天地開闢、悠久長路 四

お屋敷とは楽園であり、そして美の宝庫である。

共に風呂に入るということはよくあることで、わたしは大抵セレネ様。

ただ、セレネ様も時折アルガン様達と入浴したり、一人が良いと仰る時もあるもので、そういう時にはエルヴェナ様やリラ様と一緒に入浴したりする。


「あの、どうかしましたか……?」

「あ、申し訳ありません。つ、つい、目が……」

「ああ……ふふ、いえ、見られて減るものではありませんし。本の参考になるならいくらでも」


体を洗うリラ様は笑顔で答えた。

少女のような美貌に、アルガン様と同様の女性美に溢れた体つき。

健康的に日焼けした肌と、普段布に覆われる胸元や腰のコントラストが何とも目映くお美しい。

実に魅力的な女性で、アルガン様同様のぼんきゅっぼんである。

アルガン様との違いはそんな裸体を惜しみなく、笑顔で見せてくれることだろう。

文化の違いか、リラ様は肌を見せることにほとんど抵抗がなかった。


その隣で体を洗っていたエルヴェナ様も同様。

何とも魅力的な流線を描く、すらりとした体を惜しげもなく。

どうぞお好きなだけご覧になって下さい、と言わんばかりで、わたしが不躾な視線を送った程度で気にした様子もなく、苦笑するばかり。


――その左肩には今でも、歪な星形の入れ墨。


個々人が認識している、肉体的な最盛期がベースになっているのだと聞かされていた。

エルヴェナ様が消したいならば、いつでもクリシェ様が消してくださるという話であったが、これも含めて自分であるのだと笑って仰っていたことをよく覚えている。

奴隷であったということを示す刻印――決して良い思い出でもないだろう。

いらぬお節介で、本当にそれで良いのかと尋ねてしまった時にも、これは自分と姉を繋いだものだから、と嬉しそうに。

悲しい記憶も良かった記憶も、全てを引っくるめて大切にしたいのだと仰る様が美しく、その言葉が心に深く刻まれていた。


エルヴェナ様はそんな方で、リラ様もそう。

森の中で一人、ただ証を立てるために数十年を過ごされるような方。

ここにおられる方は皆、やはりわたしのような凡人からすれば圧倒されるような克己心に満ちた方ばかりで、それもまたお美しい理由なのだと思う。

滲み出る空気というものとは別に、生き様や心持ちというものはお姿にも表れるのだ。


例えば己がアルガン様と同じ容姿であったとしても、あれほど魅力的には見えないだろう。

しかし逆にアルガン様がわたしの容姿であったとしたならば、やはり今のわたしと比べてずっと魅力的な女性に見えたに違いない。

自分の容姿は少なくとも悪くなく、そこそこくらいには見てもらえる方だとは思っていたが、内面的な美というものはそんなものとは無関係。

仮にそれが宝石でもないゴツゴツした岩であろうと、削って磨けば立派な彫刻にもなっていくもので、そしてこのお屋敷はそういう方達の集まりである。


そして、そのように削って磨き上げられた宝石の彫刻を、こうして毎日のように眺めて感動することが許される幸福な人間など、この世において己の他にはいないだろう。

己が平凡であって良かったと思えるのはそんな時であった。

無論わたしもそのような美しさや魅力に憧れたりする時代はあったもの――けれど今ではこうも思う。

自分が普通の人間だからこそ、感動出来る部分があるのだと。

お屋敷の方達は基本的に、ご自分達がどれほど素晴らしいものをお持ちであるのかお気づきでないのである。


容姿もそう、その心根やちょっとした仕草一つ取ってもそう。

そのどれもが凡人からすれば、はっと驚き、あるいは目を奪われ、魅了されてしまうくらいであるというのに、この方達にとっては当たり前のこと。

どれほどご自分がお美しいのかなど、全く理解しておられないのである。

それをこの屋敷で一人理解した上で眺めることが許されるわたしはやはり、とんでもない幸せ者。

毎日歌劇でも鑑賞するが如くであった。

こうして一緒に湯を浴びるというだけで、目の前に広がるのは芸術そのもの。


世界各地に散らばる神話に伝承に――迷い込んだ旅人が出会う妖精や妖しげな乙女達。

もはや今では名実共に彼女達はそれそのものであるのだが、そのご自覚もないようで――ただ一人、そこに迷い込む旅人の視点で見せられるわたしとしては、何とも誘惑多き日々である。


泡を流して湯船に浸かり、本についての話を尋ねられ。

ついつい語ってしまうのはそのようなこと。


「――何事もない下らない毎日なのだと皆様仰るのですが、わたしにしてみれば本当は毎日が、小さな感動の日々なのです。朝目覚めて挨拶して、一緒に食事をして、こうして湯に浸かり……その一つ一つにも小さな発見や感動がいつもあって」

