夜明けの三日月 二

翌日、訓練場の森に訪れたクリシュタンド家ご令嬢はいつも通り。

馬が嫌いという話の通りわざわざ歩きでやってきて、やる気のなさそうな顔である。


隊長がハキハキと敬礼を告げると俺達も倣い、対して彼女は気のない答礼を。

先日の大勝を褒める程度はするのかと思えば、当然そんなことはなかった。


「じゃ、さっさと始めましょうか。クリシェ的にはひとまず全員纏めてでも構わないのですが……ダグラ、どうしますか?」

「は。願えるならば一班ずつ、ご指導頂ければと思います。そちらの方がこいつらにも伝わりやすいかと」

「ん、なるほど……」


そうしてクリシェ様は初めて俺たちに目を向けて、偶然一番近くにいたからだろう。

俺を見ると手招きした。


「第二班、駆け足! それ以外は少し下がれ」


それを見たダグラは指示を出し、少し拓けた空間には俺達五人とクリシェ様が向き合う形となる。

その瞬間はまだ、素振りでもさせるつもりか、などと考えていたように思う。


「ダグラ、木剣」

「は」


隊長はすぐさまクリシェ様に持っていた木剣を両手で差し出し、後ろへ下がる。

くるくるとその木剣を器用に片手で弄びながら、俺に言った。


「いいですよ」

「……? いいですよ、とは?」

「コーザ! 軍人らしく答えろ!」

「っ、は! 申し訳ありません、隊長! いいですよとはどういう意味でありましょうかッ!」


隊長の声に慌てて問い直すと、クリシェ様は小首を傾げた。

何を聞かれているのだろう、と言わんばかりの様子で、指先で唇をなぞり考え込む。


首を傾げたいのはこちらである。

まさか五対一で殴りかかれ、だなんて頭のおかしい命令をされているとは思っておらず、俺達も顔を見合わせる。


「昨日伝えたとおり、これより軍団長副官殿が直々に貴様らに稽古を付けてくださる。分かったなら剣を構えろ!」

「は、……は? あの、五対一で、ですか?」

「そうだ。……失礼致しました、軍団長副官。そういうことでよろしいでしょうか?」

「はい。クリシェが言葉足らずでした。……そういうことなのでいつでもいいですよ」


それを聞いてもやはり、困惑が強い。

確かに聞いてはいたが、五対一、しかも相手は十五にもならぬ子供である。

昨日はあれこれ言っていたものだが、流石に五人掛かりは気が引けるものがあった。


「五対一ですがそっちは手加減しないでいいですし、殺す気で来て下さい。えーと、もしクリシェが怪我をしたり死んだとしても、名に誓って文句は言わないのです」


うんうんと頷きながら暢気に告げ、俺達は再び顔を見合わせる。

どうするんだ、と言いたげに班の奴らは俺に目で尋ね、仕方なく腰のベルトに差していた木剣を引き抜き、構える。


「怪我させるのは流石にまずい」


そう小声で伝えると、だよな、彼らは頷く。


「手加減はしなくて大丈夫だって言ってるのですが……」


聞こえるはずもない程度の距離と声だったはずだが、どういう耳をしているのか。

後々考えれば読唇術というやつなのだろう。

クリシェ様は恐ろしく目が良く、唇の動きだけで言葉を読む。


「まぁいいです。とりあえず最初ですし、説明も兼ねてぱぱっと終わらせましょうか」


こちらとあちらは五間の距離。

見えなかった、という訳ではない。

クリシェ様が姿勢を落とした瞬間も、踏み込んだ瞬間も見えていた。

ただ、見えていただけだ。


あの不思議な感覚をどう言えば良いかは難しい。

踏み込んだのも分かったし、受けなきゃ拙いと頭では分かっていた。

けれど体は全く危機感を覚えておらず、ぴくりとも動かない。


普通は逆だった。

いきなり斬り掛かられたら、頭で考える前に体が動くし、咄嗟に体が距離を取ったりするもんだ。

別に荒事に慣れた人間じゃなくたって、素人でも物陰から突然脅かされたら驚くくらいはするだろう。

腰を抜かすか固まるかなんてのは人それぞれだが、考える前に体は動く。

そういう風に人間は出来てるものだと俺は思ってた。


だというのに俺は木剣を構えたまま、木剣が弾き飛ばされる様をぼんやりと眺め、腹を蹴り飛ばされて転ばされるまでそのまま。

激痛に悶えつつ顔を上げれば、班の四人が膝を突いて、クリシェ様だけが立っていた。


