第2話 誘う

コロニーに向かう いつもの ルート沿いに新しい店がいくつもできていた。

スシロー もできたんだ。

回転寿司 結構食べに行きますよ。

いいよね お財布に優しくて。

とろも 100円だという登りが出ていた。

今度行ってみない?

私トロとかは、白身魚の方が好きなんです。

そうなんだ。白身魚ね…タイとかヒラメとか。

はい。

これっててーよく 断られたってことかな。まああんまりお金の余裕もないしまたにしようか。と思った。


コロニーには定時についた。駐車場はもうかなり混んでいたので 置く場所を探すのに少々手間取った。

「でもまあ歩くなら そんなに遠くないし。」

「止める場所って決まってないんですね。」 

「そうなんだよね。まあだいたいは決まってるんだけど…緊急の場合もあるから絶対にそこに止めると決めちゃうわけにはいかないんだよ。」

「そうなんですか わかりました。」

ダラダラと結構な坂道を登っていくと子供達が出てくる 玄関に着いた。この坂道は毎朝 子供達が登校する時に登ってくる坂だから大人の僕たちが大変だとあまり言っているわけにいかない。

僕たちは玄関で子供達が出てくるまで待っているのが仕事だった。そして子供たちを安全に誘導して車まで連れて行くそこまでが迎えの仕事だった。その後は事業所に戻って それぞれの年齢ごとに子供達にとって必要なことを指導していく、それが 放課後デイサービスの仕事だった。

子供達が玄関から出てきた。初めに出てくるのは小学生とか歳の若い者たちだった。中学生や高校生は少し後になったからだ。バスに乗る全員が揃うまで僕たちは玄関の外で待っていた。6年生の山田君が昨日デパートで買ってもらったカブトムシをみんなに見せびらかしていた。文子さんは大きくて黒いカブトムシがどうも苦手なようだ。そうとわかると山田君は喜んで 文子さんにそのカブトムシをくっつけようとした。

あやこさんは顔をしかめながらも弱音は吐かなかった。

「昨日買ってもらったの?」

「誕生日だったんだ。」

「良かったね。」

「クワガタも買ってもらったんだ。」

「そう。パパにお礼言わなきゃね。」

「もう言ったよ。」

山田君はカブトムシを文子さんの白く細い首に近づけたが、文子さんはそっと首を反らして避けた。

山田君は諦めてカブトムシを虫かごに入れた。車は予定通り出発した。

文子さんは美浜に下宿を借りる前は家から直接学校まで通っていたそうだ。文子さんの家から学校までは片道 およそ2時間ぐらいかかる。資格をもらうために必要な授業数は割に少なくて、空いた時間に文子さんはせっかく家から電車で大学のある 美浜まで行くのだから途中にある金山駅で降りて、よく1人でボストン美術館に行ったと言っていた。文子さんは 絵もかなり好きなようで、ユトリロやドガを見て回っていたらしい。僕もユトリロもドガも好きだったけれども金山駅の美術館ではまだ見たことがなかった。