「なるほど……」


リラ様は豊かな胸をぷかぷかと浮かせながら、くすりと笑う。


「ふふ、やはりアーネ様はギーテルンス様の血を引かれているんですね」

「お父様の……?」

「ええ。あの方は本当に、真っ直ぐと人や物事を見つめる方でしたから。クレィシャラナの戦士達やにいさまも、あのような方を見習うようにと若者に語っていました」


ほのかに赤く色付く湯をすくい、両手で作るは水鏡。

そこにわたしを映し込むようにリラ様は眺め、目を細める。


「嵐に乱れし濁流も、静けさの内には水鏡。水はどこまで行っても水でしかなく、全ては眺める側の心次第。……何事もない日常を尊び、他人へ素直な尊敬を向けては心を震わせて。そのようにただただ美しいと語ることが出来るのは、アーネ様の心根が美しければこそでしょう」

「そ、そんな……」


そんな言葉に頬を染めると、リラ様は懐かしむように笑った。


「ギーテルンス様もそのような方でした。平地のよそ者と理不尽な悪意を向けられて、酷い言葉を吐かれても、クレィシャラナの美しさばかりを笑顔で語り……いつの間にかそんな者達さえ、あの方を慕うようになって。本当に人というものを愛されているのでしょうね」


リラ様の笑みにはやはり、聖霊巫女と称されるに相応しい柔らかさ。

薄紅の水面を揺らしながら、落ち着きのある優しい声で語り、真っ直ぐとこちらを見つめた。


「わたしもそんなギーテルンス様を尊敬していますし、同様にアーネ様も。そのような自然体で他人を笑顔で語れてしまう心根は、願っても得られないものですから。……ふふ、アーネ様がわたし達に感じるような何かがあるとするならば、それはわたし達がアーネ様に抱いているものと同じくです」


それからリラ様は、ですよね、と同意を求めるようにエルヴェナ様へ目を向ける。


「ええ、本当に……ふふ、アーネ様が本当に平凡で、どこにでもいる普通の人間なのだとしたら、あちらの世界はここと同じ楽園になっていますよ。我々が自分のことを過小評価しているだなんて仰るアーネ様こそ、ご自分を過小評価しているのではないかと」


エルヴェナ様はゆらり、と水面を掻き分けて近づくと、わたしの頬に両手を当てた。

鼻先が触れあうほどに顔を近づけられて、


「え、エルヴェナ様……?」


わたしが固まると、笑みを浮かべて目の中を覗き込むように。

切れ長で、焦げ茶の瞳は驚くほどに深く、美しく、吸い込まれるようであった。


「アーネ様はわたしにないものばかりお持ちですよ。きっと、ベリー様も同じ事をアーネ様に……わたし達からすればアーネ様はそのように見える、とても美しい方ですから」


濡れた体も滴る雫も、その全てが美しい。

快活な美人、という女性であったカルア様とは瓜二つ。

けれど宿る魂一つでここまで違うのか、と思ってしまうほどに別人に見え、エルヴェナ様は思わず胸をドキリとさせるような、そんな魅力を漂わせる。


「ベリー様の当然がアーネ様の当然でないように、アーネ様の当然はわたし達に取っても当然のものではないのです。お綺麗で、いつもいつも目映くて、真っ直ぐと見つめると目が潰れてしまいそうなくらい……」


