第6話 Irish coffee

[Irish coffee]


 授業が終わると、職員室に回収したテストの答案を持ち帰り採点をする。子供たちの採点をしているようで、自分の教え方の善し悪しの答えを晒されている気分になる。

 バイト講師とはいえ生徒の中には受験のために通っている子もいるので手は抜けない。以前は解答用紙に書き込むコメントも先輩講師の確認が必要だったが、最近はお墨付きを貰い自分が相談に行かない限りノーチェックになった。

 塾の講師や教師にはそこそこ魅力ややり甲斐を感じてはいるが、いつか翻訳の仕事に就きたいという夢は捨てきれずにいた。自分でまだ出版されていない作品を見出したり、好きな本を自分の感性や言葉で訳していけたらどんなに素敵だろう。

 そういう仕事はじきAIがあっという間にやってしまうだろうから、これからはもっと自分が求められる仕事は何かを大学で見つけなさいと高校の進路指導で言われた。海外文学を翻訳者で選ぶことのある自分らしたら余計なお世話だとその時心から思った。


 捨てきれないもの。

往生際が悪いのか、捨てきれないものをあれこれぶら下げている。

 全ての期限が迫って来て「早く決めろ」とけしかける。昔と違って今は自由だからとか選択肢は無限とか耳障りの良い事を皆言うけれど、結局みんな普通に卒業して、普通に就職して、普通に結婚したりするんだ。


 何となく真っ直ぐアパートに帰りたくなくて迷った末に水沢に連絡を入れてみる。ちょうどふたつ先、水沢の地元の駅に着いたところだという。そこでいいなら付き合うと言われ、急いで駅に向かった。

 水沢は仲間内では珍しく実家住まいだった。都内の利便の良い場所にある実家から一度は出たものの、慣れない大学生生活に加え夏から法科予備校に通い始めたため忙しくなり、更に学費のためのバイトに明け暮れ、最終的に日常生活にも支障を来たしたため結局一年の終わりにアパートを引き払って実家へ戻った。

 「ひとり?珍しいじゃん」どうやら陸も居ると思っていたようだった。

「バイト終わりだし、そんないつも一緒に居ねぇよ」

「込み入った話だったらお断りだぞ」とあからさまに警戒される「冷てぇなそれでも友達かよ」と背中に言ったが行く店が決まってるのか水沢は構わず歩き始めた。駅前のロータリーから一本入ったところに新しく出来たチェーンの居酒屋に入ると、テーブル毎に半個室になっていて落ち着く店だった。

「とりあえずお疲れ」ビールが来ると儀式のようにジョッキを傾ける。

 いつものようにバイトや就職、進路の話を一通する頃には酔いがいい具合に回ってきてつい口が滑らかになった。

「お前はさ、彼女作らないの?」と聞いてみる。そういう話になると水沢はいつも外野に徹して話の輪からそっと抜けていくのだ。

「何、急に」と目を逸らして「いないよ」、とサラッと言って終わらそうとする。

「作んないの?」

「作んない」

段々と返答の語気が強くなった。


結構最初からお前とつるんでるけど、彼女いた事ないと思うけどと前置きをしてから「お前もしかして童貞?」またここのところでぶり返したモヤモヤを水沢にぶつけてしまう。

 水沢は無言だ。酷いことを言った俺をどんな顔で見てるのだろう。俺はテーブルの上に組んだ腕に顔を埋めた。

 イライラのぶつけ方が乱暴なんだけど、とジョッキを飲み干し、手を挙げて店員を呼ぶ。「もう一杯行く?」と聞くのでビール、と言うと自分の分と一緒に頼んでくれた。

追加の酒が来るまではお互い無言だった。

店員が立ち去るのを待って水沢が口を開く。「彼女、もうすぐ帰国するんだろ?」「お前のイライラの原因はそれ?」と顔を伏せたままの俺に言う。

「そうとも言うし、そうでないともいう」

俺の曖昧な返事に水沢が痺れを切らす。

「お前が呼び出したんだからちゃんと話せよ」

「確かにそうだな、ごめん」

「話せることからでいいから」

水沢は俺を諭すように言った。


「ある人をさ、憧れだと思ってたんだ。」

「うん」

「憧れのままでいたかったのにさ、もしかしたらその人のこと好きなんじゃないかって気づいてさ。」

「うん」

「でもその人のことは憧れにしとかないとダメなんだよ」

「憧れと好意、は勘違いしやすいよ、河井」

「分かってる。だからずっと憧れだって言い聞かせてたし、性的なことも考えないようにしてたし、でも」

「まぁ言い聞かせてる時点でムリがあるわな」

水沢はそう言った後、何か気づいたようだった。

「大学とかバイトで会うような人?」

「違う」

前のバイト先に来る客だと答え、「今は陸がバイトしてる」と言うと少し沈黙の後「なるほど、そういう事」と独り合点しているのを見て余計な事まで言ったと気づいた。


 「まさか陸は知らんだろ?」と言われ、大学で陸とひと悶着あったことを話した。

「まぁ、どっちもどっちっていうか…」と水沢は冷めただし巻きを口に放り込んだ。

 物理的に二ヶ月距離を置いて、もう大丈夫と思ったんだけど、結局本人に会ったら引き戻されてしまった。そう言うと二ヶ月じゃ足らんだろ、なんでわざわざ会いに行ったんだよと叱られた。

