孤天水月
――大陸東に位置する東照国、帝の住まう都の膝元にその道場はある。
その門下は千を超え、武術道場としては帝都一。
孤天水月流と言えば東照国において知らぬものなき天下の名門。
大陸においてもその流派の名を轟かせていた。
武芸百般足らずを知らず、武を知りたくば孤天水月の門戸を叩け。
街行く雀もそう語り、その総師範、風間鉄舟斎の剣技たるや無双の境地に届いて久しく、不二の太刀持つ剣聖として数多の武人は彼を崇めた。
魔水晶の灯りに照らされる板張りの広い道場――老人はそこにただ座すだけで、静謐ながらも例えようもない圧を発し、対する男達は胃に鉛を飲み込むが如くの心地であった。
「……ならぬ」
真白くなった長髭を僅かに揺らすように、重々しく鉄舟斎は口にした。
身につけるは着流しの一枚、刀も帯びず、だというのにその言葉は聞くものの喉元に刃を突きつけるような鋭さと重苦しさがある。
「帝のご意向に背こうとするお前達の戯言はわしの胸に秘めておこう。このような馬鹿なことを考える時間があれば、己の研鑽を重ねよ。わしからは以上だ」
「しかし……翁先生はこのままでよろしいと仰るのですか!? 大陸の色髪達におもねり、天を見上げることさえ封じられて! 所詮は海を隔てた外の者、我らが一致団結すれば臣従ではなく――」
「ならぬと言った。それ以上口にするならばわしと立ち合え清十郎、お前達が愚かな道に進むと言うのであれば、わしの責任……わしを斬ってから行くが良い」
齢百を超え、肉が落ちながらも六尺半の長身。
鉄舟斎が立ち上がり、見下ろせば、対する男達はその覇気と呼ぶべき威圧に背筋を強ばらせた。
「高弟十二人、それだけ揃って無手の老人一人殺す気概なく、先のような小賢しい言葉を語っておったのか? 二つに一つだ清十郎。お前に吐いたその唾を拭わせてやる機会はこの先二度とない。……選べ」
ゆらりと近づき、その襟を掴んで睨み付ける。
四十を越えたばかり――未だ老いも浅く、青年とも取れる顔は、殺意を滲ませた師の目を見つめ、僅かに惑い伏せられた。
「私は……翁先生に向ける刃を、持ち合わせてはおりません」
それを聞いた鉄舟斎は深く溜め息を吐き、荒々しく手を離す。
「では行け。わしも今日のことは忘れよう。そしてお前達も二度と口にするな。棒振り一つを満足にもこなせぬ身で、帝のご意向をどうにかしようなどと思い上がりも甚だしい。……天に目を向ける前に、身の内を磨け。分かったな?」
「……は」
そうして男達は去って行き、代わりに現れるのは一人の男。
鉄舟斎を二回りほど若くしたような、濃密な武の匂いを漂わせる男であった。
「何故このことを許した、小十郎」
「清十郎には私より父上からの言葉の方が良いと思いましたので……無論、あいつがこの上更にと言うのであれば、私が父としての責任を果たしましょう」
小十郎は壁に背中を預け、腕を組む。
そして天井を見上げた。
「あれから三十年近く……当時のことを知らぬものばかりです。今日のことは若気の至りとお許しを」
「そう思えばこそ許した。とはいえ、それを超えるならば二度はない。この国とを秤に掛けることになるのであれば、孫であっても容赦はせん。……あの国には決して勝てん」
そう口にして、鉄舟斎は掌を眺めて嘆息する。
「孤天の月を掌中にと、死に物狂いで手を伸ばし……水面の月影を掴んでようやく、中天に輝く月の、途方もない高さを知る」
そして、道場に差し込む月明かりを眺めた。
「……己が水底の鉄舟と気付くには、今の世はあまりに穏やか過ぎるのだろう」
海の向こうの戦乱は、こちらにも音を響かせた。
大陸西の彼方から東の果てまでを制した大国、折武蘭。
十数の国が築いた連合軍を鎧袖一触。
堰を切る勢いで雪崩れ込み、彼らは瞬く間に大陸東を掌中に収めたのだと鉄舟斎の耳にも届いた。
当時の名は風間不二斎。
名の通り、剣において右に出る者なし。