囁くような、耳をくすぐられるような声音。

不思議と目を逸らすことも出来ず、頬を撫でられると心臓が破裂しそうなほどだった。

エルヴェナ様は楽しそうに目を細めると、ふわりと離れて、再びリラ様のお隣に。

わたしは固まったまま――同じく口をぽかんと開いて固まったまま、顔を真っ赤にしているリラ様を眺める。


そんな中、エルヴェナ様は一人ニコニコと、何でもないような顔をして首を傾げていた。

どうかしましたか、と言わんばかりの表情に、邪気というものは欠片もなく――それを見たわたしは、ばしゃん、と湯に潜り、心を落ち着ける。


前々から、エルヴェナ様には時々あることなのだ。

そろそろ慣れるべきだと頬をつねり、湯の中で目をぎゅうと閉じ、それから再び水上に。


「……?」


やはりエルヴェナ様は晴れやかな笑顔でニコニコと、視線でこちらに尋ねてくる。


「い、いえ。何でも……」


首を振ると、そうですか、といつも通り。

すぐさま話も別の話題へと切り替わり――このようにお屋敷というものは、何とも甘く、耽美な空間なのである。

この程度は日常風景、その序の口。

一々驚いていては身が持たない。


普段は小言と文句を繰り返すクレシェンタ様も、一度クレシェンタ様(犬)に切り替われば、


「くぅん……」

「まぁ。甘えん坊さんですね」


などと、一日中口付けをねだる有様を見せつけられるのだ。

いつものように抱っこされ、アルガン様にちゅっちゅっと口付けながら上の階に連れられていくクレシェンタ様(犬)。

それを風呂上がりに眺めていたわたしとリラ様は、しばし無言で立ち止まる。


「ふふ、わたしはクッキーを焼いてきますね」

「あ、はい……」


そしてエルヴェナ様の言葉で我に返っては動き出し、アルガン様達と同じく階段を上がるとリラ様のお部屋に。

部屋に入ってからも、何とも言えない沈黙の時間。

とりあえず、と紅茶を用意していると、座布団にぺたりと座るリラ様が、気まずい静寂を破るように口を開いた。


「そ……、その……クリシェ様はともかく、やはりクレシェンタ様が普段あのように過ごされているというのは意外と言いますか、驚きと言いますか……な、慣れませんね」

「お、お気持ちは、えと……わたしも初めて目にしたときは驚きましたし」


内戦の最中――ベルナイクでの戦いで寝込んだクリシェ様が、肌と肌が癒着するのではないかという勢いでアルガン様にくっつき、甘えていた時のことが思い出された。

恐らくはリラ様も、あの時のわたしに近しい気分なのだろう。


このお屋敷に来てから何度そのような驚きがあったものか。

それを経験してきたわたしにはもはや今更。

先ほどのような光景も結構さらりと流せてしまう部分はあるのだが、しかしリラ様は一年ほど経った今でもまだ慣れていないご様子であった。

ああいう光景を目にする度、何やら気まずい空気が生じてしまう。


リラ様は今も、胸と腰に布を巻き付けたようなお姿。

わざわざ紐と布からご自分で手作りして、下着のような格好で普段から過ごされる方である。

正直最初の頃は、失礼ながら文化的に羞恥心というものが存在しない方なのではないかと思っていたのだが、クリシェ様がアルガン様に口付けするという、このお屋敷の日常風景(目撃頻度からすると平均で一日二十を容易に超えると思われる)にさえ未だに戸惑われることが多い。


それはそれでこれはこれ。

恐らく恥じらう基準が違うだけなのだろう。

先日アルガン様のドレスをお試しで着てみることになった際には、鏡に映った自分の姿に顔を真っ赤にしておられたし、まるでご自分が裸体を晒しているかの如く恥ずかしがっていた。

むしろ裸を見せるのは平気な方だというのに、文化というものは不思議なもの。

とはいえ、アルガン様でさえ普段からあのようにお過ごしだというのに、妙なところで恥ずかしがるところがあるため、案外人間というものはそういうものなのかも知れない。


「な、何となく、その……聞きづらかったのですが」

「はい、何でしょう?」

「王国では女性同士で、えと、愛を交わすと言いますか……そういうことはもしかして、一般的だったのでしょうか?」


顔を赤らめるリラ様を見て、考え込む。


「一般的かと言われると悩ましいところではございますね……しかし禁じられているという訳でも。場所によっては同性愛を禁じる国があるとは聞き及んでいますが、クレィシャラナではもしや?」

「いえ、明確に禁じられていた訳ではないのですが。一般的ではなかったもので……」

「なるほど……ただまぁ、アルベランはその点で寛容と言えば寛容な方でしょう。男女問わず同性を愛されたという偉人はいらっしゃるようですし、吟遊詩人の語るものにもいくつか」


記憶を探ってうんうんと頷く。


「お屋敷では誰も夫を迎えませんでしたから、そのようなお話は暗黙の了解とされていましたし……エルヴェナ様の姉君であるカルア様のお相手も女性。こちらに関しては周知され、それが周囲でも普通に受け入れられていたと聞きます。お二人ともお綺麗な方ですから、無論残念に思われる殿方は多かったでしょうが……」

「そうなのですか?」

「ええ。少なくとも恥じるようなことでもない、という見方でしょうか。お屋敷に関しては跡継ぎの問題などもございますし、女王陛下の私生活に関する噂話をするのは不敬ということもあり、大っぴらに語られることでもなかっただけで……」


大っぴらでないだけで噂話は随分と聞いたものだが、半分は興味本位や話の種。

もう半分は跡継ぎへの不安に関することだろう。


「ただ、基本的に好まれないということは確かとも。殿方であれ女性であれ、基本的にはお家を継いでいくために子を残さなければならないという事情がありますし、そういう意味では同性を愛するというだけで醜聞になりえます。特に長く続く家ほどそうした面も強いでしょうし……」

