天地開闢、悠久長路 終
最初の一年はあっという間に過ぎた。
新たな体や環境に戸惑い、再会に喜びながらの一年であった。
最初の十年もあっという間に過ぎた。
外に買い出しに行くようになり、色んな街や文化を見て回る十年であった。
最初の百年もあっという間に過ぎた。
傍観者として、偉大なる女王がいなくなった世界を遠目に眺める百年であった。
かつてはきっと、世界の中心と呼べる場所にいたのだと思う。
偉大なる女王陛下やクリシェ様、そしてセレネ様達の英雄譚と大陸統一記。
そして歴史に刻まれ、伝説となるだろうアルベラン王国の中心――その小さなお屋敷で暮らしていたのだから、その言い方はそれほど間違ってはいまい。
むしろ、きっと、などという言い方をする方が不自然だろう。
嵐を天から見下ろせば、その渦を巻く中心は凪だという。
わたしの実感が薄いのは、嵐と言うべき彼女達の側で過ごしたからこそなのかも知れない。
多分、元々大きな齟齬があるのだ。
例えばアルガン様の死など、外の世界から見れば本当に小さな出来事の一つで、外の人間からは気に留めることもないくらいのことであっただろう。
女王陛下のお側付きとは言え、一使用人が病で倒れたなどと話題にすらなるまい。
けれどわたしからすれば――そしてお屋敷で過ごす者からすれば、まさに天地を揺るがす大事件であり、そしてそのうねりが結果として世界全体に波及した。
わたしはそれを心のどこかで当然のことだと感じていて、けれど考えてみればどこまでも不自然で、不条理なことに違いない。
――お屋敷はある種の神の国であった。
アルベランで信仰されていた神話では、怒り狂った主神オルドーリスの足踏みがつるつるとした美しい大地を壊して起伏を生み、山と谷を作り、美の神シャーセレネが流した涙が雨を降らし、川や海になったのだという。
他にも神々の感情一つで太陽が生まれ、月が生まれ、星々が生まれ、昼と夜が生まれて季節が生まれ。
子供の頃はすごいすごいと驚き感動していたものだが、大人になってみれば何とも迷惑な神様だ、と考えるようになった。
感情一つで天地を作り替えてしまうような存在。
そこに住んでいる者達にとっては迷惑でしかなく、それは当然神々を恐怖し崇めて許しを乞うことだろう。
神とは理不尽なものを示す言葉で、そしてアルベランとは神の子を示す言葉。
わたしが見てきた『アルベラン』は穢れなく純真、歳を取らない子供のようで、身近な小さな世界の幸せだけを願う美しい少女達。
彼女達を愛する人達は多くいたが、反面、憎み、恐れる人達もいて、その度わたしは悲しく思ったものであった。
彼らは盲になっているのかも知れない、と考えて、けれど盲になっていたのは恐らく自分の方なのだろう。
使用人が死んだという悲しみで、世界を作り替えてしまう存在。
その片手間に大陸をあっさりと統一してしまうような存在。
まさしく彼女達は言葉通り、神話そのものの存在――感情一つで天地を揺るがすアルベラン。
そんな神の国に知らず入り込んだわたしとは、全く違うものが彼ら達には見えていたのだのだろう。
その感情一つで世界の全てが変わってしまうとなれば、誰だって恐ろしく感じるものだ。
そしてそう感じるであろうことを、薄らと理解していたのかも知れない。
あの当時のアルベラン王国は、紛れもなく神の国であった。
そのつもりならば何百年、何千年、それこそ永遠の平和と安定をクレシェンタ様はもたらせたのだろうが、それはその他の人々にとって、神の意にそぐわぬ不条理全てを併呑し、全ての理不尽を強要されるということでもある。
あれほど強固に思えたアルベランが崩壊し、クラインメールの時代へと移り変わる様を眺めると、ある種の罪悪感や寂寥感を覚えながらもこれで良いのだと思えた。
恐らくは、このような形が良い、と決めたクリシェ様にも近しい考えがあったのだと思う。