「ユトリロもドガも好きだけど金山では見たことなかったなぁ。」

「いいですよ。たまに美術館に行くのも。」

「結構好きなんだよ僕も。僕はどこかのデパートで見たな。」

「ボストン美術館もこじんまりしてていいですよ。」

「いつも一人で行ってたの?」

「そうです。根暗の引きこもりですから。」

「本当にそうなんだ。」

「誰かと一緒に行こうという気はなかったの?」

「あんまり絵とか見る友達いなくて…。」

「根暗の引きこもりだから?」

「そうなんです。」

30分後ぐらい走って車は事業所に到着した。子供たちは学校が終わったばかりで大変だが、4時からは放課後デイサービスの就職用トレーニングが始まる。

僕たち職員も、子供たちの指導に当たるわけだ。文子さんも3階で小学生以下の子供たちの指導に当たる。

昔は宿題のプリントをたくさん配っていたが、中学校でも小学校でもそんなことはもうしなくなった。子供たちはみんなタブレットを支給され、課題もデータで出題される。プログラミングの授業も人気が高く、デイサービスでもプログラミングの授業を取り入れた。まだ 黒板 代わりにホワイトボードを使っていたが、それも おいおい なくなっていくだろう。放課後デイサービスでも少しずつ デジタル化が進んでいた。今小学生を一番苦しめているのは重いランドセルだ。たくさんある教科書がなくなればランドセルはうんと軽くなるだろう。2〜3年後には教科書がなくなり全ては データ という形で子供達に配られるだろう。

文子さんは自宅からかなりの時間をかけて電車で通っていたが、やっぱり 時間的に厳しいので原付バイクを手に入れてスクーターで事業所まで通うようにしていた。

「問題は雨の日ですね。それさえなきゃ 快適なんですけど。」

「やっぱり 直接 事業所まで来れるのって便利ですか?」

「それはもちろん 便利ですよ。いちいち電車の時間を気にしなくてもいいからすごく楽です。」

文子さんの自宅は事業所から一つ山を超えた山の頂上あたりにあったけれども、電車で通うにはいちいち多治見駅まででなければならなかった。駅まで直接行けるようなバスはなく、歩いたらすごく時間がかかってしまう。だから車かバイクを使うしかないのだけれど、車はさすがにお金がかかって買えないし、結局バイクにするしかなかった。年頃の若い娘がバイクで通勤するなんてと家族は大反対だったらしい。それでも文子さんは、時間の面でもお金の面でもバイク通勤が一番だと押し通したそうだ。僕は少し残念だった。事業所に近い私鉄の駅から歩いてくる文子さんを見ることはもうないんだ。駅から事業所までの あの 短くてつまらない通りも文子さんに会えるかもしれないと思うと楽しみだったが、そんな楽しみももう なくなってしまうんだ。僕は自動車通勤で文子さんは 電車通勤 だったので会うことはまずなかったけれども 何かの偶然で文子さんに会えると嬉しくて仕方がなかった。お互い軽く会釈してすぐ事業所に入るんだけれども その数分の間がまた嬉しかった。お天気の話ぐらいですぐ事業所に入ってしまうんだけれども それが楽しかった。思っても見ない時間に文子さんに会えること自体がもう喜びでしかなかった。文子さんに会えた日は1日中 元気だった。もう見慣れて何もない つまらない路地が一度に明るく楽しいものに思えた。小さな私鉄の つまらない駅が文子さんが、この駅を使っているんだと思うと急に胸が踊るような華やぎを持った場所に変わった。でももう文子さんはこの駅を使うことはないない、文子さんは電車通勤ではなくバイク通勤に変わったんだ。文子さんがもう使わなくなってしまった私鉄の駅は以前のようにつまらないものになってしまったが、何の取り柄もなくてつまらなかった路地が 今度は急にそわそわしてしまうような期待感のある場所に変わっていった。運がいいとたまに だが青いバイクに乗った文子さんが走って行くのを見かけることができた。文子さんは ヘルメットをかぶっているので 挨拶の言葉をかけることはできなかったけれども、お互いに軽い会釈はできた。僕はもうそれで十分だった。今日1日の疲れが吹き飛んだ。今度会える日がいつなのかそればかり思っていた。通勤の出会いはほんの一瞬のことだったけれども 僕にはそれで十分だった。 一日中 いや次の週のことまで考えて期待に胸を膨らましていることができた。うまく通勤の時間で会えなかった時も あやこさんのバイクが置いてある場所がわかったのでその場所に青いバイクが置いてあればちゃんと文子さんは今日も来ているんだなと思うことができた。本当に タイミングのいい日は事業所の入り口で文子さんとばったり会うことができた。文子さんは少し驚いたような顔をして朝の挨拶をしてくれた。それで十分だったその日はもうそれ以上に何も求めなかった。それだけで僕は十分幸せだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る