「……なるほど」

「逆に、そうした面を除けばそれほど悪い見方をされている訳でもありません。聖霊と共にお帰りになったクリシェ様とお目覚めになったアルガン様が、多くの方の前で口付けを交わされたそうなのですが……」

「そ、そのようなことが……?」


ええ、と頷く。

その光景は額縁に飾って置きたいくらいの、何とも美しいものであったのだろうが、それを見逃してしまったことは今も心残りであった。

無論、当時はそれからも色々とあり、それどころではなかったのだが。


「しばらくあちこちで話題にはなったようですが、それで悪評が、ということもなく。セレネ様も仕方ないと諦めておられたようですし、そのくらいのことだったようです。クリシェ様のおじいさま、ガーレン様も――」


そう口にして、当時のことを思い出す。

ガーレン様の優しげに笑うお顔がふと浮かんだ。






――それは五大国戦争が終わった頃のこと。


ガーレン様のお住まいは一級市街ではなく城下町にあった。

集合住宅の一部屋――ダイニングとベッドルームだけという、お立場からすれば小さく狭い部屋。

きちんとした維持管理人もいる集合住宅ではあったが、ガーレン様はアルベリネア直轄軍副官。

やはり普通はそのようなお立場で住む部屋ではないだろう。


部屋の中もまた簡素で、飾りの類は皆無。

クリシェ様とアルガン様が来られたとき、これでは流石に寂しいと置いていかれた植木鉢が二つあるくらいで、目立つものは弓や矢、剣と鎧と砥石くらい。

最初から用意されている椅子とテーブル、ベッドやタンスの他は家具という家具もなかった。


クリシェ様やセレネ様は一緒に暮らしてはどうかと声をお掛けになったようだが、衛生的な問題で迷惑を掛けるというのがガーレン様としては気になったらしい。

排泄物の問題は確かに、貴族とそれ以外の方が共に暮らす上で大きな問題であった。

とはいえ、貴族であっても子供の頃には排泄を行なうものであるし、頻度は少ないものの、大人になってからも排泄を行なう方はいらっしゃるもの。

王領の中にも肥だめ程度はあったし、イルネ屋敷で仕事をしていた頃にはそうした処理も仕事の一つ。

わたしもアルガン様達も気にならないことではあったのだが、やはり抵抗がお有りだったのだろう。


アルガン様のお話では以前のクリシュタンド屋敷の頃から、その辺りはご自分で処理されていたようで、それを前提に作られ、管理されているような今のような場所の方が気兼ねないのかも知れない。

そうしたことを不潔だと強く嫌う貴族の方は多いもの――悲しいことではあるが、平民は貴族になろうと家畜と同じ、などと堂々恥じることなく口になさる、信じられない方も中にはいたりする。

ガーレン様は年齢も含めて様々な面で、クリシェ様やクリシュタンド家に迷惑にならぬようにと随分と配慮されていたようであるし、色々なことを考えた結果なのだろう。


そういう事情もあり、ガーレン様はこうして城下町の集合住宅に。

クリシェ様は当然、わたしとしても残念ではあったが、毎日ドジばかりをして叱られているところを見られずに済んだということを思えば良かれ悪かれであろう。


自分は田舎育ちの狩人だから、気を遣わずとも構わない。

そう仰るガーレン様は本当にわたしのドジも気にならないようで、屋敷ではないのだから練習のつもりでやりなさい、と謝るわたしにいつも笑って口にした。

わしの妻や娘に比べれば随分器用だと、何をしても嬉しそうに――懐かしむように、昔話を語りながら。


皿を割っても壺を割っても、まずは怪我の心配を。

物はいつか壊れるもの、仕方が無いとアルガン様も笑ってドジをお許し下さる方であるのだが、そう口になさるアルガン様自身は一切、失敗という失敗をされない方である。

やはり、そんな方と共に行なうお屋敷仕事は少しばかり緊張する面がある(緊張して余計に失敗する負のループである)のだが、それを多分ガーレン様は察して下さっているのだろう。

いつもいつも、わたしの緊張も和らげるように優しい言葉。

それに甘えるのはどうか、とは思いつつも、二人きりの時には気持ちも和らぎ、多少は落ち着いて仕事も出来ていた。


セレネ様からの手紙を畳んだガーレン様に黒豆茶を差し出す。

ありがとう、と礼を言ってからわたしに尋ねた。


「セレネへの返事を少し考えたいが……すぐに戻るのかい?」

「いえ。今日は女王陛下もお休みですし……ガーレン様がよろしければ、また夕食を作らせて頂こうかと思うのですが……帰りはカルア様が、エルヴェナ様を迎えに来られるついでに立ち寄って、夕方送って下さるということで」