天下一を認められた剣豪として名を知らぬ者はなく、長きに渡る武者修行を終え、筆頭剣術指南役として帝に召し抱えられた。
地位は一時不二斎を満足させたが、剣術指南役という立場は求めていたものとは違うもの。
才ある剣客と斬り合い、生死の境を潜り抜けて生きてきた不二斎にはあまりに退屈な日々。
そんな折りに耳に入った大陸の話には心躍り、国家の存亡を巡る戦いへの期待に胸を高鳴らせた。
しかし多くの武家が徹底抗戦を叫ぶ中、ただ一人帝は冷静であった。
真っ向から戦うは無謀――民のためにも戦を回避し、友好関係を築くべきであると語り、こちらを小国と軽んずる高圧的な折武蘭に対し、おもねるような態度を示す。
徹底して戦を避け、見下すようなあちらの要求を黙って呑むことを決めたのだ。
武家の多くは当然反発した。
大陸の脅威に対し長く独立を守ってきた、この国の矜持を捨てる行いであると。
不二斎はそうした国家の在り方について興味を覚えなかったが、しかし心はそちら側。
再び己が生死の境で剣を振るう機会を求めており、それはそうした頃だろう。
持ちかけられたのは一つの話。
三ヶ月後、折武蘭の使者と共に王国の総大将と英雄――折武理名が訪れる。
それをここで始末し武威を示し、帝の心を変えるのだと。
何とも乱暴な手段で、決して褒められたものではあるまい。
ただ、帝を除けば誰もが大陸の蛮人達との戦を望んでいたし、不二斎がどう答えたところで他の誰かが同様の考えを実行に移すだろう。
どうせ堤が切られるのであれば、己の手で。
国のためではなく、矜持のためではなく、その方が面白い。
そういう考えで、不二斎はその言葉に頷いた。
折武蘭の使者来訪に合わせての天覧試合。
帝の御前で名の知られた多くの猛者が剣や槍、薙刀の腕を競い試合をする。
不二斎の役目は折武蘭における実質的な武の頂点、折武理名をその場に引きずり出し、試合の事故を装い斬殺すること。
そしてその混乱に乗じて帝の側にあるはずの総大将を他の者が仕留める。
天覧試合での勝利の暁には、是非とも剣腕で知られる折武理名と試合を行ないたい――そういう旨で行なった不二斎の事前提案を帝は承諾した。
向こうの承諾があれば、と一言置いた上での返事であったが、恐らく帝にとってもこちらの武威は示しておきたいという気持ちはあったのだろう。
あちらの提案を呑みながらも臣従ではなく、いざ戦いとなればただでは負けぬ。
そういう立場を示す上でも、試合という形であちらの金看板――折武理名を打ち負かすという考えは魅力的であったようで、お前ならば間違いはないと直々に肩を叩き、誇らしげに頷いた。
久しぶりに見た帝の笑顔。
幼い頃から知る細面の青年に、笑顔を宿る様を見るのは久々のこと。
今に思えば苦渋の決断であったのだろう。
体格や剣才には恵まれてはいなかったが、その分、帝は若くして聡明であった。
誰よりも多くのものが見えていただろうし、大陸との戦を声高に叫ぶ武家の声の中、味方もなく。
そんな中で流されず、若き帝だけが冷静に時勢を見据えていた。
その笑顔に心を改めようかとさえ思い、しかしその時の不二斎は愚か。
結局、その流れに身を任せることに決めた。
――視界は広かった。
帝都中央、天風御所の内庭は広く、日々整えられた白砂の庭。
不二斎は対する巨漢を前に落ち着き、陽光に目を細め、そよぐ風に耳を傾ける。
十字槍の某か、名前は覚えていなかった。
『ここは是非、本身で立ち合いたい』
そのような言葉を吐き、手にするは木製の模造ではなく、本身の十字槍。
構えれば中々のものであったが、とはいえ不二斎に及びはしない。
操気巧みな者同士で立ち合えば、得物の長さがそのまま優劣とはなり得ないもの。
操気を扱わぬ者同士であれば得物の長さはそのまま優位となり得るが、それは彼らに一手で間合いを押しつぶす踏み込みを行えぬが故であった。
要は踏み込みと刃圏の問題。
初手を外した場合――あるいは出遅れた場合において、得物の長さはそのまま取り回しの悪さという欠点を露呈する。