それが意識的なものか、無意識的なものかはともかくとして。
「えへへ、何だか長くて呼びにくかったので、ねむねむって愛称を付けたのです。目がすっごく細くて、最初に会ったときは立ったまま寝てるんじゃないかって思ったくらいで」
「なるほど……ふふ、クリシェ様らしいですね」
クリシェ様とアルガン様の後ろを歩きながら、周囲を眺める。
アルベナリアの様子は以前とそれほど変わっておらず、あちこちに掲げられる紋章が少し違うくらいだろう。
三日月を頭上に頂く都の紋章――クラインメール。
月明かりの遺産、と意味するそうで、名前の通り皇帝はクリシェ様のお知り合い。
二代目魔術研究院長(初代はクリシェ様である)のお孫さんで、言葉を交わしたことこそないものの、まだお若い頃に何度か見たことくらいはあった。
クリシェ様がそこそこ賢い、と仰るくらいなのだから、天才中の天才なのだろう。
ましな方、頭は悪くない、などとクリシェ様に仰る方で、凡人からすれば秀才、天才である。
すごく頭が良いという表現をアルガン様以外に使っているところを見たことはなかったし、ファレン辺境伯を除けば賢いという表現自体稀なもの。
印象に残っていたのはそのためで――あの方が、と思えば中々に感慨深い。
「今では皇帝なんですね……すごく立派になりました」
最初はこのくらいだったのですが、と腰の辺りに手をやり、わたしとアルガン様は笑う。
クリシェ様やクレシェンタ様は一度見たり聞いたりしたことを一切忘れないという。
何十年前の何日に何をした、などとその日のスケジュールをさらさらと語って聞かせることさえ出来たし、本は一度ぱらぱらと捲れば一字一句暗記してしまうほど――厳密に言えば忘れることはあるらしいのだが、それは単に頭の中の図書館(少し覗いてみたい)に本を探しに行かなければならない、程度の話で、思い出せないことはないそうだ。
その凄まじい記憶力が原因なのか。
特にクリシェ様は初対面の印象を強く焼き付けてしまうようで、初めて会ったときが子供なら、いくつになっても相手を子供扱いで接してしまう癖があった。
おねえさまはそういうところも不器用、とクレシェンタ様は仰っていた(クレシェンタ様はそういうことはないらしい)が、しかしどうにも、それがクリシェ様らしくて良い。
クリシェ様の記憶図書館では、本の表紙に初対面の顔でも描かれているのだろう。
アルガン様がそう、楽しそうに仰っていたのも何年前のことか。
毎日日記を書いているため読み返せばわかるのだろうが、日記だけでも相当な量になっていた。
セレネ様に日記の保管庫を作ってもらった(主人を働かせるのはどうかと思ったものの)こともあり、時折閉じこもってパラパラと見返すものだが、それだけでも数日掛かってしまうもの。
一字一句、情景から言の葉一つまで――その日記以上に克明な内容が常に頭の中にあるというのだから驚きである。
恐らくその頭の中の図書館には、水平線の先まで記憶の本棚が並んでいるのだろう。
多分クリシェ様のいらっしゃる中央、その机の上にはお料理の本とアルガン様語録が山になっているに違いなく、その光景を想像するだけで少し楽しい。
クリシェ様がクレシェンタ様にお説教する際に用いる言葉は大抵アルガン様からの受け売りで、その度クレシェンタ様の怒りの矛先がアルガン様に向かうのはお屋敷の恒例行事。
アルガン様はろくな事を教えない、というのはセレネ様とクレシェンタ様共通の見解だそうで、そうした追及をするすると言葉巧みに身を躱すアルガン様を見るのは密かなわたしの楽しみである。
そうしたやり取りに戦々恐々としていたのも今は昔。
お屋敷ではアルガン様とセレネ様を中心に口論や揉め事が絶えないが、そうした口論や揉め事が繰り返される日々の何と平和なことか。
内戦や戦争、悲劇に見舞われ――多くの事を乗り越えた先で、子供のような口喧嘩。