「なるほど……そういうことなら、気遣いはありがたく受け取っておこう。君も飲むといい」

「……はい」


自分の黒豆茶を注ぎつつ微笑む。

一人暮らし――食事はやはり外が多いらしい。

誰かと酒場に行ったり、屋台で買ったりというのが主。

もちろん暇があれば自分で作られることもあるそうだが、年齢が年齢。

美味しくて栄養のあるものを食べさせた方が良いと、元々こうしてお使いで出向いた際にはついでに食事を持って行くことは多かったのだが、


『クリシェとしてはちょっと心配なのですが、アーネもお料理がすごく下手って訳ではないですし、おじいさまも気に入ってるみたいなので……』


というクリシェ様のお言葉を頂き、ガーレン様の所へお使いに行く際はこうして、時折夕食作りも任されるようになっていた。


お屋敷において、お料理というものはあらゆるお仕事の中でも別格。

普段はアルガン様にのみ許され、クリシェ様がその補佐をし学ばせてもらうとても神聖なお仕事(クリシェ様の中ではそうなっているらしい)として位置づけられている。

それを自分に任せてもらえるときほど、使用人として誇らしいこともなかった。


顔に出てしまったのだろう。

苦笑するガーレン様に謝りつつ、持って来たクッキーと黒豆茶を口にしながら、しばらく歓談を。

内容はやはりお屋敷のこと、クリシェ様のこと。


「――竜……あ、聖霊と共にクリシェ様が戻られた時も、アルガン様をお守りせねばとわたしは何故かフライパンを掴んで待ち構えていて……後になって思えば間抜けも間抜け、大間抜けです。お屋敷ごと吹き飛ばしてしまうような相手に何をしようとしていたのかと……」

「くく、しかし咄嗟のこととなればそういうもの……わしも櫓の上からあの巨体に弓を構えておったのだから、人の事は笑えん」


アーネが目にしたのは、アルガン様と共にクリシェ様が出ていかれた後のこと。

王領を囲む城壁まで上がれば、はっきりと見えるほどの巨体。

まるで城のような大きさで、あんなものがこの世にいるのかと驚いたもの。

いかにガーレン様が弓の名手とはいえ、流石にその矢が通じるとは思えない。


「ガーレン様もあの場に?」

「ああ、中で少し、少し仕事をしていてな。いざとなればせめて一矢をと思ったものだが、幸いその心配もなかったようで……わしも安心した」

「なるほど……ふふ、わたしやエルヴェナ様は遠目に聖霊を眺めるのが精一杯で。今となればなりふり構わず、走ってでも追いかけておけばと――あ」


言いかけて固まる。

ガーレン様が居合わせたということはやはり、お二人の口付けはもちろんご存じなのだろう。

いや、ご存じどころかご覧になっていたのだろう。

誰が言い出した訳でもないのだが、お屋敷ではガーレン様の前でその話をしないという暗黙の了解が出来ていたし、ここの所は色々な問題で慌ただしかった。

いつの間にかついつい忘れてしまっていたのだが、とはいえ非常に気まずい話題ではある。


思わず口走ってしまった己を罵倒し目を泳がせ――そんなわたしを眺めて首を傾げたガーレン様は、理解したように苦笑する。


「そう気を遣わずとも構わんよ。……クリシェがあのように、心から愛する人を見つけられたことは、わしにとっても本当に喜ばしいことだ。ベリーも同様……二人とも多くのことを容易にこなしてしまえる娘だが、それ以上に不器用な娘だから」

 

とても柔らかい笑みを浮かべながら。


「クリシェは良くも悪くも幼子のような娘だ。一緒に暮らしていれば分かるだろう?」

「……はい」


クリシェ様はぷりぷりとお怒りになるのだろうが、否定は出来ない。

それは事実と言えたし、わたしもクリシェ様のそんな所を愛しいと思っていた。


「愛にも色々な形があると思う。親に対する子の愛、子に対する親の愛、兄弟姉妹、あるいは友へと向ける愛。クリシェも愛を知らぬ訳ではなかった。ただ、子供の愛とは受け身で独りよがりなもの……愛に対して愛を返す、そういうものでしかない。……だが、クリシェがベリーに向けるそれは、そういうものとは違うものだ」


黒豆茶を眺めながら、ガーレン様は目を細めた。

それから普段は使わないミルクを静かに、円を描くように垂らしていく。


「愛をただ受け入れるのではなく、愛にただ愛を返すのではなく、いつか自分の内から生じた愛を、誰かに向けることができるのか……それがわしは少し不安だった。愛には愛を、敵意には敵意を――鏡のように、悪く言えば主体性もなく、その純粋さは裏を返せば冷酷さの裏返しだ。愛されなければ、人を愛するということさえも出来ないということなのだから」