「こんな感じでクリシェは強いので平気です。次の班」

「おい、二班が邪魔だ。端に寄せろ」


そうして苦痛と混乱から立ち直れぬまま、俺たちは引きずられるように輪の外へ。


俺達の犠牲があったおかげで幸い、次の班は先手を取って斬り掛かることが許されたが、その木剣はかすりもしない。

そうして立て続けに三班が手も足も出ず返り討ちに遭うと、何やってんだとにやけ面で俺達を見ていた連中の顔も、流石に険しいものになる。


クリシェ様の動きは十分な余力を残したもの。

傍目に見ていれば少し速い程度にしか見えないし、俺達最初の班はともかく、見学していた連中なら対応出来そうなものだが、不思議と誰もが反応に遅れる。

踏み込まれたことにさえ気付かぬ様子で呆然と剣を弾かれ、あるいは頭を打たれ、蹴り転がされ、赤に圧勝したはずの隊員達は訓練用の案山子か何かのようだった。


隊でもカルアに次ぐ剣達者、キリクもまた子供をあしらうように。

副官のミアを除けば腕の良い者ばかりを集めた第一班も造作もなく。

あっという間に四十人が、木剣を打ち合うどころか触れられもせず、一人を前に膝を突く。


全員纏めてでも構わない。

その言葉の意味をようやく誰もが理解出来たのだろう。

この隊の人間が一人残らず向かってきても、返り討ちなど造作もない。

それは、そういう意図の言葉であった。


もはや笑う人間はどこにもおらず、空気は冷え切っていた。


実際の戦場であれば、クリシェ様一人を相手に俺も含めた四十人が死んでいたということ。

そしてその気になればこの場の全員を皆殺しにだって出来るに違いない。

五人で囲んで反応さえも出来ないのなら、何十人で囲んだところで同じだろう。


護身用程度の曲剣一本で数百人を斬っただとか、歴戦の猛者も相手にならない怪物だとか、馬鹿げた噂話を誰もが聞いては笑っていた。

そう噂されるのが怪力無双の大男ならばともかく、五尺もないような子供がそのように語られれば、いくら何でも無茶がある。

クリシュタンド家ご令嬢に媚びを売ろうと周囲の太鼓持ちが言い出したにしろ、あまりに誇張しすぎて滑稽だと、そう笑った。


誇張されたものとはいえ、噂は噂。

流石に弱くはないのだろう、というくらいには考えていたが、その姿は俺の想像する猛者のイメージとかけ離れていたし、一対一で試合すれば負けるかも、という程度。


けれど現実というものは、背筋がぞっとするほどに冷ややかであった。

暢気な顔でクッキーを囓っていた子供がその実、百人を苦もなく斬り殺せる化け物だなんて誰が想像できるのか。

仮にここが戦場なら、油断している間に全員の首が跳ね飛ばされていただろう。


クリシェ様の前には、戦いなんてものは勝負ではなく作業であった。

相手の数や強弱なんて、手間を食うか食わないか。

その理不尽な才覚で強引に、有無を言わさず相手をねじ伏せ始末を終える。


想像を絶する、というのはこういうことを言うのだろう。

アーグランド軍団長のように、見るからに強そうな男が百人なぎ倒すところは想像も出来るが、クリシェ様のような少女一人が百人を切り伏せる様は想像も出来ない。

想像出来なきゃ理解も出来ず、理解出来なきゃ対処も出来ない。

そうなれば、訳も分からないまま殺される以外に道はなかった。


黒の百人隊――そしてその後の黒旗特務が世界最強の私兵隊と呼ばれるようになったのは、まさにそこに理由があるんだと思う。

クリシェ様のような想像を絶する人間が世の中にいるんだと知っているかどうか。

そこが多分、大きな分かれ目だった。


俺も含めて個々を見れば、決して秀でてはいない。

天才と言えばカルアくらいで、他は魔力保有者としてそこそこやれるという程度。

それでも普通の人間からすれば十分過ぎる、誇っても良いものであったのだが、クリシェ様の存在が俺達に、戦場での過信一切を許さなかった。


相手の腕利きに対しては、必ず多対一で斬り掛かる。

五分の勝負も八分の勝負も決して挑まず賭けに出ず、必要ならば目潰し、投石、羽交い締め――勝つためにはなりふり構わず手当たり次第。

局所的な数の優位で手も足も出させず圧殺する。


目の前の男が強そうだろうと弱そうだろうと無関係。

