第2話

 個室の中は洒落ていて、2つのテーブルが置いてあった。片方の席に彼女が座ると僕はその前につく。彼女はビールを2つ注文すると、頬杖をついて僕の顔を見つめてきた。つぶらな瞳から通った鼻筋。ちょこんとした小鼻の下に配置された薄い唇。そんな彼女の顔を見つめ返すと、彼女は照れるように目をそらした。甘美な時とはこういう時間を指すのだろうと僕は漠然と思った。ただ幸せな時間は、まるでシャボン玉のように七色に光る。運ばれてきたビールは喉越し良く、僕の身体を爽快に潤した。

 

 それからは篠崎節をひたすら聞く時間が続いた。僕は話を聞くほうが楽な質だから、篠崎の速射砲のようなおしゃべりには大変助けられる。追加で頼んだ日本酒は酔鯨。確かに飲みやすく、美味しかった。


「って、鎌田課長が佐藤くんのことを褒めてたよ。」


 突然自分の話が出てきたことで自分が上の空だったことに気付かされた。鎌田課長とは僕の上司のことである。


「え、なんで。」

「だから、仕事が丁寧だって。」


 そんなもんだろう、と思った。僕には丁寧さくらいしか取り柄がない。社会人としての成長も、大学を卒業してから2年経った同期の篠崎と比べるとまるでしていなかった。褒められたのに、逆に悲しい気持ちになり、僕はおちょこの底に残った酔鯨を飲み干した。自分でも、もっと真面目に仕事に取り組めば成果が出ることはわかっている。だが、もし万が一成果がでなかったら?自分が無能であることの証明になってしまう。僕はプライドが高い。だからこそ、プライドが低いふりをして、自分の取り組める範囲で丁寧さだけを意識した仕事をしていた。

 

「丁寧な仕事なんて誰だってできるよ。」

 次は、という風にメニューを僕の方に見せてきながら篠崎は言った。


「そんなことないよ。丁寧さと努力ができることは才能だよ。」

「篠崎に才能はある?」

「見ての通り、私は努力の天才。佐藤くんと私は天才コンビってわけ。」

 彼女は目の横で倒れたピースマークを作った。確かに篠崎の努力は凄まじい。同期の誰よりも行動することで、新入社員時代からミスや知識不足をカバーしてきていた。ぼーっと仕事をしている僕にも分かるのだから、社会の評価は非常に高かった。


「でもさ、私、女だから評価されにくいんだよね。」

 彼女は次の日本酒を一合注文しながら言った。


「というと。」

「女ってだけで評価されないんだよ。佐藤くんにはわからないだろうけど。」

「そんなこと無いと思うけど。」

「そんなことあるって女の私がいってるのに、そんなことが無いっていうのはフォローになってないよ。」


 一瞬場がしんとした。


「なんてね、最近ミスが続いたからイライラしてるだけ。そんな顔しないでよ。」


 彼女は笑った。その笑みの裏側には、すごく根の深いコンプレックスがあるのだと僕は理解していたが、上手くかけてあげる言葉も思いつかず、再び篠崎節に飲み込まれる時間となった。


 煌めく時間は一瞬で過ぎる。


「えー、もう終電?早い。」篠崎が机に突っ伏す動作をした。そして顔を上げるとわざらしくニヤけた顔をしている。


「じゃあ、今日はうちに泊まっていく?」


 僕は酔っていたこともあって思わずえっ、と聞き返した。そんな夢のような提案があってたまるか。酔っている頭が高速回転し始めた。朝まで話すだけで良い。寝不足になって明日の仕事で使い物にならなくても、それで怒られても良い。あと少しだけでも篠崎と一緒にいられればそれで良い。いや、でも”据え膳食わぬは男の恥”という言葉があるな。これは誘われているのだろうか。いや、篠崎に限ってそんな事をするような女性ではない。分からない。あらゆる可能性を考慮しろ、僕。


「うちがこの近くじゃん。今日泊まっていく?って聞いたんだけど。」

「いいの?」


 彼女は自分のカバンから財布を取り出しながら言った。

 

「だめに決まってるじゃん。ほら、帰るよ。」


 酔いは醒めた。僕は彼女のことが好きだ。が、僕と彼女は同僚であり友人。彼女は僕の気持ちを知っている。彼女は僕のことを”恋愛的には”好きではない。だから当然、友人であり同僚であるという枠組を越えてはいけない。自分の中で繰り返し認識していた概念が、現実に現れると胸が苦しくなる。まるで天国から地獄に落とされた気分だった。そして僕の気持ちがやすやすと踏みにじられたことに対して、僕は反射的に怒りを生み出すことで自分を守ろうとしたが、それも虚しい話だった。


 店を出ると秋の夜の匂いがいっぱいだった。じゃあね、と手を振ると僕たちは別々の方向に歩いた。きっと彼女は振り向かない、だから僕も振り向かない。

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