土産の事を言ったら更に何を言われるか分からないので黙っていた。

「陸の無神経は通常運転だけど、お前はもう少し冷静なやつと思ってたけど」と呆れたような驚いたような顔をした。

「あいつだって困るだろ?そんなこと言われたって。付き合い始めのカップルにいちゃもん付けんなよ。」

「だから、ダメだってわかってるんだって。言ったらもう諦めざるを得ないと思ったんだ」

水沢の言葉を遮るように一息に言うと

「あんまりいいやり方じゃないと思うけど」

「お前だって分かってんだろ?巻き込んでるあたりで諦めるどころか余計に執着してる」 

図星だった。


俺は見ない振りをしていた答えを眼前に突きつけられ、ただオロオロしていた。

「そんなんで彼女に向き合えるのかよ」とは畳み掛ける。そりゃそうだ、さっき俺はコイツに酷いことを言った。今更優しくしてなんて言えない。

「なぁ、水沢」と顔をあげると意外にも眉を下げて心配しているような面持ちだった。

「バカを承知で聞くけど、俺、どうしたらいい?」と本気で聞いた。もう何処をどう来たかさえわからなくなってしまっていてもう誰かに引き摺ってでも助け出してもらいたかった。

「先ずは会わないこと。その人にも、陸にも最低限。連絡もできる限り誰か挟むこと。」

「陸が事情を知ってるなら根回しできるだろ?何なら俺が間に入ってもいいし」

俺が返事をしないでいると

「何?まさか会いたいとか思ってるわけ?」

「わかんない」

今言える精いっぱいの返答だった。

「そんなんで彼女にも会うなよ」と釘を刺された。

「なんかもう俺ストーカーみたいな扱いじゃない?弁護士先生?」

「お前の理不尽な八つ当たりから健全な市民を守るんだよ、文句あんのか?」と一蹴された。

「あとは暫く彼女とか作ろうとすんな。誰かのバーターとか上手くいくはずないだろ」

会計を済ませ、居酒屋を出るとコーヒーでも飲むかと言われたが断った。

「河井、キツい事言ったけど、曖昧な気持ちのまま引っ掻き回すのは良くないと思ったから」

そんなのは分かっている。友達に言いたくない事を無理やり言わせてるのは俺だ。水沢に礼を言って別れた。

 全部解っていた。息が出来ないくらい胸が苦しかった。


 日曜だと言うのにバイトもなく一日なんの予定もなかった。詰まらないテレビを消し、たまった洗濯物を全部やっつけ、フローリングを磨いた。棄てる雑誌や要らない本を紐で括って玄関に積むとすることが無くなってしまった。早めに昼食を作って食べてしまうと、まだ十二時を少し過ぎただけだった。


 冷蔵庫の扉に留めてあった展覧会の招待券を見ると会期が始まって一週間ほど経っていた。

 大学の図書館にチラシと一緒に置いてあって何となく貰ってきたものだった。こんな日は外に出た方がいいと思いチケットをリュックに突っ込んだ。

 渋谷の喧騒を抜けて住宅街に差し掛かる手前の道を入ったところにその美術館はあった。以前は邸宅として使われていた建物でこじんまりしてはいたが庭園を散策する事もできるようだった。

まだ会期が始まったばかりだからか、さほど混雑しておらず、代表作だという壁一面の大きな絵を独り占めして見られるほどだった。

 画業何十周年とかの回顧展で何処かで見た作品もいくつかあり、やっぱり出てきて良かったと思いながら最後の部屋にあった青を重ねた色調の抽象画が気に入ってしばらく眺めていた。ふと気配を感じてチラと見ると肩まで伸ばした金髪に眼鏡をかけた一瞬男性か女性かわからない綺麗な人が居た。


―ああ、鹿野さんだ― 

そう認識すると彼もこちらの視線に気づいて顔を上げた。

「え、あれ?河井くん?」

思わず大きな声が出ててしまい、慌てて手で口を塞ぐ。

「びっくりした、偶然ですね」

「本当、びっくりした」と微笑んだ。

 ミュージアムショップを抜けると鹿野さんがなんとなしに言った。

「河井くん急いでる?」

その先が何か分かっていて俺は水沢の忠告を無視した。

「いえ、何も無いです」

美術館のカフェを覗くと思いの外混んでいて、空席もあったが落ち着かなそうだった。

鹿野さんの提案で、天気も良いから外のベンチに行かないかと言われ後に続いた。

野外彫刻のある庭園にはキッチンカーが来ていて、コーヒーとカヌレを二人分買ってくれた。

さっき見た絵の感想など他愛のない話をしていた。

「そういえば河井くんと外で会うのは初めてだね」と言われ、自分たちは元喫茶店のバイトと客と言うだけの関係なのだと気づく。この人の隣にいるのは俺ではなく陸なのだ。こうして二人きりで並んで過ごす時間はもうないのだなと頭の隅で理解するとなんとも言えない寂しさを感じた。

 返事をしない俺に鹿野さんは「河井くん?」と顔を覗き込む。俺は鹿野さんに身体を寄せてそっとキスをするとそのまま立ち上がり、振り向かずに美術館を出た。



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