そして操気の一足一刀は、その虚の一つで相手の命を取るに足る。
帝御前の天覧試合において、気負うことなく勝ち抜いた十字槍は相応の武芸者であった、
太刀を肩に担ぐ不二斎に対し踏み込まず、見の姿勢。
不二斎の力量を一目で理解するが故の慎重さ。
だが、それは好手とは呼べぬもの。
なればこそ、十字槍の長さを活かし、先手を取り続けるほかあちらに勝機はない。
主導権を手放した――その時点であちらの負けであった。
ゆらり、と姿勢を前に倒すように踏み込みの一歩。
「っ――!!」
その瞬間、十字槍の男は目を見開き、最速の突きを放つ。
しかし、不二斎に動揺はない。
これは不二斎に『誘い出された』突きであった。
肩に担いだ太刀をそのままゆっくり前へと滑らせる。
首を狙った十字槍に体を僅かに傾け、十字を描く刃の枝へと斜めに当てるように太刀で受けては刃筋を狂わせ、更に深く――十字槍の軌道を上へと逃された男の胴が空き、そそこに不二斎は踏み込みながら、折り曲げた肘を水月へと叩き込んだ。
くの字に折れ曲がる男の左腕を取って回り込むと、そのまま腕をねじり上げながら体重を掛けて、白砂に。
その巨体をうつ伏せに寝かせ、制する。
その首に太刀を添えるまではもはや、息を吸うが如くに無造作であった。
「――勝負あり! 帝家筆頭剣術指南役、風間不二斎の勝利!」
感嘆の声と拍手が壇上より響くのを耳にしながら、太刀を鞘に収めて立ち上がり、膝を突いて頭を下げる。
我こそは天下一と集った猛者に対し、三戦を圧勝――これで天覧試合を五連覇という偉業を成し遂げてなお、心に晴れるものはない。
勝利して当然、危うい勝負というものをもう何年も味わっていなかった。
拍手の音が響き、声を掛けられ顔を上げる。
白砂からは一段上がった殿上の間――中央には御簾に囲われた陛下の席。
そして右手には武家を含めたこの国の重鎮が十名ほど。
左手には異人が四名座っていた。
見るからに武威を発する大男を除けば、皆女。
どれが折武理名かという確信は得られない。
皆、女の身にしては武の気配を遠目にも漂わせ、一筋縄ではいかないと感じさせていた。
特に気配が強いのは黒髪の女。
しかし、雰囲気からして恐らく彼女は護衛の兵士だろう。
残るは金髪の女と銀髪の少女。
金髪の方は優美に見える軍服を身につけ、もう片方の銀髪は外套の内側にひらひらとした衣装を着込む。
あちらは宗教的理由と称して帯剣を要求していた。
恐らくはこちらを警戒してのことに違いなく、だというのに明らかに戦うに不向きな服装を選ぶというのは疑問が浮かぶ。
無礼にならぬ程度に、こっそりと目を向けた。
銀髪の少女の目は細められ、真剣な――いや、何かが違う。
口元がむにむにと動く様子。
隣の金髪が静かに、座る彼女の腿の上に手を伸ばすと、銀髪の少女は一瞬肩を跳ねさせ目を見開き、その手を上から押さえて隣を見つめる。
金髪に小声で何かを囁かれると、こくこくと慌てたように頷いていた。
何かの合図かと真剣に考えて見るも、下らない想像――眠そうな妹の腿をつねって叱る姉という構図が浮かんでしまう。
どうあれ、雰囲気は金髪の方が上の立場にあるように思えた。
であれば、銀髪が恐らく折武理名かと考えるが、あまりに幼く見える。
無論、異人を見ること自体あまりないこと。
不二斎達のような東の生まれとは年齢と見た目が大いに異なる可能性もあるが、一見は美しい少女のそれである。
随分と早く成長を止めたにしろ、四十を超えるとは思えない。
ただ、何か強烈な違和感を覚えてもいた。
見た目で言えば、警戒の必要も覚えぬ相手だろう。
その雰囲気はあからさまなほど、戦う者のそれではない。
だというのに不二斎は『彼女も含めて武の気配を感じて』いた。
五感で伝わる何かを超えた感覚が、不二斎に警鐘を鳴らしているのだ。
御簾の向こうで帝が何かを側役に伝えているのが見えた。
