三、褒められることについて
最近褒められたのはいつかと聞かれて、君たちは思い出せるだろうか。
年齢を重ねるにつれて、誰かに褒められる回数と言うのは減衰する。
と言っても私はまだ大学生であるから、先生や親に褒められる機会は無くなっても、バイト先やサークルなどそれなりに機会は存在している。
褒められること、他人に高く評価されることについても、思うことがある。
私は、褒め言葉を素直に受け止めることができないと自覚している。
まずそもそも褒められるという状況になる前に、その褒められる内容が二つに分けられると思う。
一つは、自信があって評価に値するだろうと自負していたもの。もう一つは、自信は無く評価されると思っていなかったもの。
グラデーションはあれど、内容についてはどちらかに近いものとして分類できるのではないかと思う。
誰かに褒められたとき、その内容がどちらであるかによって、心境は大きく変わるだろうし、当人の今後にも大きな影響を与え得るだろう。
それぞれで詳しく考えてみよう。
まず前者であるが、この場合私はそれなりに素直に受け止めることはできる、と思う。
「と思う」と言うのは、まあ言ってしまえば褒め言葉は誰に送られるかに大きく依存するものであるから一概には言えないという意味である。
ただ、私は性格が捻くれているため、素直に嬉しいと思うだけでは終わらない。
あまりに失礼であるからもちろん表には出さないようにしているが……、褒められたとき「当然だろう」と思う。
当然であるから、褒められることに対してさほど有難みを覚えない。これはきっと、私が幼いころからそういう機会にある程度恵まれたからなのだろう。
むしろ褒められないとなれば、それに対して疑念を抱く。
私は褒められるだけのことをしたはずなのに、評価されるべきだと自負しているのに、されない。おかしい。なぜだ。
そう思ってしまい、理想と現実の乖離が時に私の心を蝕む。
もう幼くはないから、それくらいでどうにかなってしまうほど精神が弱いわけではないし、表に出すほど醜くもないつもりだが、どうしても、自信を持っているのに褒められないというのはそれを喪失するのに繋がってしまいなかなか来るものがある。
次に後者だ。この場合、私は本当に素直になれない。それどころか、これが原因で何度親を困らせたか。
今でも母親が時折話題にするくらいには、私は褒め言葉を素直に受け取れない。
自信がなく評価に値しないと思っている、ということはどこかしらに満足していない部分や後悔している部分があるということが多いと思う。
それを相手に評価された時の、これもまた、乖離。
貶して欲しいと言っている訳では無いが、良くないと思っているものを高く評価されるのは何とも気持ちの悪いもので、その言葉はあまりに受け入れ難い。
我が強すぎるのだろうか。
自分が気づかなかった良いところを探してくれる人も、たまにいる。その場合もこちらに分類されるだろう。
そういう時はまた少し違って、受け入れ難いと言うよりは何か奇っ怪なものでも見たかのような疑問が私を襲う。
素直に受け取れないという意味では変わらないのだが。
なんて面倒くさい人間なのだろうかと思うだろうが、それと同時に私はどちらかと言うと褒められて伸びるタイプで、思わぬ批判をされたら心が折れる人間なのだ。
私の能力において、分野によってあまりに差ができてしまっているのはこういう性格が所以だろう。
自信のあるところは褒められ、それを受け入れ、伸ばすことが出来る。それと同時に、自信の無いことは褒められても受け入れられず、故に伸ばせない。
好きなことを好きなままに、悪い意味で自分を持ちすぎた私は突出した能力がある訳でもないのに、できないことはてんでできない、なんて言う中途半端な人間になってしまった。
とはいえ、二十年かけて受け入れ済みである。
自信があることを褒められれば言葉のまま受けいれ、褒められなければ自己分析に費やす。自信が無いことを褒められれば価値観の相違として外面を演じてあとは特に聞く耳は持たない。
結局褒められるとは価値観の一致の報告に過ぎないのだから、それに振り回される道理は無いのだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます