声すら出なかった。
青年に人間の気配は無い。かといって悪霊でもなさそうだ。
殺……された?! 通り魔?!?
ヤバいものを見てしまったと、急ぎ音を立てないよう背を向けている青年から見えない位置に移動し、歩道橋の隅の暗がりに隠れる。バレないようそっと覗くと、誰かに連絡をしている様子だ。
その輪郭を、月明かりが照らす。
一瞬横顔が見えた銀髪の青年は、少し返り血が顔に飛んでいて、無表情で恐ろしかったけれど、通り魔に似つかわしくない綺麗な顔をしていたように思う。
やがて、救急車のサイレンの音がした。
あの青年が呼んだのだろうか? 刺しておいてまさかね。
とりあえず隙をみて、必死で静かにその場から離れ逃げ去った。
どうなっているの?
何が起こったの?
これは現実?
あれは何者?
翌日、翔太のご両親から訃報を聞かされた。
死因は原因不明突発性の心臓発作との事で、それ以外に説明はなかった。
おかしい。目の前で、何者かに刺された現場を目撃したのに、だ。
まだ法的に結婚をしている訳ではないので、私に借金の返済義務はない。
自死ではないとの事で、借金は保険金で返済されるだろう。
現実を受け入れたくなくて、その後も未だこの同棲していたマンションから引っ越せずにいる。
それから数日が経った頃、幽霊となった翔太が部屋に会いに来てくれるようになった。
けれど、会話はできないようだ。
きっと突然の別れで、私を心配してくれているのだろうか。
気を病んでないとわかれば、成仏するつもりなの?
そんなの嫌よ。
私の思いの力が強すぎて呪縛がかかっているのか、彼は部屋から出られなくなり呪縛霊と化していた。
「翔太、あの時どうして殺されたの? あの銀髪の若い男は誰?」
『……』
喋りかけても返答はない。
いつも心配そうな顔で、微笑んでくれている。
もちろん抱いてもくれない。
それでも一緒にいられれば、それでよかったのだ。
いつまでもこんな生活が続くとは思っていないけれど。
「どうしてあげたら、助けられたのかな……」
それ以来、私の霊感が以前より強くなっている気がする。
元来私に潜在的な能力が高かったのか、それとも翔太といるせいなのか、ますます濃く霊的な存在が〈視える〉ようになってきたのが自分でも恐ろしくなっていた。
翔太以外にも霊的な存在がいるのがさらに強くわかるようになり、気が散ってノイローゼになりそうで、仕事にも支障をきたすようになり、休みがちになっていた。
もう私も限界だわ……
そういえば、勤務している府庁のレンガ造りの旧本館片隅に、よくわからない妙な部署がある事を思い出した。
何ていったっけな、厚生労働省管轄の何とかいう課。
詳しくは誰も知らないけれど、どうやらその手の怪しい案件や事件は、その部署に相談するといいと噂を聞いた事がある。そういうのが苦手な同僚の子が怖がって、近寄らない方がいいよと言っていたけれど。
半ば冗談かと思っていたが、何か相談できるかもしれないと定時を少し過ぎた頃、思い切ってドアを叩いてみる。
出てきたのは、眼鏡で七三分けの背の高い男性職員だった。
彼は、誰も信じてもらえそうにない私の話を、親身になって真面目に聞いてくれた。
そして、意外な提案をされる。
「上杉さん、その能力があるならこっちに移動してここで勤務しませんか? ちょうど僕一人じゃ業務が手一杯なんですよ。どうせ辞めたって〈視えなくなる〉わけじゃなし。それに、今居る部署より給料もずっといいはず。悪い話じゃないと思いますよ」
さっぱり何をしている部署かも知らなかったけれど、もう色々どうでもいいやと思っていたのであっさり受け入れ、承諾した。
上司は羽柴優吾といった。
警察官でもないのに拳銃の携帯を許されている謎の人。
そこで、この部署の仕事の話を聞かされる。
ただの除霊みたいな怪しい事を処理する部署じゃなかったのだ。
この世と冥界の繋がり。
死神みたいな仕事の者がいる事。
例の契約事項。
私は地頭の良さと〈視える〉特技が功を奏し、補佐の業務を想定より深く手伝う事になる。
そういう事か。
原因不明の心臓発作で死亡。
翔太はあの時、死神に殺されたんだ。
羽柴さんが紹介してくれた、死神と名乗る者に会ってさらに確信した。
忘れもしない、月明かりで観た一瞬の横顔の正体。
通称クロと呼ばれている、この銀髪の青年だ――
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