側役が御簾の外へ出て来ると異人達の方へ。
恐らくは不二斎との手合わせについてだろう。
側の通訳から改めて伝え聞いた三人が見るは金髪の女。
そして彼女が見るのは銀髪の少女。
金髪の女は少しばかり迷った様子を見せて頷き、銀髪の少女に。
何かを耳打ちされると少女は頷き立ち上がると、側役に何かを伝え、恐らくは彼女のものだろう、革の長靴を持ってこさせると、確かめるように足を通す。
少女の足には無骨。
鋼で爪先と踵が補強された分厚い長靴。
それがただの履き物ではないことは一目に分かった。
「不二斎殿、もう一勝負を」
「……は。畏まりました」
声が掛けられ立ち上がると、勝負のために定位置へ向かい、彼女を待つ。
長靴を履いた少女はとてとてと、不二斎の前に現れ、
「よろしくお願いしますね」
と、流暢なこちらの言葉で口にした。
この国の言葉を話せると思ってなかった不二斎は、驚き咄嗟に、
「っ、こちらこそ、ありがたき栄誉を賜ります」
と口にする。
「栄誉……?」
「折武理名の剣腕、その武名はこの地にも響いております故」
「おるぶりな……」
「……?」
うーんと首を捻り、それからぽん、と手を叩く。
「なるほど、こっちでは発音が鈍ってそうなるのでしょうか」
「発音に関してはご容赦を」
「いえ、クリシェもちょっと変かもですし……まともに使ったの初めてなので。手合わせは真剣で?」
「刃引きや木刀はございますが……いかが?」
何を選んだところで、本気で打ち込むなら一撃で終わる。
特に意味のある問いではなかったが、見ているものに疑われぬためにも一応尋ねる必要があった。
「はぁ……えぇと、何でもいいです。別に真剣でも間違って殺したり殺されたりはしないので、安心して下さい。遠慮なくで良いですよ」
微笑を浮かべて告げる言葉は傲慢そのもの。
先ほどまでの試合を見た上で告げるのだ。
もはや少女への油断はなかった。
「では、このまま」
「クリシェはそっちに立てば?」
「……はい」
彼女はやはり童のように小走りに、とてとてと向かいの立ち位置に。
振り返り、お互いに一礼を――不二斎が腰の太刀を、彼女が右手で後ろ腰の曲剣を引き抜いた瞬間だろう。
「っ……」
好天から突如、嵐に変わるが如く――空気が変わり、圧が変わる。
風が嫌な冷たさを纏って頬をなぞり、明るいはずの日差しが陰るように。
始め、という合図さえ、遠い声のように響いて消える。
油断はないとつい今し方覚えた実感、己の間抜けに気付いたのはその瞬間であった。
その実感こそ、不二斎の油断という他ない。
少女が手にするのは、何とも小振りな曲剣であった。
刃渡り一尺足らず、剣と言うより鉈の長さ。
いかに得物の長さが優劣を決めぬとはいえ、それはあまりに短い得物に見えた。
しかし、女の腰のように、淫らな曲線を描く異様な形状。
それが帯びる背筋を泡立たせる気配は、既に不二斎の首にその刃先が添えられているかのようで、こちらを見つめる紫の瞳に、体が強ばりを覚えていた。
蛇の如く無機質な、捕食者の瞳。
かつて討ち取った大蛇でさえ、これほどまでにぞっとする気配を持ちはしなかった。
その見えない圧を断ち切るように、不二斎は抜いた太刀を正眼に構える。
おぉ、と静かな驚きの声が周囲から響いた。
不二斎はこの十年、構えという不自由から脱し、無形という自由の中に身を置いていた。
水がそうであるように、無形の刹那に流動無限の形を刻み、いかなる相手、いかなる形を相手にしても有利を取っては圧倒する。
それこそ剣の極みであると疑わず、そしてそれを証明し続けた。
だが、同じく無形。
柳の如くにだらりと垂らされた小曲剣の圧。
それを前にして不二斎は、拠り所なき無形の境地に身を置くことへの恐ろしさを覚えたのだ。
心を濁らされた時点で、無形は有限に。
凍った水が流れぬように、滞っては身を縛る。
正眼という構えを拠り所に切っ先を向け、その圧を切り裂かねば、この少女の前には立つことすら難しい。
一目に分かる、己を上回る無形の構え。
なるほど、これが折武理名。
天下無双と呼ばれた不二斎が、目に宿しては手を伸ばす、孤天の月が目の前にあった。
水鏡に囲い捕らえても、決して手には出来ぬ極みの頂き。
「……お見事。よもや今日、これほどの出会いがあろうとは」
「……?」
「あなたを称する天剣とは、水鏡に月を浮かべたまやかしではない」
口から漏れるは称賛であった。
折武理名は水月を超えた境地――構え一つで不二斎に敗北を思わせる、そんな場所に立っている。
折武理名とは天剣を意味する呼び名は聞いた。
だが呼び名とはいつも過剰なものだ。
相応の剣達者であるのだろうとは思いながらも、不二斎の考える天剣の境地にはほど遠いものだろうと諦めを覚えていた。
人が決して手の届かぬが故の天。
水月流と名付けたのも、己が決して至りはしないという確信があったからだ。
己だけではなくこの天下、果ての未来まで辿り着いてなお、孤天の月に手の届く者などありはしない。
そんな不二斎の諦観を、目の前の少女はただ向き合うだけで改めさせた。
「されどその小さき体では限界もありましょう。……勝負においての優劣ではない」
心技において、彼女は確実に不二斎に勝っていた。
だが、その小さき体、手足では限界もある。
体という生まれついての才能――その一点で勝負は出来る。
後は己が、彼女の境地にどれほど近づけているかというだけのこと。
澄み切っていると考えていたはずの心は波打つ。
磨き抜かれたと考えていたはずの技に曇り。
それでもなお鍛え抜かれたこの体には、それまでの歴史が積み重なる。
物心ついた頃より剣を振っては幾星霜。
喰らい、寝ては、剣を振り、もはや本能の如くに齧り付いては道を極めんとし、己は必ず頂きに到ると疑わない。
肉に宿り刻まれた執念が、突如現れた途方もない壁に挑む気概を呼び起こす。
「……参る!」
先手は不二斎――両者にあった距離が縮むかのような、そうした錯覚と驚愕を見るものに抱かせる神域の踏み込みであった。
速い、ではなく、ただただ早い。
人の意識が捉え損ねるほどに滑らかな、無駄のない初歩。
ただ一歩を踏み込む。
その所作そのものが天下無双の証明であった。
折武理名という存在を、天剣とは何かを知る者でさえ、驚きと称賛を覚えるほどのもの。
されど銀の少女は驚きもなく、僅かに重心を後ろに預けての紙一重。
左から走った、文字通り空気を凍らせるような首への横薙ぎを薄紙一枚で躱して見せた。
不二斎に驚愕はなく、浮かぶは惜しみない称賛。
この少女はまことに、孤天の剣を極めし者であった。
間合いの広さを活かした遠間からの一振り。
喉を一寸切り裂くためだけの、過小過大もない神懸かりの一太刀。
それを文字通り、一切の無駄もなく躱してみせる折武理名はもはや、人を超越していた。
考え得る限り無駄を省いた踏み込みと、剣の運び。
それを寸分、紙一重の狂いなく見切り躱してしまうその瞳は、確信を持っていた。
不二斎がその五体を自在に操り、可能な限り最善の一太刀を振るったとして、今居る場所には紙一重で届かないのだと、一目見るだけで理解していたのだ。
そしてその一太刀を躱した以上、その刹那においての主導権を手にするは折武理名。
間合いは縮んだ。
少女の歪な得物――その短さという弱味をなくし、利を得た以上、不二斎に勝ちはない。
不二斎が神懸かりの一太刀を振るうように、彼女もまた呼吸をするが如くに造作もなく、神懸かりの一閃を振るうのだろう。
理論上の最善を尽くし、凌いで二手。
三手で必ずや彼女は不二斎の首を獲るという確信を得ていた。
諦めと称賛を抱きながら、この勝負を空前にして絶後の一勝負として終わらせるために、全身全霊を尽くして凌ぎに回る。
最善を尽くせば二手を凌げるという直感。
紙一重の道を通してようやく辿り着ける、三手目の敗北。
それを現実のものとしなければ、不二斎がこれまで振るってきた剣に意味はない。
ゆらり、と陽炎のように少女の右腕が揺らぐ。
千あれば千の首を切り裂くだろう初動はしかし、どこまでも緩やか。
一切の力みもなく、起こりも見えない。
実体を持つにも関わらずそよ風の如くであり、そして刹那に走る烈風でもあった。
刹那さえ明確に感じ取れるほどの深い集中があればこそ、捉えることが出来る剣。
それでも気付いた時には中程にあり、既に首を切り裂く寸前であった。
ただ避けるでは遅い。
受けも間に合わない。
なればこその攻め――相打つ覚悟の剣にて躱す。
手の内で剣を傾け、袈裟から放つ最速の一刀。
少女の反応はもはや、早さと言うより予知の域であった。
手の内で剣を傾け始めたと同時に剣を引き、袈裟から振るわれる太刀を潜って不二斎の右側面に。
慣性を殺さず、着地とも言えぬ軽やかな右足での一歩を捻り、左にくるりと回転しながら背後を取る。
その歩法はまさに、千変万化の死の具現。
背後を取るその着地は、そのまま踏み込みであると感じ取る。
次の刹那を更に刻み、その踏み込みは容易に不二斎の首を裂くだろう。
鎌鼬の風が如く、目にも見えぬ刃が常に首筋に添えられている。
先の一閃を避けられるだけでも万に一人いるかいないか。
ほとんどの人間の目には捉えられぬ一瞬の攻防。
それを捉えたものであっても、惜しみない称賛を贈るに違いない。
不二斎以外の人間が同様のことをしたならば、不二斎とてそう思う。
しかし不二斎はそれで十分とは思わない。
真価が問われるのは次の一手。
それを凌いでこそ、剣に全てを捧げた不二斎のこれまでが報われる。
刹那を刻み、時を止めるような時間の中で、思考は火花の如くに咲いて散り――
「――今だ、異人達を討て!!」
突如、その声が響いた。
不二斎に斬り込むはずの彼女の一歩は、次の刹那に不二斎を置き去りに。
目を向けた瞬間には殿上に駆けていた。
不二斎が声を掛けられた者達とは別。
同じく、折武蘭への臣従を拒み、この場で破談にさせようと考える者達がいたのだろう。
本来は不二斎が折武理名を討ち、そして号令を掛ける手筈。
こちらの作戦を動きを事前に知ったか、あるいは偶然か。
どうであれ、その瞬間に感じたものは怒りであった。
不二斎がこれまで重ねてきた全て。
その集大成と言うべき一勝負、この上ない敗北を穢されたのだ。
「狼藉者を殺せ!!」
怒りが火を放つように叫び、すぐさまに少女を追い――だからこそよく見えたのだろう。
声を響かせた武家の長、大将軍が腰の太刀を引き抜き、異人に向かう一歩を踏み出した瞬間、銀の風が通り過ぎるようにその首へと赤い花を開かせる。
男と共に立ち上がった数人が呆気に取られ、襖を開いて現れた仲間もまた同様。
次の瞬間には宙へと跳び上がり、折武理名は天井を蹴って頭上から更に一人。
融通無碍。
狙って虚を突いたのではない。
曲芸染みた動きであるのに、そう思わせぬほどに自然な動きとして目に映っていた。
歩き、走り、踏み込むように、彼女は当然のものとして天井を蹴るのだ。
続いた不二斎が一人を斬り殺す最中、折武理名は更に二人を斬り殺す。
横目に見るその姿の美しさはまさに理そのものであった。
刃が一度振るわれれば、それしかないような軌道で走り、そうあるべきまま振り抜かれた。
更に二人を斬り殺せば、その内に彼女は三人。
ただ人を斬り殺すのではない。
人を斬りながら次の算段を明確に組み立て、全ての動きにおいての理想を体現させていた。
先ほどの一対一での立ち会いだけではない。
根本の在り方が彼女と己では違い、そして圧倒している。
それは恐らく、戦場という混沌で磨き抜かれた剣なのだ。
残った三人の異人もまた腰の剣で数人を斬り、白砂の上に。
それに合わせるように折武理名も白砂に降り立つ。
「静まれぃッ!! 余の面前でよくも、このような恥さらしな真似を……!!」
「っ、陛下……」