俺達は油断というものをせず、集団の利だけを活かした。


戦場は理不尽な世界なのだった。

運が悪い方向に傾けば、クリシェ=クリシュタンドにだって遭遇するのが戦場だ。

理不尽を振るわれる前に、理不尽を押しつけなければ死んでしまう。


幸い俺達は『最悪の理不尽』からは逃れられたが、その後、剛腕のナキルス、黒獅子ギルダンスタインをはじめ、たった一人で理不尽を振るう化け物はゴロゴロ見てきた。

訓練の段階で理不尽の極みと言うべき相手を目に出来たことが、俺達を強くしたのだと俺は思う。


十四歳の子供でさえ、自分達を一人残らず殺せるような怪物がいるのだ。

ならば当然もっとすごい化け物も世の中にはいるんだろうと当時は思っていたし、そうであればこそ訓練への真剣味も増すというもの。


もっとも、クリシェ様みたいな人間は世の中に二人もおらず、ただの考え過ぎであったのだが――俺達が黒の百人隊として生まれた始まりはいつかと尋ねられれば、きっとその日なのだろう。







そうして森での訓練を終えた頃には俺達の意識は明確に変わっていた。

無論、クリシェ様に好意を抱いていたかと言えば大半が否であったが、しかし紛れもない天才なのだという事実を知れば、これまでの態度にも多少の納得は出来るもの。

平民を見下す最悪の貴族令嬢なのではなく、凡人のことが理解出来ないだけの天才少女なのだと考えれば、多少は俺たちの怒りも和らいだ。

天才とはそういうものだと思っていたし、仕方ない、と諦めくらいはそれでつく。


そうして見ればクリシェ様はまさに『天才らしさ』のようなところに溢れていたことも理由だろう。

他人からどう見られているかなど全く気にしておらず、自由気まま。

セレネ様やベリー様に対してはまさに子供のようであり、往来で甘える姿を俺達は何度も見ていた。

良い意味でも悪い意味でも軍人ではなく、貴族でもない。


俺達に対してもまさにそうだった。


「……ベルツ。何で料理の練習をさせられてるんだ俺達は?」

「分からん。だが、言われたからにはやるしかない」


森から砦に戻って再度の視察。

俺達があれからいかに気持ちを改め成長したか、その成果を見られるのだと思っていた。


その日は野営に関する訓練で、丁度昼食時。

天幕などを設営しながら、自分達で飯を作っていたのだが、丁度訪れたクリシェ様はスープを一口飲むと大激怒である。


『ハゲワシ、何ですかこれは?』

『は、その……何か問題が――』

『大有りですっ。美味しい食事を作りたいという気持ち、丁寧さがこのスープからは一切感じられません。この食事を食べて兵士の士気は上がるのですか?』

『いえっ、確かに上がりはしないと思います! 軍団長副官』

『これまで何度も野営の機会はあったはず、ならば何故改善しようとしないのです。ハゲワシは中々悪くない百人隊長だと思っていましたが、クリシェはがっかりです。敵地ならばともかく、安全が確保され、時間の有り余る現状でこのスープは食材への冒涜です。一体何を考えたらこのような――』


ハゲワシという愛称で呼ばれるようになったらしい隊長は、俺達の前で説教を。

基本的にクリシェ様も隊長に関しては評価していた様子で、何かを指摘したり方針に口を出すことはあっても、真っ向から否定することはなかった。

しかしこの時ばかりはよほど気に食わなかったのか、これまでにないほどの大激怒である。


まさに平身低頭という様子でダグラは謝罪し続け、


『ぁ、あの、すみません。今日の料理担当はわたし達一班と十一班で……』


見るに見かねたカルアがミアに声を掛け、生け贄(今日の料理担当は第一班であった)に捧げたことでクリシェ様もようやく怒気を和らげた。

純粋にミアの料理が下手なせいで不味い食事が出来上がったしまったというのであれば、それは仕方ないことだとひとまず納得したらしい。


一生懸命やった結果失敗したのなら仕方ないです、と頷きつつも、とはいえそれはそれだとクリシェ様は口にし、急遽訓練を中止、料理指導が行なわれることとなった。


「ミア、隊の副官がそれでどうするんですか? どの兵士達をどういう順序で動かすかと一緒で、スープにだって食材によって入れ方には順序を考えなきゃいけません。全部一気に放り込んでどうするんですか」

