第10話 雨

 たぬきが懐かしそうに言った。


「私はねえ、雨が降ると嬉しかったんだ」


「あめ?」


「あんた、雨も覚えてないのかい!?」


「いえ……わかるような、わからないような……」


「雨ってのはね、天が落とす水のことさ。天の気分次第だから、ちょっぴりの時もあれば、一気に落とすこともある。寝床が流されたこともあったねえ」


 たぬきの言葉が、何か、ひっかかった。

 なんだか、覚えのあるような……。

  

「いっぱい降ると恐ろしいんだけど、降った後の天を見上げるのが楽しみでね。運がいいと、すごくきれいなものが見られるんだよ」


「すごくきれいなもの?」


「あんたにも見せてやりたいねえ。いくつもの色が仲良くひっついて、天に並ぶ。それも、なだらかな山みたいな形でね」


「なだらかな山?」


「分かりにくかったかね。……あっ、私の目をみてごらんよ。この笑ってるような目を」


 改めて、たぬきの宿っている像の笑ったような目を見た。

 なんか、ほっとする。


「いいな」


 自然と言葉がこぼれた。


「おっ! 嬉しいこと言ってくれるね。私も、この目は特に気に入ってるのさ。あの人の優しい心がこもってるからね。つまり、私の目みたいな形で、いくつもの色が並んでるものが、天にかかる。いつか、また、見てみたいねえ」

と、たぬきはしみじみと言った。

 

 たぬきとの会話は楽しかった。

 が、自分のことは何も思い出せない。


 自分がなんなのか、考えれば考えるほど、まわりとの境がわからなくなった。

 今にも自分が溶けて、消えてしまいそうで、怖い。


 思わず、たぬきをまねて、自分のことを「わたし」と口にだしてみた。

 

 すると、不思議なことに、ぼやぼやとしたところに、手でつかむ何かができた気がした。溶けだしそうな自分が、「わたし」で、つなぎとめられたような……。

 

 それから、自分のことを「わたし」と言うことにした。


 そんなある日、見知らぬ男が訪ねてきた。

 男は長い時間をかけて、じっくりとわたしを見た後、この寺のお坊さんを連れて戻って来た。

 

「この地蔵菩薩は相当古い時代のものです。かなり価値がありますよ。うちで管理させてもらえませんか?」


 興奮気味に話す男に、何とも言えない不安が募った。





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