細面の青年は御簾を潜り、怒りをその顔に滲ませ左右を見渡す。
咄嗟にその身を守るように不二斎は立つ。
「良い、不二斎! 余の客人に対しこれ以上の無礼を働き、余を愚弄するつもりならば、その前に余を斬り捨てるが良い。今この場で、帝の剣を見せてやろう……!!」
そして拾った太刀を手に取り、帝は周囲を睥睨する。
裂帛の気合いというべき声音。
しかし興奮か、あるいは怯えか。
その手が僅かに震えているのを見て、不二斎は吠えた。
「――陛下の御前である!! ……趨勢は決した、剣を置けぃ!」
決して剣の腕が立つ方でもない。
それは不二斎の役目であった。
その声と共に男達は剣を置き、両手を突いて平伏し、
「捕らえよ!!」
騒ぎを聞いて駆けつけた者達が男達を拘束していく。
そして帝はそれに構わず白砂の上に降り、深く頭を下げた。
陛下、という声が響いたが、帝は取り合わない。
「頭を下げて許されるものではないが、この不始末、深くお詫びする」
その言葉を聞いた折武理名は金髪の女に通訳するように何事かを告げ、彼女は何事かの言葉を返す。
こちらを向いた折武理名は口を開き、言った。
「えーっと、お顔を上げて下さい。陛下のお気持ちは伝わりましたが、血が流れてしまった以上、今日はこれで帰ります。後日改めて場を設けて、そこでまた落ち着いてお話しましょう、とのことです」
「……ありがたい」
帝が顔を上げると、折武理名は指先で唇をなぞるように考え込み、首を傾け不二斎を見た。
「それと中断しちゃいましたけれど、一応手合わせの続きした方が良いですか?」
不二斎は一瞬呆気に取られて、帝と目を合わせる。
今ここで行なわれた出来事がまるでなかったことかのように、彼女は平然としていた。
事実、彼女に取ってはその程度のことであったのかも知れない。
「ありがたきお言葉――しかし、あの手合わせで己の修練の甘さを感じ取った次第。改めてまたいつの日か、その機会を頂けるのであれば是非、喜んで」
「はぁ……そうですか。えへへ、じゃあまた機会があれば」
そう言った彼女を見て、ふと違和感に気付いた。
あの僅かな時間に六人を斬り殺し、そして不二斎もその側で三人を斬り殺している。
不二斎は体中に血を浴びていたが、彼女はそのひらひらとした外套にも、その美しい銀の髪にも、一滴の血すら浴びてはいなかった。
手合わせをした時のまま――美しい姿のまま。
それを気付いた瞬間、その高みを理解し、体中の力が抜ける。
これまで見ていたものはそも、水鏡ですらなかったのだ。
水底から見上げる天に、揺らぐ月影を目にしていただけ。
必死になって顔を出した水面の上。
そこから見上げた輝きの、なんと美しいことだろう。
その日以来、不二斎は驕ったその名を改めた。
己は水底に沈む鉄舟――孤天の月は、遙か彼方。
幸いにして、折武蘭はその反逆を理由に大きな何かを求めなかった。
軍総司令と王姉への殺害未遂である。
戦争も仕方なしと諦め掛けた帝に、言葉通り対話の機会を設け、以降の臣従を誓うならばと半ば不問の扱い――山と森が多くを占める土地、大陸より離れた島というのも理由にしろ、寛大に過ぎるものだろう。
帝は大いに喜び、安堵し、鉄舟斎の肩を叩いた。
お前という忠臣が側にいてくれて助かった、と。
何も知らぬ帝の中ではそうなのだろう。
折武理名に勝らずとも負けず、武家の狼藉に対していち早く行動し、それを阻止した忠臣。
それがあちらに与えた心証も大きいのだと考えているようであった。
本来鉄舟斎もまた、あの狼藉を企てる側であったという事実に対して、欠片の疑いも持っていない。
いち早く動いたのも、あの勝負を邪魔されたことへの怒りであった。
何か義憤があった訳でも、政治的な都合でも、帝のためというつもりもなく、どこまでも個人的な噴飯物の軽挙妄動。
けれど帝は鉄舟斎を信頼し、二人といない忠臣であると褒め称える。