世界の外にひっそりと建つ、永遠のお屋敷。
字面を見れば何とも高尚なイメージが掻き立てられるものだが、ここにあるのは非日常的な何かではなく何の変哲もない日常であって、そしてそれを誰もが望んでいる。
それを実感する度に心の底からほっとするのだ。
この、些細な日常を誰もが愛おしく思っているのだ、と感じるほどに安堵する。
「何だか不思議な感じがしますね、こうしてこの街を歩いていると」
「不思議……?」
「……十年も住んでたはずなのに、まるで初めて来た場所みたいですから。ガーゲインにいた頃は毎日のようにクリシェ様と買い物に出かけたりしてたはずなのに……」
アルガン様はほとんどを王領、お屋敷の中で過ごされた。
立場上は必然――外に出た回数で言うなら、アルガン様が最も少ないだろう。
「こうして街を歩いたり、買い物をしたり、すごく当たり前で普通のこともあの頃は全然で……ふふ」
アルガン様は目元を柔らかく、周囲の町並みを見渡した。
「……いつか大した用事もなく、のんびり街に出て、あちこち見て回ったり、買い物とかしてみたいなって思ってたこと、今になって思い出しました」
それから、夢が一つ叶いましたね、と楽しそうにくすくすと笑う。
何か用事があれば、わたしやエルヴェナ様が率先して。
最も仕事が出来るアルガン様に手間を取らせる訳にはいけない、などと気を遣っていたつもり――けれどその言葉を聞いてふと、逆だったのではないかと固まった。
思えばアルガン様は、そうした一見無駄にも思える時間こそを、誰より大切にされる方である。
『アルガン様、どちらに?』
『お嬢さまがどうやら昼食のバスケットを忘れたみたいですから、届けてこようかと……』
『お任せ下さいっ、わたしが代わりに!』
『え、えぇと……仕事も目処がついてますし、クレシェンタ様はもうしばらくは起きてこないでしょうから、アーネ様は少し休憩を――』
『大丈夫です! アルガン様こそお休みを……!』
『……は、はい。では、お願いします……』
例えば外をのんびりと歩きたい日もあったりしたのだろう。
スケジュールにゆとりを作って何をするでもなく、時間を贅沢に使うことをアルガン様は好まれた。
アルガン様は不真面目で時間を無駄に使ってばかり。
そんなことをクレシェンタ様はよく仰って、ある意味それは正しい評価。
アルガン様自身、自分は不真面目なのだと仰ることがよくあって、それは本当に謙遜ではなく本心なのだろうと今では理解していた。
超人的な速度であっさり仕事を片付けながら、かと思えばクレシェンタ様のわがままに延々と付き合ってみたり、お茶をしてみたり、ぐるるん様で遊んでみたり――時間を優雅に贅沢に、浪費してしまうのがアルガン様。
お忙しいのに大丈夫なのだろうか、と考えていたものの、むしろ多分、そのためにこそアルガン様は日々の仕事をこなしておられるのだ。
王領に来てあっさりと環境に馴染むどころか整えて、アルガン様はきっとどんな場所でも平然と、当然のようにやっていけてしまう方なのだろうと単純に思っていた。
けれどきっと、ガーゲインで暮らしていた頃と比べて、不自由に感じることや、困ったことや大変なこと、我慢していたことの一つや二つは当然あったに違いない。
今更ながら、そんな当然のことに気がついて目を泳がせた。
「えへへ、これからはもっともっと、色んな街に連れて行きますね。今は平和になったみたいですし、一緒に行きたいって言ってたアーナだとか、他にも色んな山とか海とか……」
「そうですね。色んな所を見て回りたいです」
「はいっ、宇宙だとか……あ、月とかも良いですね。砂と岩しかないのですが、星がよく見えますし、この星もきらきらの宝石みたいで綺麗なのです。ベリーも多分喜んでくれると思いますっ」
「まぁ。ふふ、それは楽しみですね」
そしてクリシェ様の様子を見て、ああ、と思う。