「す、すみません……」

「不器用なのはともかく、丁寧にやろうと意識が大事なのです。一生懸命どうやったら美味しくなるかを考えれば気持ちは伝わるものだとベリーも言ってました。クリシェもその通りだと思います。お料理ですね、食べる人の事をちゃんと考えて――」


などと背後で料理指導が行なわれているのを、何とも言えない気分で聞く。

前回のこともあり、恐らく皆奮起しやる気に満ちあふれていたはずなのだが、肩透かし。

十人前のスープを二班ずつに分かれて作らされている男達――訓練場で一体何をやっているのかという気分は同じだろう。

近くで行軍させられたり、走らされている兵士達がチラチラと『何をしているんだこいつら』と言いたげに視線を送ってくるのにもうんざりする。

それを誰より聞きたいのは俺たちの方であった。


切った食材を鍋に入れようとすると、ベルツは手で制する。


「ひとまず置いといてくれ。真面目に作らんと怒られそうだからな」

「さっきから随分手慣れてそうだが、何かやってたのか?」

「家が元々な。嫌になって飛び出したんだが」

「へぇ、意外だな。包丁は似合わねえが」

「まぁ、その後はお前と似たような生活だったからな。そっちの方が長い」


ベルツは笑うと、おたまでスープを皿に取り、口にする。


「こんなところで必要になるとは、今だけは親父に感謝だ。ぱっと見、料理が得意な奴はいなさそうだ。上手く行けば一位は取れるかも知れんな」


自信ありそうな口ぶりであった。

自分で言うだけあって先ほどから手際も良く、包丁の扱いも鮮やか。

スープに入れる肉を焼いたのは三グループだったが、焼き色も見事であった。


一位になれば明日の訓練は免除、最下位の班の料理指導以外は休みである。

この現状には思うところもあるが、とはいえそうなるならば悪くない。


「そりゃありがてぇな。頼りにしてる――、っ」

「こっちはどうですか? 見た感じ悪くはなさそうですが」


背後からにゅ、と気配もなく顔を出すのはクリシェ様。

存在感しかない見た目だというのに、背後にいると気配がしないのは何なのか。

無自覚なのだろうが、心臓に悪かった。


「は、悪くないスープに仕上がりつつあるかと」


そう言ってベルツが小皿にスープを入れて手渡す。

何とも真剣な顔でその小皿を眺め、クリシェ様は目を閉じ匂いを嗅いだ。


そのまま口にはせず、何とも言えない無言の時間。

ただの味見である。

別に大したことでもないはずなのだが、これまで見たことがないほどの真剣な顔である。

妙に緊張してしまい、俺とベルツは思わず顔を見合わせた。


時間を掛けてゆっくりとクリシェ様は小皿に口付け、またもや間が空く。

芸術品か何かを吟味する骨董屋か何かのように、もったいぶったその様子――ベルツが唾を飲み込むのが見えた。


それからゆっくりと目を開いたクリシェ様はちらりと、投入を待っていたまな板の上の食材を眺め、尋ねる。


「コーラスの葉は何故そのままに?」

「し、仕上げる寸前で入れた方が、香りも、と、飛びませんので……」


やや強張ったベルツの言葉に、銀髪少女は眉間に皺を寄せつつ、静かに頷く。


「具材は大雑把、下処理の甘さで雑味が残っています」

「は、はい……申し訳――」

「しかし同時に、火加減と投入順序の工夫で上手に旨味を出した点は悪くありません。このスープは誰に食べさせるために作りましたか?」

「ぐ、軍団長副官に……薄味の方がお好みかと」

「なるほど、訓練で疲労した兵士に食べさせるものとして作ってもらうつもりでしたが、これに関してはクリシェの伝え方が悪かったかも知れません。とはいえ、食べる相手のことまで配慮された工夫そのものは大いに評価すべきでしょう」