そして黒き水面に浮かんだ白をかき混ぜていくように。

いつの間にかコップの内が、淡い褐色のものへと変わっていく。


「だからこそ、本当に嬉しいと思えたのだ。クリシェがあんな風に我を忘れて、誰かのために涙を流して笑う姿は……あの瞬間は本当に、変わったところも何もない、どこにでもいるような――そんな普通の娘であったから」


白でも黒でもなくなった黒豆茶に口付けて、ガーレン様は微笑んだ。


「ベリーは思慮の深い良い娘だ。物事の善悪、道理を良く理解している。愛した相手がそんな彼女であるなら、きっとこれからも良い方向に、足りないものを補ってやるようにクリシェを支え、導いてくれるだろう。そしてクリシェがそんな相手を選んだというなら、わしは祖父として言うこともないし……心の底から祝福したい」

「ガーレン様……」


そう語るガーレン様のお顔は、これまで見た中でも一番柔らかいお顔であった。

祖父として、言葉通りの気持ちを抱いて仰るのだろう。

女性同士ということをどう思われているのか、などと下らないことを気にしていたわたしが愚かに思えてしまうくらい、ガーレン様はクリシェ様のことを本当に想っておられるのだ。


「クリシェがいつか恋人でも連れてきた日には、その相手は一度くらいは殴ってやろうと思っていたのだが……くく、嬉しい反面、そういう意味では寂しさもあるな」

「な、殴る……?」

「わしにもそういう、馬鹿らしいことには憧れ程度はあるものだ。結局、娘が夫を連れてきた時も、そう考えていただけで出来なくてな。散々放ったらかしにしておいて、今更偉そうに父親面も出来んと」


この先も機会はなさそうだと残念そうに。

けれど晴れやかな表情で笑い、そんな言葉を口にした。


「まぁ、わしに気を遣うことはない。相手が男でもなく、ベリーが相手ということで色々気遣う所もあったのだろうが……とはいえ驚きもない。どこかで不思議と、わしもそんな気がしていたのだろう。共に暮らす君にとっても、恐らくはそうであろうが……」

「それは……はい」


以前からのお二人を見ていれば、当然のようにも思える。

少し前、帰郷を終えた辺りからはより一層――クリシェ様は『綺麗』が分かるようになった、というようなことを仰って、分かりやすい変化はそのくらいだろうか。

ただ、屋敷で過ごす人間には、その『綺麗』というものがどういうものかは何となく、理解していたように思う。


クリシェ様は宝石を見ても、希少価値が高い石、くらいにしか見ていなかった方。

輝きが、透明感が、だとか、わたし達が思う綺麗さというものにはあまり興味がなく、それは花や星空、景色を見ても同様。

だからこそ、そんなクリシェ様が語る『綺麗』という言葉は単純なものではなく、本当に様々な意味合いが込められた『綺麗』なのだろうと思う。


口付け一つに多くの何かを乗せるように、クリシェ様の綺麗は特別な綺麗。

綺麗だと口にしながら、アルガン様を見つめるその視線は、多分そういうものであった。

お二人は帰郷したときのことについて多くを語らなかったが、何かしらの出来事があったに違いない。


それからも多くのことがあって、けれどようやく色んなことに目処がついて。

お幸せそうな今の姿を見れば、ただただ良かったとそう思う。


「……本当に、とてもお似合いでしたから。クリシェ様にお仕えするアルガン様……そんなお二人を見たからこそ、わたしもここにいる訳ですし」


ガーレン様は嬉しそうに頷いて、目尻に皺を。


「あの子が本当に自分から、愛を向けられるようになったのだ。立場も性別も、その大きな喜びの前には霞んで消える。愛を全うすることほど大切なこともそうあるまいし、そうした相手を見つけたのならば……」


そしてそのまま遠くを眺めるように、どこかを見つめる。


「人生で得られるものは多くない。人は完璧ではないし、失敗もする。大きな何かを掴もうと、自ら多くを手放してしまうこともある」


けれど本当に大切なものは少しだけだ、とガーレン様は続けた。


「けれどクリシェならば、ちゃんとそれが理解出来るだろう。わしのように掌から零すこともなく、ちゃんとそれを大切に出来る子だ。その上でクリシェがそれを望んだのならば、これ以上わしが口にすることもないし、後はこの先の未来を祈って託すばかり」


それから、真っ直ぐとわたしの目を。


「あの子は本当に、優しい者達に囲まれた。そういう意味で不安もない。普通ではなかったあの子に、ごく普通の幸せを教え、与えてくれているのはベリーだけではないし、君もまたその一人だろう」