多分クリシェ様は、そんなアルガン様を理解していたのだろう。
自分達を知っている人間がなるべくいなくなってからということで、この周辺は避けてはいたものの、出かけられるようになってからは珍しいくらいにクリシェ様が旅行先の提案をしていた。
買い出しも兼ねてクレシェンタ様を連れ、事前に世界中を見て回り、景色の良い場所を下調べしていたらしい。
こうこうこうなっていて、とても綺麗な景色が見えるのです、とアルガン様に説明するクリシェ様――恐らくは、クリシェ様の良い景色、綺麗な場所とはそういうもの。
アルガン様が喜ぶ景色が、クリシェ様には綺麗な景色に見えるのだろう。
ただこうして街を歩いているだけなのに、クリシェ様の目はきらきらと輝いて見えた。
まるで周囲の景色が目映く光り、その輝きが反射して見えるかのように。
アルガン様の周囲をくるくると忙しなく。
あそこのお店は、こっちのお店はなどと誘う、クリシェ様のはしゃぐ姿。
後ろから見ているだけで、胸が温かく――それがじーんと目頭に昇りそうになって首を振る。
アルベランの崩壊という、大陸中を巻き込む大戦争が起きたのも少し前のこと。
こちらのことには関わらないと決めてはいたが、やはり無関心というわけには行かず――どうなっているのかと多少不安に思ってはいた。
けれど、久しぶりに訪れたアルベナリアはほとんど記憶のまま。
そんな場所で、クリシェ様はアルガン様と共に、何とも幸せそうな笑顔を浮かべていた。
気兼ねすることも、心配することもなく。
引っかかったような、そんな何かを感じるのではないかと思っていた。
色々な事を考えればこれが最善――そうなるようにクリシェ様やセレネ様はあちらでもアレハ様達に色々と根回しをしていたし、やるべきことは行い、戦の絶えない大陸に百年の平和をもたらしたのだ。
一時、この世界に歴史に残る平和を築き上げ、とはいえそれでも、ちょっとした負い目のような何かがあったのだと思う。
ただ、見ようによっては更なる平和を放り投げて、自分達だけが幸せになった。
そう見えなくもないし、知ればそのように思う人間だっているだろう。
そのせいで王国は分裂し、戦争が起き、死ななかったかも知れない人が死んだのは事実なのだから。
こちらに残した罪悪感。
もしも戦争が長引き、泥沼になれば、それはずっと強まったはずで――だからこそ、このように戦争があっさりと終結し、次の時代へと進もうとしていることを嬉しく思う。
クリシェ様にキラキラと憧れの目を向ける(愛称通り非常に目が細い方であったが)少年の姿を思い出し、もしかしたらこれもクリシェ様に捧げるための平和なのかも知れない、と考えるのは考えすぎだろうか。
何にせよ、この平和と幸福はわたし達だけのものではあるまい。
「あ、コーザ達の店です。まだちゃんと残ってるみたいですね」
「夜明けの三日月……クリシュタンドの簡略紋を?」
「はい。宿をしながら普通にお料理を出したりしてるお店なのです。行く度に美味しくなって、簡略紋は十七回目に行った時ですね。あんまり高い食材は使ってないのですが、セレネもクレシェンタも美味しいって……アーネも結構好きでしたよね?」
「はい。すごく美味しいお店でした」
名前の通り、夜明けと三日月の描かれた看板の横に、クリシュタンドの簡略紋。
右手に見えるその店も、かつてのままでそこにあった。
味付けは少し濃いめでわたし好み。
繊細で芸術的、上品なアルガン様(に教わったクリシェ様達含め)の料理とは違い、庶民向けというべき料理を出す店であったが、それはそれでこれはこれ。
そういう料理はそういう料理で美味しいもの。
値段からすると非常に美味しい店であり、全員で何度か食事にも行っていた。
「なるほど……そう言われると興味がそそられますね」
「えへへ、セレネもまだあったら久しぶりに食べてみたいって言ってたので、今日の夕食にどうかと思ったのですが……」