うんうん、と職人か何かのように腕を組み、告げる。


「ベルツ、明日はミア達の班の料理指導を。ハゲワシ」

「は!」


呼ばれた隊長は走って近づき、姿勢を正す。


「ベルツを仮のお料理指南役とします。以降しばらくは兵食を作らせる際、必ずベルツに味見をさせ、必要ならば指導させるように」

「は、畏まりました」

「コーザ、ベルツの仕事を見習い、側で学ばせてもらうように。他の班員も同様です」


そこまで告げるとクリシェ様はベルツに向き直る。

ベルツは慌てて姿勢を正した。


「言ったとおり、素晴らしいお料理とは言いがたい出来です」

「っ……」

「しかし、兵食としてはまずまずの出来。食べる相手のことまで考えられたこのスープのこだわり、気遣いをクリシェは高く評価します。これに驕らず研鑽を重ね、創意工夫を忘れないようにして下さい。あなたならきっと、更に上を目指せることでしょう」


――おいしいスープでした。

そう続けられた言葉にベルツは目を見開き、


「は……! ありがとうございます!」


何とも嬉しそうに敬礼で応えた。

クリシェ様はうんうん、と再び頷きつつ、背を向ける。


「ハゲワシ、クリシェは戻ります」

「は! 手ずからのご指導、ありがとうございます」

「礼は良いです。これもクリシェのお仕事ですから……では」


そうしてとてとてと、砦の方に小走りしていくクリシェ様を全員が見送る。

作りかけの鍋を前に、何とも言えない微妙な空気だけが漂っていた。


「ひとまずスープを完成させろ。夜に食べる。ベルツ、軍団長副官直々のご指名だ、以降はお前に兵食の味見を任せる。抜き打ちで来られた場合に備え、都度料理の基本をこいつらに教えてやれ」

「は、了解です隊長」

「……作業を続けろ」


全員が何とも言えない心境であったが、恐らく一番は隊長だろう。

森から戻れば再度クリシェ様の視察がある、そのつもりで心構えをしておけと口を酸っぱく俺たちに言っていたのだが、それが丸々料理指導で終わってしまったのだ。

以前に比べて甘えが抜け、纏まりが出来た隊の姿を見せようと、恐らくは誰より気合いを入れていたはず――去って行く後ろ姿には哀愁が漂っていた。

一番の被害者と言えるだろう。

実に不憫であった。


「はぁ……まぁ何にせよ良かったな、ベルツ――?」


そう声を掛けると、ベルツはじっとスープを眺めていた。

何やら懐かしむような、遠い目だった。


「どうした?」

「いや……昔のことを思い出してた」

「昔……?」


小皿にスープを、そしてそれを口にする。


「親父は味にうるせぇ人でよ。初めて料理を作ったときから、美味いなんて一度も言ってくれたことがなかったんだ。……それで俺は料理なんてもんが嫌になったんだが――」


それから目を閉じて頷く。


「――でも、久しぶりに作ったスープをあんな風に、美味しいって言われただけで……馬鹿みてぇだが、ちょっと嬉しくなっちまった。別に俺は、料理そのものが嫌いになったった訳じゃなかったんだなってよ」

「そ、そうか……まぁ、良かったな」


一人しんみりした様子のベルツに何も言えず、俺はとりあえず肩を叩いた。


世界最強の私兵隊が生まれた切っ掛けがクリシェ様に剣を見せられたあの日なら、俺とベルツが二人で料理屋をやることになった切っ掛けは、その美味しいの一言に違いない。

剣を見せたのも単なる指導。

美味しいというその言葉も、ただスープを飲んだ素直な感想。

クリシェ様にしてみればきっと、大して深い考えがあった訳でもなく、思い浮かんだままをやっただけ、口にしただけのことだろう。

けれど大抵、他人にとってはそうではない。


クリシェ様の理不尽さというものは、何も剣に限った話じゃなかった。

その存在自体が恐らくは、理不尽という言葉で出来ていた。

何の気なしの行動一つや一言で、あっさり誰かの人生を壊して狂わせ、あるいは変えて――それを気にも留めず、知りもせず、クッキー囓って暢気な顔。


あらゆる天災の最たるものを、クリシェ=クリシュタンドと呼ぶのだろう。

俺は時折、そう思う。

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