以来、鉄舟斎はそんな帝の信頼を裏切らぬよう、その言葉を嘘にさせないよう、その忠臣として尽くすことを心に誓った。
それより三十年弱――両国の関係は帝という名君の存在もあり良好ではあったが、そのような出来事も過去となり、忘れられつつあった。
折武理名に負けられなかったことがむしろ良くなかったのだろう。
鉄舟斎は折武理名に勝るとも劣らぬ剣聖であり、本気の勝負となれば勝者は鉄舟斎。
天下無双とは鉄舟斎なのだと語るものが現れ始めた。
大陸一の英雄も、この島国の剣聖には勝てぬのだと。
そして折武蘭など、この国の強兵あれば必ずや打ち負かす。
彼の国におもねる現状を打破し、帝の威光を知らしめるべきと語るものが増えつつあった。
情けないことに鉄舟斎の門下にさえ、そうした考えに傾倒する愚か者がいる。
そんな折りに帝から聞かされたのは、折武理名の来訪。
鉄舟斎は帝に頭を下げ、生涯最後の戦いを、あの日の続きを行ないたいと願い出た。
あの日逃した三手目の敗北を――天下無二の戦いを己の人生に刻みたいのだと。
場所は道場――驕り目を曇らせた、高弟達の前。
到着を知らせる声が響き、現れたのはあの当時と変わらぬ一人の少女。
「お久しぶりです、不二斎さん。随分前の手合わせの続きをと聞いたのですが」
その容姿に怪訝を浮かべる者達を無視して、鉄舟斎は深い一礼を。
「は。もう一度……お手合わせをと願っておりました」
その言葉に、腰の太刀に手を添えながら立ち上がる。
それを見た彼女は左右の者達に目をやりつつ、こちらを見ては微笑み尋ねた。
「はい。じゃあとりあえず……ええと、早速やりますか?」
あの時は三手であった。
しかしあれから三十年――この人生、その集大成の剣を振るう日。
果たして己は、どこまで近づけたのだろうか。
「それでよろしいのであれば、是非に」
そして今日、どれほど近づけるのだろうか。
子供の頃に剣を学んだ時のように、太刀を引き抜いた瞬間には敗北の予感があった。
けれど彼女が曲剣を手にしても、心は凪いで鏡面の如く、高き月影を写し取る。
かつては水月流と名乗った。
天に輝く、孤高なる月――それが決して人の手には届かない幻であるとの諦観から、己の剣を水面の月になぞらえて。
事実として己が手にするは水月であろう。
けれど今、目の前にあるものはそうではない。
彼女の手には輝かしい月の理があり、確かな極みを携えていた。
幻ではなく、まやかしではなく、愚かな諦観を笑い飛ばすような天の剣。
かつて水鏡に宿した夢幻の月は泡沫に――あの日から、その月の輪郭だけを捉えて映した。
互いに同じく、構える剣は無形無限の垂柳。
彼女を前に、そうあれたことが誇らしい。
「いつでもどうぞ、不二斎さん」
「その名はあの日、改めました。……あなたを前にはおこがましい」
「……?」
ふらりと崩れ落ちるように身を沈めれば、同じく彼女も身を沈める。
踏み込み一つも理の極地。
孤天の月は変わらず彼方に――眺めて笑い、目を細めた。
これから振るうは己が剣の集大成。
けれどそれは、勝つための剣ではない。
――あの日の敗北を、取り戻すための剣であった。
――三十年ほど前。
『結構手紙で挑発しておきましたもの。こっちが少数で行って隙を見せれば、多分あっちの軍人――武家連中が暴れてくれると思いますから、適当に警戒しておいて下さいまし。お人好しそうな帝に貸しを作るのが目的ですもの、ちゃんとおねえさまの手綱を握って、殺すのも最小限に抑えてくれると助かりますわね』
「……あなたね、またそうやって面倒ごとを――」
『文句を言わないで下さいまし。わたくしは一人でこっちのお仕事をして、それはもうすっごく大変で忙しいのですわ。今もお仕事中で――ちょっとアーネ様、腰が痛いですわ、力を入れすぎですの。……お仕事中なのですわ』
「……すぐに分かる嘘を吐かないでちょうだい」
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