「良いですね。わたしも食べてみたいです」
「じゃあ決まりですね。クリシェも簡略紋を許した責任がありますから、代替わりして酷い味になっていないか確かめておきたいのです。コーザもそうなってたら遠慮なく文句を言ってくれ、って言ってましたし」
うんうんと頷くクリシェ様を見て苦笑する。
簡略紋を許されたとき、コーザ様とベルツ様が涙を浮かべて抱き合っていたのを思い出した。
城下町の名店としてそれからも繁盛し、立派な店構えは古色を帯びながらも当時のまま。
きっと懐かしい料理を出してくれるのだろう。
無論それぞれがそれぞれの幸せを選び、望んだことは確かだろう。
けれど、多くの方がクリシェ様の幸せが願われたからこそ、きっと今があるのだと思う。
「あっちにはですね、ミアとカルアの道場があるのです。結構大きい道場で――」
懐かしい景色を見て、日々の些細な幸せを享受するほどに、そんな方々への感謝の念が湧いていた。
こうした景色も永遠のものではないだろう。
いつかはきっと薄れていくもので、けれどそれは悲しいことではない。
優しい思い出の中へと、溶け込むように霞むだけ。
柔らかい別れの中で、いつまでも消えることなく。
――わしはもう長くはあるまい。
ある日、ガーレン様の部屋でお茶を飲んでいると、そんな言葉を聞いた。
「近頃は自分の死んだ後のことを、よく考える」
「ガーレン様、そんなことは――」
「別に後ろ向きな話ではない。ただ、人はいつか死ぬもので、わしは他の者より少し早く、クリシェや君たちから離れることになると……それだけの話だよ」
言葉通りに、暗いものを感じさせない、いつも通りの優しい声音。
いつも通りの、ふっと笑うような柔らかい笑顔であった。
「グレイスやゴルカ……両親を失ったクリシェを前に、わしは当時、自分の老い先の短さを嘆いておった。二人の代わりにも、ずっとあの子を側で見守ってやりたいと思っても……年齢ばかりは何とも出来ない。村のために賊を殺したクリシェは怖がられ、居場所もなく……どうするべきかと、グレイスの代わりにクリシェの面倒を見てくれていたガーラとは何度も口論してな」
黒豆茶に口付け、ガーレン様は天井を見上げた。
「ボーガンに預けたのは、それ故。……わしが若ければ、村を出て、どこか別の場所で共に暮らすことも考えたが、年齢を考えればそう長くもない。あの子は賢く、才能があり、生きていくに不自由はなかっただろうが……だからこそ、そんなあの子に頼れる相手を見つけて欲しかった」
そして目を細めて、
「あの子を愛してくれて、見守ってくれるような誰かが欲しかった」
そう続ける。
わたしにはそれが、まるで祈るような言葉に聞こえた。
「あの当時には、今のような自分が想像も出来なかったよ。……側にはいつもクリシェが――本当に、死ぬ間際までわしの側でずっと過ごしているのではないかと思えてな」
吐き出すような声音は少し掠れて聞こえ、けれども嬉しそうに言葉は続く。
「しかし蓋を開けてみれば、こうして一人だ。クリシェは屋敷で幸せそうに、多くの人々の中で笑って暮らし……わしの方が時折会いに行っては、孫を可愛がる、どこにでもいる老人になった」
「ガーレン様……」
「それを少し寂しいと思う反面……不思議なものだが、本当に嬉しく思うのだ」
それから、苦笑ながらわたしの方を。
「わしも今では多くの中の一人としてあの子に愛されて、多くの中の一人としてあの子を愛している。あの子が愛する者も愛される者も、もはや数えきれんほどにいて、わしも今ではあの子にとって、特別な存在ではない。クリシェはその別れを悲しんでくれるだろうが……けれどその悲しみは多くの愛情に紛れて薄れ、その内に多くの思い出の一つとなるのだろう」
そんなことはない、と言いたくて、けれど口には出来なかった。