「そ、そんな……わたしは――」

「君が自身の愚かさと語る部分には、クリシェに欠けた多くのものが含まれている。わしの娘が伝えようとしていた大切なものを、あの屋敷で一番多く持っているのは、間違いなく君だよ」


柔らかな瞳で見つめ、指で頭を示す。


「大事なものはここではなく――」


それから敬礼をするように、


「――いつだって、ここにあるものだから」


胸に手を当て、微笑んだ。











「――ガーレン様は、そのような、お話をわたしに……」

「そ、そうですか。あ、あの……タオルを……」

「すみませんっ、ありがとうございます……」


渡されたタオルで涙を拭いつつ、しばらく呼吸を整える。


「……話も少し、脱線してしまって」

「い、いえ、そんなことは……」


苦笑しながらわたしの背中を優しく撫でつつ、リラ様は続けた。


「でも……そうですね。そうしたお話を聞いて、改めて考えてみると……一般的にどうなのか、だなんて、あまりに失礼な疑問かも知れません」

「いえ……初めて見て戸惑われるのはやはり、自然なことだとは」

「いえいえ、本当に恥ずかしいくらい浅慮でした」


ようやく顔を上げると、リラ様は再びご自分の座布団へ。

少し考え込むようにしながら言葉を紡ぐ。


「……それがどうであれ、無関係。愛とは外見や性別などというものを超えたところで紡がれるものということなのでしょう。そもこの体に性別という概念は無価値なものと言えますし……クリシェ様達が以前の体にしてくれただけで、しようと思えば聖霊の姿にさえ出来てしまうそうですし……」

「そういえば……そんなお話がございましたね」


リラ様は苦笑いを浮かべた。

聖霊巫女として聖霊にお仕えするためにリラ様はお屋敷に。

それもあってここに来てからしばらくした頃、思い出したかのようにクリシェ様が尋ねたのはこんな言葉であった。


『そういえば、とりあえずリラも以前のリラと同じ人間の体になっているのですが、どうしますか? もしリーガレイブさんみたいな体が良いなら、一応そういう体を用意することも出来るのですが……』


クリシェ様にとっては全くの善意から来る言葉。

そしてリラ様はとても真面目な方である。

もしかしたらリーガレイブさんも喜ぶかも、とぽつりと漏らしたクリシェ様の一言に、本気でそうするべきなのではないかと三日ほど真剣に悩まれ――


『く、クリシェ様もその、一応聞いてみた、くらいのことですし……そこまで思い詰めなくても大丈夫ですよ。きっとヤゲルナウス様もリラ様の外見を気にはなさらないと思います。そ、それにですね、クリシェ様もリラ様にお料理を食べて頂くのを本当に楽しみにしておりますし、わたしもそうですし……』

『で、ですが……』

『そうよ、あの子の言うことは気にしないでちょうだい。え、ええとね、ほら、それに巫女が聖霊の姿を真似なんて畏れ多いじゃない? うん、そう、そうよ、巫女なんだからこれまで通りでいいと思うわ。大事なのは気持ちよ気持ち。気持ちさえあれば――』


などと、見かねたアルガン様やセレネ様に説得されていたことも記憶に新しい。


聖霊にさえ肉体を変えることができるのならば、異性の体にするなどもっと容易だろう。

そういう意味では確かに、性別という概念もここにおいては無価値であった。


「器が違えど紅茶は紅茶であるように、そういう見方をすればやはり浅慮と言うべきです。この世界に来ては尚更、見かけのどうこうなどというものは些細な違いでしょうし……そういう意味では、愛とは究極、魂の結ぶものと言えるのかも知れません」

「……はい」

「先ほどお話に聞いたガーレン様も、恐らくはそのような所を大切にしておられたのでしょう。今ではわたしの方がずっと長く生きているはずだというのに、恥ずかしい限りです」


そんなことを仰ったところで、入ってくるのはクッキーをトレイに乗せたエルヴェナ様。

少しばかりしんみりとした空気に首を傾げると、何の話をしていたのかと興味深そうに。

リラ様が少し恥ずかしそうに説明すると、なるほど、と微笑んだ。


「興味深いお話ですね。確かに一般的かと言えば悩ましいことではありますが、さりとてそれほど珍しいことでもなく。……ただまぁある意味、この世界ではそれが正常と言えるかも知れません」

「正常……ですか?」

「正常と言うより、そう考える方が気楽と言いますか」


首を傾げるリラ様に、エルヴェナ様は頷く。


「この先、永遠に共に過ごすと思えば我々も決して他人事ではありませんし、あちらでの常識に囚われない方が良いということです。我々もある意味では、クリシェ様達と変わりませんし……」