ガーレン様は父ともそう変わらない年齢であったが、父は今なお若々しく、ガーレン様はずっと年上の方のよう。
貴族でもなく、魔力も持たず、この先何年かを生きたとしても、何十年と生きる訳ではないだろう。
何を言ったところで気休めにもならず、そしてそんな言葉を求めておられる訳ではなかった。
それら全てをもはや、受け入れておられるのだから。
「女王陛下は年若いながら名君であらせられる。先日の戦が終わり、平和な日々が続くだろうし……そうである限りあの子は誰より優しい娘で、そのような日々を愛せる娘。無論全てが順風満帆とは行くまいが、側には君も含めて多くの優しい人々に囲まれて、あの小さな村で起きたようなことも起きまい。……未来が見える訳ではないが、けれどもあの子の未来は随分と明るい……多くの愛に囲まれたものになるのだろう」
声には例えようもない愛しさが込められていた。
アルガン様のように、クリシェ様のお側にいる訳ではなく――けれどもきっと、同じくらいの深い感情を、離れていても大切に胸に抱いておられるのだと、そう感じて、視線を下に。
「別れは悲しいものだと思うかね?」
「……少なくとも、今は」
「無論、悲しい別れはあるだろうだが……そうでない別れも多くある。わしも多くの部下を持った。軍を離れてから会っていないものも多くいるが、軍人ではなく別の穏やかな道で幸せになっている者も随分といるだろう。生きているのか死んでいるのかさえ、わしには分からぬことだが」
別れとはそのようなものだ、と口にした。
「人生にはそうした別れは付きものだ。死に限ったものではない。わしは彼らとこの先顔を合わせることはないだろう。けれどそれぞれがそれぞれの道を歩み、結果として別れたことは悲しいことでもない。君にもそういう友人がいるのではないか?」
「それは……はい」
姉のようであったカレン様は実家に戻り、どこかに嫁ぐことになったという手紙が届いた。
相手は下流の貴族だが好青年で、素敵な相手なのだとはしゃぐような手紙。
この先再会することは多分ないのだろう。
少し寂しく思ったものの、けれどそれは、悲しいことというわけではない。
「そういうものだよ。この先、長く生きればずっと多くの別れがあるだろう。死もまたそうした別れの一つでしかないし、結果としてそれが良い別れであれば、それで良い」
ガーレン様は優しげにわたしを見つめた。
「わしのような老人を慕ってくれるのは嬉しいが……だからと言って、悲しむ必要はない。クリシェのこともそうであるし、遠くない死を感じながらも笑い、こうして君のように優しい娘と茶を飲めて幸せを感じているところ。若い君にはまだ分かるまいが、本当に悪くないものなのだ」
いつの間にか涙が零れていて、ガーレン様は苦笑して立ち上がり、そんなわたしの頭を優しく撫でて。
「多くの別れが目映い記憶となり、時と共に薄れ揺らいでは思い出に変わり、何かを目にする度にふと、思い出しては知らずに笑みを。……その内、君にもわしのような、そんな景色が見えるだろう。その時にはこうして――」
硬く、けれど不思議と柔らかな手の感触であった。
「老人の戯言を聞きながら茶を飲んでいたことでも思いだし、笑ってくれると嬉しいものだ」
――下らない思い出の一つとして。
月ほどに様々な言葉で語られた美もないだろう。
三日月が浮かべば深黒に、満月の頃には深藍に。
星空の色を決めるはいつだって月であった。
太陽ほどには目映くなく、輪郭は明瞭――その控え目な輝きが良いのだろう。
毎日のように眺めては、月の輝きには見惚れてしまうほどの魅力があった。
それがどういうものなのか、学術的にわたしも多少は理解していたが、けれどわたしにとっての月というものは遠く彼方の風景であり、ある種の絵画のようなもの。
決して触れることは出来ない、想像上の概念であり、美であった。