それから恥じらうように自分の頬に手を当てて、視線を揺らし、


「……その、この先、我々は途方もない時間を共に過ごす訳ですし、起こり得ることは大抵起こること。例えばお二人がこの先、あのように愛を交わす可能性も皆無とは言えないのでは?」


口にするのはそんな言葉である。

一瞬固まったわたしとリラ様は目を見合わせ、思わず顔を赤くして――エルヴェナ様はなおも恥じらうように体を左右にふりふりと。


「千年、二千年、更に先の未来にはもしかすると、あの輪の中に我々が混じっている可能性もない訳でもないですし……仮にあちらの価値観でそれが好ましくない、ふしだらな関係であったとしても、わたしはその……そういう幸せの形を含めて、全てを受け入れたいと思うのです。気楽と言うのはそういう意味合いで」

「な、なるほど……」

「ふふ、しらふで口にするのは何だか恥ずかしくなりますね」


はぁ、と溜め息を吐く姿も、エルヴェナ様はどことなく色っぽい。

ちらり、とわたしに目を向けつつ、エルヴェナ様は口にした。


「ある意味我々は、百年を共にする夫婦よりも深い間柄となる訳です。お互いをより深く知っていけば、より深い情が生まれていくもの……無論、時にはちょっとした口論程度も起きるのかも知れませんが、このお屋敷にいるのはクリシェ様との永遠を望んだ、優しい方ばかり。そうした関係になったとしても決して不思議なことではないですし……そうは思いませんか?」

「……い、今のところは畏れ多くて想像も出来ないですが、確かに仰るような可能性もないことは……その、ないような気が」


一瞬クリシェ様達のように誰かと口付けを交わす自分を想像しかけ、慌てて首を振る。

とは言え確かに、先のことは分からないこと――仰りたいのはそういうことではないだろう。


仮にエルヴェナ様がどなたかと口付けを交わしていたとして。

わたしもはじめは驚きこそすれど、それを悪い目で見ることはあるまい。

リラ様も顔を赤らめつつ、うんうんと同意をしていた。


「それに口付け一つ見ても、所詮は唇を重ねるだけのこと。我々の文化では深い親密関係を示す行為とされていますが、場所によっては軽い挨拶程度なのかも知れません。文化によってはこうして――」

「あ……」

「手を繋ぐ程度のことがそれに相当したりするのかも知れません。土地や風習によって様々な文化が存在することを思えば、あちらの常識に囚われるよりも、この世界のあるがままを受け入れて行くのが良いのではないかと」


言いながら、エルヴェナ様はリラ様の手をにぎにぎと。

リラ様は顔を真っ赤にしながらそれを見つめ――エルヴェナ様は真剣な顔でリラ様を見つめ。


「愛とは魂を結ぶもの、とは良い言葉……魂の存在となった我々にとって、確かに肉体というものは本質ではありません。考えようによっては、口付け程度のこともちょっとしたスキンシップなのかも……」


そして軽くその手を引きながら、何とも自然な動きでリラ様の側に。

気付いたリラ様が目を泳がせる。


「えと、あの……?」

「少し、じっとしていてくれますか?」

「ぇ、え……?」


戸惑うリラ様を無視するように、エルヴェナ様は身を寄せて、顔を近づける。

リラ様は仰け反るように後ろ手を突き、目を見開きながらエルヴェナ様を見つめ――それを見ていたわたしもまた、硬直しながら息を呑んだ。


「大丈夫ですよ。変なことをする訳じゃないですから」

「だ、大丈夫……?」

「ええ、ですからそのまま、動かずに……」


目を泳がせるリラ様の右頬に、エルヴェナ様の左手が。

リラ様はそれを横目に眺め、エルヴェナ様を眺め、そっと近づくその顔と真剣な目に、観念したように目を閉じた。

見ているわたしは口を押さえたまま、呆然と――


「……へ?」


いつのまにか取り出したハンカチで、リラ様の口元を拭き取るエルヴェナ様を眺めた。

間の抜けた声を上げたリラ様が目を開き、同じくそのハンカチを見つめ、エルヴェナ様だけが一人、ニコニコと笑顔を浮かべて告げる。


「ふふ、クッキーの残り滓が少し口元に……ちゃんと綺麗になりました」


そして何事もなかったように自分の座布団へと戻り、顔を真っ赤に硬直したままのわたし達をじーっと眺め、何とも不思議そうに首を傾げた。


「あの……どうかされましたか?」

「いっ、いえっ、な、何でも……」

「は、はい、何でも……あ、そ、そうです、お茶のお代わりを用意しますねっ」


ありがとうございます、などとにっこり笑顔を浮かべるエルヴェナ様。

いつも通りの優しげな笑みが、何故かいつも以上に楽しそうである。


しかしそのように見えてしまうのは、わたしの心が穢れているからなのだろうか。

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