――そんな場所に自分がいると思えば、何とも不思議な心地である。
遠景までぼやけることもなく、ただただ明瞭な地平線。
遠近感がおかしくなりそうであった。
砂と岩ばかりであるのもあるだろうし、遠景があまりに見えすぎることも理由の一つだろう。
太陽が見えるにも関わらず、空にあるのは夜の星空。
遠くには青い――わたし達が普段暮らす球体が、星々と虚空を背景に。
当然のように浮かんでは、宝石のように輝いていた。
「それ、黒豆茶?」
「はい、ちょっとそんな気分でして」
「わたしも飲もうかしら。あんまりこっちに来てから飲んでないし……」
セレネ様の言葉に頷き、黒豆茶をコップに注ぐ。
持って来た天幕などを一通り片付けて、帰りの支度を終えての一服。
わたしが座る木箱の隣に腰掛けて、セレネ様は黒豆茶に口付け――眉を顰めた。
「……ちょっと濃すぎない?」
「あ、薄めましょうか?」
「いや、まぁ別にいいけれど……あなたって濃いの好きよね」
「黒豆茶はその……ガーレン様がこれくらいのものをお好みでしたので、つい」
なるほどね、とセレネ様は笑って、木彫りのコップを両手で包むと青い星へと目を向ける。
アルガン様は両肩にはしゃぐお二人を乗せながら散歩をしており、リラ様はエルヴェナ様と共にクレィシャラナの儀式か何かか。
真剣な顔でぴょんぴょんと跳ねながら、月の石を積み上げて謎の塔を建築していた。
旅行をすると大抵最後はそのような組み合わせ。
元気いっぱいなお二人や謎の儀式を始めるリラ様から離れ、セレネ様は少し疲れた様子でわたしの隣でのんびりと過ごすことが多かった。
「何度見ても綺麗ですね。色々と綺麗な景色は見て来ましたが……」
「本当に。こんな所に来ることがあるなんてね。年甲斐もなくはしゃいじゃったわ」
「ふふ、夕食になってもセレネ様が帰ってこないと皆で話していました」
不思議なもので、月ではあらゆるものが軽くなるのだという。
重い星ほど重力が強く、軽い星ほど重力が弱くなるそうで、ちょっと散歩に行ってくると楽しそうにぴょんぴょん跳ねていったセレネ様は半日ほど迷子になっていたらしい。
「ただ、ちょっと寂しい所よね。空は綺麗だし、ふわふわしてるのは楽しいけれど、他には砂と岩しかないし……」
「そうですね……こうして旅行に来る分には楽しいですが、ここで暮らせと言われると辛そうです」
普通であれば呼吸も出来ないそうで、生物の類も一切いない。
草木一本生えぬ景色は、星空を除けば殺風景とも言えるだろう。
「結構満喫出来たし、わたしはこの先、二、三十年先くらいはいいかしら。海や山と違って、毎年行きたくなるようなものでもないし……しばらくは屋敷でゆっくりしてたいわ。体の感覚もズレてるだろうし」
「ものすごく体が重たく感じそうですね」
苦笑するとセレネ様は頷いて、黒豆茶に口付けた。
同じくわたしも苦い味わいに目を細め、そのままゆっくり星空を。
切り取るように、思い出の中へと閉じ込めていく。
「月から大地を見下ろしながら黒豆茶……馬鹿みたいなことを繰り返してる内に、あっという間にもう百年。時間を贅沢に使いすぎて、本当にこれでいいのかと申し訳ない気分になるわね」
「確かに、あちらにいた頃には想像も出来なかった日々です」
「わたしもよ。自分はこんなにだらしない人間だったのかと呆れちゃうわ。あの子のお馬鹿に付き合うつもりが、いつの間にかわたしもお馬鹿仲間だもの。色々苦労を掛けちゃったアレハ達が見たらどう思うかしら」
嘆息するセレネ様を眺めて笑い、少し考え込んで告げる。
「……あちらの世界で死ぬ間際、何だかとても幸せな気分でした」
「……?」
「昔の楽しい、幸せな思い出が浮かんできては、それに囲まれ……まだ見ぬ未来の景色を想像して。もしもそのまま目覚めなくても、それはそれで良いかなと少し思えるくらいに心地が良くて」
まさにそれが、ガーレン様が語ったものだったのだろう。
ただただ心地よい、幸せな時間――緩やかな日々。
「ガーレン様が亡くなった時、当時はすごく悲しかったのですが……でも実際に自分が同じ目線に立ってみると、ガーレン様は本当に幸せだったんだなと。そして多分、それはガーレン様に限らずで……この前アルベナリアに行ったときも、そんな感じのことを」
「ああ、何だかあなた、食事中もしんみりしてたわね」
「はい……ふふ、ここにいるのはわたし達だけ。多くの方達とは違う場所へと流れ、別れることになりましたが……でもああいう懐かしい景色や、懐かしい料理を味わうと、何だか……」
アルガン様の肩の上で楽しげな、お二人の姿を遠目に眺める。
「多分、色々な方が、色々なものを残そうとして下さった結果なのだろうなと思えて。その最期には、今のわたし達を思い浮かべながら、笑って旅立たれたのではないかと……不思議とそう思えました」
アルベナリアは当時のまま、美しい白の都。
カルア様達の剣術指南所からは子供達の元気な声が響いて、コーザ様達のお店では、以前と変わらぬ美味しい料理に舌鼓。
もちろんそれぞれにそれぞれの理由はあるのだろう。
けれども理由の一つにはきっと、そういうものが含まれているのではないかと思えた。
「新たな世界への旅立ちが、少しでも寂しくないように……そういう優しい祈りを込めて」
黒豆茶に、ガーレン様の優しいお顔を映し、
「……永い旅路への祝福として」
目を閉じると、自然に笑みが零れていく。
今ではほとんどの方が思い出の中に。
寂しさはやはり去来して、けれどそれ以上の温かさが、胸に宿って色付いた。
日々増えていく楽しい思い出に、多くは薄まり霞んでしまい、形をなくして行くのだろう。
けれどそうした優しい思い出は、きっといつまでも胸の中でほのかな光を放つのだ。
「さっきから一人でぼーっとしてたけれど、そんなことを考えてたの?」
「いえ、その……黒豆茶を飲んでいるとふとガーレン様のことを思い出して、つい……」
「……お願いだから一人で唐突に泣き出さないでちょうだいね。いつも何事かと思うんだから」
「そ、それは……申し訳ありません……」
目を泳がせると、セレネ様は苦笑して、わたしの頭を優しく撫でた。
「でもまぁ、あなたとは同意見かしら。こうしてあのお馬鹿達と、馬鹿みたいに月の上を満喫出来たのもそういう人達のおかげ。アルベランは理想的なくらいに終わりを迎えて、次の時代になって……そうなるように準備をしたのは確かだけれど、それだけで上手く行くものじゃないもの」
「……はい」
「あのお馬鹿のわがままが、少しでも幸せなものになればいいって……そう考えてくれた人達のおかげ。今こうしていられるのは、ただあの子がすごかったから、とかそういうことじゃなくて……やっぱりそういう人達が沢山、見守ってくれていたからだと思うもの」
感謝しなくちゃね、と優しい笑み。
「……あなたに限って、それを忘れるなんてことはないでしょうけれど」
女性にしては硬い掌は、不思議なほどに柔らかく。
そこにガーレン様の手を思い出しながら、わたしは首を振る。
「いえ、そうとは言い切れません。三日前に何を食べたかも忘れるくらいの頭ですから……百年という節目も過ぎたことですし、この辺りであちらにいた頃からここに来て百年の総まとめとして、日記を見ながら本を作ろうかと」
「……、あなた五十年くらい前にも同じような本作ってなかった? 無茶苦茶分厚いのを三冊」
「あれはあちらにいた頃の話を纏めたものですから、少し違います。今回はそうした感謝も含め、ここに来てからの百年も交えて記すものですから」
「そ、そう……」
「今回は恐らく五巻。実はタイトルも既に決まっているのですが――」
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